第8話 彼女の家
駅前の高級住宅街、そこの2番目に高いマンション。
あれが彼女の家。
ーピンポン
エントランスで彼女の部屋のインターホンを鳴らす。
『はい』
「伊世早です」
俺はマイクに向かって自分の名前を名乗った。
『今開けますね』
最近聞いた中で一番張りのある声がインターホンから飛び出す。
スムーズに入口の扉が開き俺はエントランスホールの正面エレベーターに乗り込んだ。
高層マンション。
―チン
32階で降りる。
降りたところを右に曲がり少し歩く。
ーピンポーン
俺は慣れたように3208号室の呼び鈴を鳴らした。
ガチャガチャ。
二重ロックを解除する音が終わると....。
「お帰りなさい」
ゆっくりと扉が開いた。
ラフなTシャツの上にサーモピンクの無地のエプロン姿。
高めの位置で1つ結びした髪がゆさゆさ揺れている。
「こーくん!久しぶり」
会いたかった。
そう言って笑顔を向けてくる俺の嫁は今日も可愛かった。
「お帰り」
別に我が家ではないが彼女がそう言うから。
「ただいま」
俺はそう言って玄関へ入った。
忘れる前に渡しとかなきゃだよな。
俺はエナメルバッグとはまた別に家から持ってきた茶色い手持ちサイズの紙袋を渡した。
ずっと手に持っていたから持ち手がクチャっとシワが寄っているのは許してくれ。
「え?どうしたのですか?」
俺が彼女の目の前に袋を差し出すと、久しぶりの手土産に驚いていた。
「やる。見てみ」
袋の中を見るよう催促する。
「う、うん」
玄関先で渡すかリビングに入って渡すか迷ったが、こういう物は早目に渡した方が良いだろう。
彼女は半信半疑のような眼でそっと袋を受け取りカサコソと包装された中身を取り出した。
セロハンテープを丁寧に剥がす。
「ふわぁ!!」
包み紙の中を覗いた彼女の目の色が変わった。
彼女はなにも言わずきらきらした瞳で俺を見てくる。
良かった。
喜んでくれているみたいだ。
「いいんですか?」
「ああ。前に欲しいって言ってただろ?」
前って言っても随分昔だが.............。
中々無くて色々探し回ったから遅くなった。
王冠をモチーフにしたネイルビンの中をピンク色の小さなバラの花が漂う。
まるで小さなハーバリウム。
ボタニカルボトリング製法で、オイルの中に花が入った、ネイルオイル。
見た目はネイルっぽいが、ファッションメイク用ではなく、爪や指先の保湿をするもの。
フローラルアロマの香りがするらしい。
仕事で頻繁にネイルをするから爪のケアは大切だ。
前にテレビ特集でやってて、物欲しそうに見てたから...。
今、ネイルオイル流行ってるらしくて、この、瓶の中に花が入ってるやつ中々店頭に無かった。
3店舗くらいは梯子した。
「こーくん!ありがとうございます!大切にします!!」
そう言って彼女は紙袋を大切そうに抱えた。
こんなに喜んでもらえたらそんな苦労は一気にチャラだ。
■■■■■
まだ玄関に突っ立ったままの俺は、エナメルバッグをフローリングの上に置き、靴を脱ぐためにしゃがんだ。
くんくん。
ん?
彼女は俺の首筋に鼻を近付けてきた。
すんすん。
鼻を子犬のようにひくひくさせている。
ん?
「こーくん、良い匂いする」
あー、シャンプーの匂い嗅いでたのな。
「シャワー浴びてきたから」
「なるほどなのです」
彼女は、納得したと、今度は、俺の顔を見つめてきた。
......。
........。
二人の間に沈黙が出来る。
理由はじーっと穴が開きそうなぐらい彼女が澄んだ瞳で俺を見てくるから。
じー。
つ。
じーーーーーーーーーー。
つっ。
じーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
な、何だ?
その反らしたくても反らせない視線に俺は負けてしまった。
「どした?」
気恥ずかしくてポリポリと頬を掻きながら尋ねると彼女は視線を外し、にへらっと笑った。
「こーくんに全然会えてなかったから、リアルこーくんをアップデートしてた」
なるほどな。
今度は俺が納得した。
「シャワーしてコンタクトじゃないメガネ姿のこーくん激レアです!更新しなくてはです!」
ちょんと敬礼してみせた。
「そか」
それを言うなら、俺だってテレビの中じゃない愛莉を見るのは久し振りなんだからな?
そう思っているのだが、彼女のあまりにも可愛い仕草に俺は短文の相槌を返すのが精一杯だった。
「ふふ。こーくん照れてる?可愛い」
「うるさい。照れてない」
「じゃ、後ろ向かないでこっち見てください?」
わざわざ顔を背けたのに俺の前に回り込もうとしてくる。
「無理だ」
「なんで?」
「....」
説明は出来ない。
「照れてるからですね?」
「違う。」
すーはー。
平常心、平常心、平常心、平常心、平常心、平常心、平常心、平常心、平常心、平常心、平常心、平常心、平常心、へいじょうしん。
俺はひと呼吸置いて彼女の言う事を聞いた。
「....ほら、向いたぞ.......って、愛莉、お前も顔赤いじゃねーか」
なんとか無心で振り向いた彼女の顔は照れ色だった。
「ふふ。だって久し振り過ぎて顔合わすの恥ずかしいもん」
嬉しいのに....恥ずかしぃ。
彼女は少し顔を隠した。
じゃ、お互い様だろ。
久し振りに再会した俺達は、お互いの顔を見つめられない付き合いたての様な微妙な距離感に心をくすぐられてしまっていた。
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