第二十八話『深夜の影』
その日の夜。街が寝静まった深夜の時間だった。
夕食の後、部屋でシャワーを済ませ、ルミナとノワールの三人でカードで遊び、そして遊び疲れていつの間にか寝てしまう。そんな夜を、セリカは過ごしていた。
だらしなく口を開けて、気慣れた猫の絵が描かれた寝衣を着て、セリカがベッドで心地よさそうに眠る。
ふと、ノワール達が泊まる部屋の扉が開かれた。
音を立てずに、静かに扉が開かれ、そして閉められる。
無音の空間。寝息しか聞こえない部屋に、ひとつの影が歩いていた。
不思議と足音ひとつ鳴ることもなく、その影が一歩、また一歩をゆったりとした足取りで歩く。
その影は、ベッドで眠るセリカを見つけると――腰に携えていた剣を引き抜いた。何故か、剣を引き抜く鉄の擦れる音すら、聞こえなかった。
まるで誰もいないような無音で、その影は動く。そして手に握った剣を眠っているセリカへ突き立てた。
後はその剣を押し込むだけで、剣先で眠るセリカの胸にそれは突き刺さる。それは大人ですら一撃で絶命する致命傷となるだろう。
呼吸をするような気軽さで、その影が剣をセリカへ突き立てる瞬間――
「あら? お客様かしら? 風の術式を使ってわざわざ音を消すなんて……こんな不躾な殿方を呼んだ覚え、私にはないのだけど?」
その影に、一人の少女が声を掛けていた。
その影が声の主に振り返ると、その少女――アタラクシアは部屋の椅子に座りながら、グラスに注がれた酒を楽しげに口へと添えていた。
酒を飲み、そして嬉しそうに小さくアタラクシアが微笑む。
その影は動揺のあまり固まっていたが、すぐに行動を開始した。
手に握る剣を、その影がセリカへ向ける。そしてそのまま、その影はセリカへと突き刺した。
「駄目よ。その子は私の楽しみなの」
パチンと、アタラクシアが指を鳴らす。
その音がなった途端、セリカを突き刺そうとしたその影の剣は、彼女の首筋でピタリと止まっていた。
突然、自分の突き刺した剣が制止したことに、その影が動揺する。
どうにかセリカを殺そうと剣を押し込もうと試みるが、その影が必死に剣に力を込めても、剣は少しも動くことはなかった。
しかし剣をセリカに押し込むことはできなくても、動かすことはできた。その影が咄嗟にセリカから剣を離そうとすると、いとも簡単に剣は動いた。
「また同じことをするというのなら、今度はあなたを殺すわ。考えて行動しなさい」
「貴様ッ――! 石持ちかッ!」
「あら、術式を解いたのね。声が聞こえてるわよ?」
驚いて叫ぶ影に、アタラクシアは平然とした声色で話し掛ける。まるで今の状況は、何事もない日常のような態度だった。
その態度が、自分を馬鹿にされたと感じたのだろう。その影はセリカへ向けていた剣を、勢い良くアタラクシアに向けていた。
「私に剣を向けるのは控えた方が良いわよ。あまりおすすめする選択とは思えないわ」
しかし剣を向けられても、アタラクシアは表情を変えなかった。
むしろ恐怖心など微塵も感じさせない態度に、その影は何を思ったのか身構えた。
「あら、頭は回るみたいね」
「ッ――‼」
その場で、影が右手をアタラクシアに向けた。
『風よ――その加護を、その刃を以て、敵を切り裂け!』
迅速な早口で、その影が唱える。
その声と共に、影の手から見えない風の刃が五つ飛翔した。
『闇よ――我を守れ』
しかし影の手から風の刃が飛翔すると同時に、アタラクシアも小さく唱えていた。
アタラクシアが人差し指を影に向けると、彼女の前に大きな円状の陣――魔法陣が現れる。
既に飛翔していた五つの風の刃は、アタラクシアが生み出した魔法陣によって防がれていた。
「なッ――! 第一魔法で防いだだとッ‼」
「詠唱を三節……第三魔法まで使えるなんて驚いたわ。あなた、良い魔法石を持っているのね」
驚く影だったが、アタラクシアは気さくな笑みを浮かべていた。
魔法を行使するにあたって、基本的な使用方法は詠唱を用いて行われる。
属性の指定を行い、詠唱を行う。第一魔法を使用する為の詠唱は一節。使う魔法の位が高くなるにつれて、詠唱は長くなる。第二魔法ならば二節、第三魔法なら三節の詠唱が必要となる。
アタラクシアに向けて、影が放ったのは三節を用いて行使された風の第三魔法だった。
「簡単に第三魔法を使うってことは、おそらくあなたの持っている魔法石には、まだ余力がありそうね。良いわ、好きに撃ってみなさい」
酒を飲みながら、楽しそうにアタラクシアが笑う。
明らかに余裕を見せる態度を見て、影は思わず後ずさった。
しかし影は、それでも右手をアタラクシアに向けて――唱えていた。
『炎よ――その加護を、灼熱の炎を――』
「それはやり過ぎね。それだとこの建物が全部燃えてしまうわ」
途中まで唱えられる詠唱に、アタラクシアが面倒そうに眉を寄せた。
影が使用した魔法を、アタラクシアは即座に察知した。影の使用する魔法の威力ならば、容易く今いる宿を燃やし尽くせると。
炎の属性指定と、四節の詠唱。それは第四魔法に部類される魔法だった。
アタラクシアが、そっと右手の人差し指を影に向ける。その指が差していたのは、影の手首だった。
『その力を以て、焼き尽――!』
『闇よ――穿て』
影の詠唱が行われても、アタラクシアの詠唱が速かった。
アタラクシアの手から黒い球が飛翔し、影の手首を瞬時に撃ち抜いていた。
「馬鹿な……ッ!」
詠唱を中断され、影が瞠目する。
発動の早い魔法で詠唱を中断されたということは、詠唱している魔法の内容を瞬時に察知していなければできない。
影が対峙しているのは、小さな子供だった。とても魔法の発動を察知できるとは到底思えなかった。
しかしその判断を瞬時に行い、そしてそれに対抗する方法を瞬時に行ったアタラクシアに、影は彼女に対する警戒心を一段階上げていた。
「思わず手が出てしまったわ。加減を知りなさい」
そして呆れた表情を見せたアタラクシアを見て、影は困惑した。目の前の少女に、まるで敵対心が見えない。
明らかに相手にされていない。敵と認識されていないアタラクシアの態度に、影は動揺する。
「うーん、うるせぇな……なんだよ、さっきから」
そんな時、ふとベッドで寝ていたセリカが唸りながら目を覚ました。
「クソッ――‼」
セリカが目を覚ましてしまった。そして自分が彼女を殺すことができないと、影は理解した。
その瞬間、影はアタラクシアに剣を投げながら、勢いよく窓から外へと飛び出していた。
「あらあら、もう行ってしまうの?」
投げられた剣を指で簡単に弾いて、アタラクシアが窓の外に視線を向ける。
「あとは任せたわ。ノワール」
アタラクシアが呟く。そして何事もなかったように、また一度酒の入ったグラスを口に添えて、彼女は酒を飲んでいた。
「今、なんかあったか?」
「何もないわ。あなたは気にせず寝てなさい」
パチンと、アタラクシアが指を鳴らす。
そうするとセリカは、また静かに眠っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます