知っている人、知らない人

紫蘭

 その日は夏ど真ん中のような日で、煌々と太陽が照り付けていた。夏休みになると曜日感覚が狂ってしまうけど、今思い返せばお父さんがいたんだから多分日曜だったんだと思う。

 家から十分もかからない場所にあるその中華料理店は、木目調の内装がレトロな雰囲気を醸し出していて、わたしはそれが気に入っていた。入り口の扉には大樹のような筋が入っていて、ドアノブを引くと金属とガラス玉が触れたような音が鳴る。

「いらっしゃいませ~!何名様ですか~?」

 知らない声にわたしはパッと顔を上げる。そこにはお店のエプロンを付けたポニーテールのお姉さんが立っていた。ネームプレートには、宮野と書いてあった。知らない人、しかもとても綺麗な人を前にして戸惑ったわたしは思わず固まる。

「あれ、新人さんですか?」とお父さんが訊くと、「もしかして常連さんですか~? 私、昨日入ったばっかりなんです~」とそのお姉さんは笑顔を振りまく。笑顔が眩しすぎて、やっぱり美人は苦手だと心の中で呟いた。

 それでもわたしは好奇心に勝てず、お父さんの陰からおそるおそるお姉さんを見た。目を引く明るい茶髪は少し動く度に揺れていて、目鼻立ちの整った人だと思った。ほんのりと化粧をしていて、長い睫毛がくるんとしていて可愛かった。

 お姉さんを見ている間にいつもの窓際の席に通されていて、切り株のようなテーブルの両端に座った。左側には大きな鏡があって、これ幸いと鏡越しにお姉さんをうかがう。するとなぜか目が合って、お姉さんは微笑んだ。その表情にわたしは思わずドキッとして、目を逸らす。お姉さんはメニューをテキパキと広げて、「お冷お持ちしますね~」と髪を揺らしながら厨房の方に消えた。

 当然まだバイトをしたことがないからよく分からないけど、新人さんってこんなにスムーズに動けるのかな? と疑問に思っていると、すかさずお姉さんが戻ってくる。

 お冷を置いて去ろうとしたお姉さんを呼び止めて、お父さんが注文をする。わたしはドキドキが消えなくて、ずっと下を向いていた。

「母さんに声は掛けたのか?」

 唐突にお父さんが話を振ってきた。わたしは慌てて顔を上げる。

「暑くなるから嫌、って」

「そうか」

 お父さんとの会話はいつも長くは続かない。共通の話題がないことも理由のひとつだけど、多分お父さんはわたしにあまり興味がない。


 お母さんは身内の贔屓目を抜きにしても、美人に分類されると思う。お母さんの意見は絶対で、わたしもお父さんもそれに逆らえない。

 お母さんはわたしが人見知りを発動したときや、どんくさいことをしてしまったとき、わたしをひどく叱る。どうして他人と仲良くできないのって言うけど、だって他人なんだよ? そう思っても、わたしは何も言えないから、綺麗なお母さんが怒っている顔だけが脳裏に記録されていく。

 でも、こんな出来損ないの娘、お母さんは好きじゃないんだろうな。


 料理を食べている間、他のお客さんが来るたびにお姉さんは笑顔を振りまきながら店内を忙しなく動いていた。注文を取ったり、会計をしたり、料理を運んだり、気が利く、仕事のできる人なんだなぁと思った。気になってちらちらと見ていたら、その度に目が合った。目が合うたびに痛いくらいにドキッとして、どうしてこんなに気になってしまうのか分からなかった。そんなことを思いながらお姉さんの一挙一動をこっそり見ていたら、お父さんとの会話が余計におろそかになってしまっていた。お父さんもそんなわたしに、敢えて会話を振るようなことはしなかった。

 担々麺は辛くて美味しかったけど、食べたような気がしなかった。ずっと気まずさと好奇心がぐるぐるしていた。

 会計のとき、笑顔とともにお姉さんが「また来てくださいね~」とクーポン券を渡してくれた。

 わたしはお辞儀をするのがやっとで、逃げるようにお店を出た。


 *


 それからというものの、いつ中華料理店に行ってもお姉さんはシフトに入っていた。すっかり他の常連さんとも打ち解けて、「宮ちゃん」と呼ばれていた。

 ご近所さん曰く、お姉さんは夏休みの間だけこの街に帰省している大学生らしかった。お姉さんは綺麗な人だし、明るくて周りにすぐに馴染んだので噂が広まるのは早かった。お母さんが何の気なしに夕飯の話題に上げたとき、わたしは思わず箸を落としてしまった。箸を拾って洗いに行く間中、わたしの頭の片隅には実際に見たわけじゃないのに、お母さんが眉を顰めている顔がちらついていた。


 その少し後、久しぶりに家族三人でその中華料理店に行ったときのこと。お姉さんはその日もテキパキとお店を回していて、それは鮮やかなほどだった。

 お母さんはお姉さんを見て、なにか嫌なモノを見たような顔をした。それからお母さんは、わたしをじっと見た。まるで「アレの何が気になるの?」と言われている気がした。わたしは耐えられなくなって、目を伏せる。お母さんはもう興味を無くしたようで、お父さんに言葉を浴びせ始めた。わたしはそれをどこか悲しく思っていた。

 帰るとき、わたしがトイレに行って戻ってくると両親は既に会計を終えていて、外に出ようとしているところだった。わたしは慌てて追い掛けようとすると、「綾ちゃん」と名前を呼ばれた。

 振り返ると、手を後ろにして笑顔でわたしを見つめるお姉さんがいた。

「……なんですか」

「可愛い名前だなぁと思って」

「あ、ありがとうございます」

「もちろん、綾ちゃんも可愛いよ」

「……!」

 他人に可愛いなんて言われたのはいつぶりだろう?

 わたしは動揺して、何も返せなかった。その日どうやって家まで帰ったかも覚えてないほどに。


 八月に入ってすぐ、部活の友達である奈々子と遊ぼうという話になった。郊外に最近できた喫茶店に行こうと誘われたのだ。しかし、その喫茶店は運悪く休業日でわたしたちは近くの業務用スーパーでアイスを食べて帰ることにした。

「やってなくて残念だったね~」

「ちゃんと調べて来ればよかったな~。ごめんね綾、無駄に移動させちゃって」

「また来ればいいじゃん、ね?」

 そう言ったけど、内心とても疲れていたし気分もあまり良くなかった。でも、わたしは笑顔を保った。

 たわいのない話をしながらスーパーに入ると、冷房が効いていて逆に寒いくらいだった。二人とも来たことのないスーパーだったので、右往左往しながらアイスコーナーを探す。結局かなり遠回りをして、辿り着いたアイスコーナーで値段をチェックすると想像よりもはるかに安い値段で驚いた。「近所のスーパーよりも三十円も安いじゃん」と奈々子が言うので、わたしたちはそのアイスのソーダ味を選んだ。

 奈々子が先に会計を済ませて、いざわたしの順番になって凍り付いた。

 レジを打っていたのは、あのお姉さんだったのだ。しかし、今日のお姉さんはいつもと大きく様子が違っていた。中華料理店のときはポニーテールだったが、今日は低い位置でひとつに束ねているだけだった。化粧もしていないし、伏し目がちで顔色も悪そうだった。

 声を掛けようか迷ったけど、本当に具合が悪そうだったからわたしは意を決して口を開く。

「あの、宮野さん!」

 彼女はけだるそうにわたしを見て一言。

「どなたですか?」

 思った以上の冷たい台詞にわたしは固まる。ネームプレートを確認すると、宮野ではなく、斎藤と記してあった。違う人と言われても信じられないほど、顔立ちはそっくりなのに。混乱する頭でアイスの代金をなんとか支払い、彼女の前からまた逃げ出した。

 人見知りのわたしにとっては勇気のいる行動だったのに、あんな返しをされて、わたしは恥ずかしくて居ても立っても居られなかった。スーパーを飛び出して、入り口の近くのベンチに座っている友達の元に駆け寄る。

「あれ、アイスは?」

「え? あ!」

 そう言われて初めて、お金を払ったのに商品を置いてきたことを思い出した。わたしは、どうしよう、と焦る。今から取りに戻ったらまたお姉さんじゃないけど、お姉さんみたいな人と会って話さなきゃいけない。でもそれは絶対に無理!

「あの、」

 声を掛けられて、振り向くとそこにはお姉さんみたいな人が立っていた。表情は暗いままだが、視線はきっちりわたしを捉えている。

「これ、忘れてましたよ」

 お姉さんのような人が差し出したアイスはもう半分融けていて、受け取ると手に水滴がついて、指を伝っていく。

「あ、ありがとうございます」

 彼女は渡し終えて満足したようで、踵を返して去って行く。わたしは冷たい言葉をこれ以上聞きたくなかったのでほっとした。

 しかし、彼女は出入り口の少し手前で立ち止まると、再びわたしの前に戻って来た。驚いて硬直しているわたしの耳元に口を寄せて、お姉さんのような人は言う。

「ふたりだけの秘密だよ?」

「……⁉」

 弾かれたように彼女を見ると、口元には前に見た微笑みを浮かべていた。

 やっぱり、あのお姉さんだ!

「綾の知ってる人?」

「ううん、違うよ」

 奈々子は納得いかないような顔をしていたけど、それ以上は何も訊かなかった。

 わたしの脳内ではお姉さんが言った、秘密という言葉が何度もリフレインしていて、不思議と幸せな気持ちになった。


 *


 そのあとすぐお姉さんとわたしはSNSのアカウントを交換した。中華料理店でIDの書いてあるメモをもらったとき、どれほど嬉しかったことか!

 わたしとお姉さんは、夜遅くまでいろんな話をした。学校の話、嫌いな先生の話、好きなテレビ番組の話、お母さんがあまり得意ではない話、美人が苦手な話。でもお姉さんは平気だという話。どの話にもお姉さんは優しい言葉を返してくれて、わたしはとても嬉しかった。他人に肯定されることがこんなにも嬉しいことだったなんて知らなかった。


 お姉さんはあまり自分の話をしたがらなかった。でもどうしても気になって、名前を複数持っている理由を訊くと「みんなに私を好きになってほしいんだ」と返ってきて、わたしは後ろ指を指されている気がしてドキッとした。




 夏休みが終わる頃、お姉さんにバッティングセンターに行こうと誘われた。わたしは二つ返事で待ち合わせ場所に向かった。夏休みが終わるということは、お姉さんも大学に戻ってしまうということだ。その前に会いたいと思っていたから丁度良かった。

「綾ちゃん」

 待ち合わせ場所には既にお姉さんがいた。今日はハーフアップをしていて、風に髪がたなびていた。手をひらひらと振っているお姉さんは今日も可愛くて、わたしはぺこりとお辞儀をした。

 お姉さんは、今日のわたしの恰好を一通り褒めてから「じゃあ行こっか」と歩き出した。バスで今から目的のバッティングセンターに行くと言うので、わたしは驚いた。一番近いバッティングセンターは待ち合わせ場所からバスを使うほどの距離になかった。

「でも、そこじゃないとダメだから」

 わたしはお姉さんの後ろを黙って付いて行く。バスに乗って、辺鄙な場所でバスを降りたけど、確かにバッティングセンターがあって、わたしは驚いた。

 バッティングセンターなんて来たことが無かったから、ランダムな打球音に驚きながら建物の中に入る。お姉さんは勝手知ったるといった様子で、ずんずん進んで行く。

「あ、林さーん」

 受付のような場所にいるお婆さんにお姉さんが声を掛けた。お婆さんはゆっくりと顔をこちらに向けて、「よく来たねぇ、南ちゃん」と目を細めて笑った。

 また知らない名前だ。わたしは斜め掛けカバンの紐をギュッと握る。

「今日は綾ちゃんも一緒に来たんです」

 お姉さんはわたしの両肩に手を置いて、お婆さんの近くにわたしを立たせた。背後のお姉さんからは甘い香水の匂いがして、少し顔が赤くなる。お婆さんはそんなわたしを見て大きく頷くと、お姉さんの方を見て、突然泣き出した。

「元気そうでよかった、ほんとうに心配してたんだよ」と泣く林さんを見て、わたしは当惑した。何が起こっているのか分からないのに、お姉さんがそんな林さんに頭を下げたので、さらにわたしは困惑した。

 また、お姉さんが知らない人のように思えて、わたしはたまらなくなった。

「林さん、本当にありがとう」

 お姉さんの言葉に林さんは何度も頷きながら、「南ちゃんはよくやったよ」と繰り返す。林さんが泣き止むまでかなりの時間がかかったけど、その間わたしは他人事のように思いながらふたりを見ていた。

「ウチは狭いとこだけど、楽しんでね」

 林さんがわたしの手を握ってそう言ったので、手を握り返して、「はい」とだけ答えておいた。

 林さんが他のお客さんの対応に向かったのと同時に、わたしとお姉さんは一番端のブースに移動した。網の手前のベンチに並んで座る。

 本当はどういうことか説明して欲しかったけど、そうしたらお姉さんが帰ってしまうような気がして、わたしとお姉さんは何もなかったようにバッティングセンターを楽しんだ。




「今日はどうだった?」

 お姉さんが帰りのバスの中でそんなことを訊いてきた。

 わたしは迷ったけど、結局、正直な気持ちを言うことにした。

「お姉さんが知らない人みたいで悲しかったです」

「知らない人か」とお姉さんは呟くと、それ以上は何も言ってくれなかった。

 わたしは気まずくなって寝たふりをしたら、本当に寝てしまって、起きたらお姉さんの肩にもたれかかっていた。寝ぼけた目で、外を見るとバスは近所のバス停の近くを走っていた。

「綾ちゃん」

「……なんですか?」

「他人なんてみんな知らない人だよ。自分ではその人のことを知っているつもりでも、絶対そうじゃないんだよ」

「わたしも、ですか?」

「うん。私は綾ちゃんに見せてない私がたくさんあるし、綾ちゃんにとって私は知らない人なの。もちろん、私にとっても綾ちゃんは知らない人だよ」

 お姉さんが言いたいことが分からなかった。分かりたくもなかった。

 それがお姉さんと話した最後の日だった。




 

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