第11話 砂を噛むようなひと時
「ねえ」
「……」
「聞こえてる?」
声の方に顔を向けると、テーブルに座っている理子が携帯から視線を外して睨んでいた。
「え……あれ」
「食べないの? いい加減ボーっとしてないでさあ」
キッチンから顔を覗かせると、テーブルには朝食が並んでいる。自分と理子の分。毎日毎日繰り返してきた何でもない風景。私は思わず辺りを伺った。そばには料理した跡がある。シンクには子どもの頃からよく見かけた母の片付け方で、自分の手は少し濡れている。その瞬間、がりっと違和感が爪を立てた。
……いつだ? いつ私はここに――
無意識に行動を起こすことはある。
本を読んでいてページをめくるように。クーラーの電気を切るとか、ガスの元栓を閉めたとか。料理もそう。決まった場所にある調味料を使い、元に戻したり。誰でも似たような経験があるだろうし、それ自体はおかしいことじゃない。
でも、私にとって……起きてからドアノブを回すのは……無意識では絶対にしない。出来ないことなんだ。いくつもの思考の段階を経て、呼吸を整え、ようやく手を伸ばす。そんな自分の中で決まった順番が、確かにあったはずなのに!
昨日……倉田さんが亡くなった時も、似たような事が起きていた。記憶の抜け落ち、と言うよりも時間が飛んだみたいな。そして今朝。部屋を出て、キッチンで料理をして、手際よく食器以外の片付けまで済ませたなんて憶えてない。ただ洗いものをしていた感覚だけが、指先に残っている。
「なに手なんか見て……あんた、酒でも飲んでた?」
「違う」
理子の言った、酔っぱらった状態には似ているかもしれない。ただ最後に飲んだのは……短大を卒業した時の夜まで遡る。お祝いの場で断るのも迷惑かなって考えで、すいすいお酒を進ませてしまった。友だちと一緒にいなければ、家に辿り着けなかったほどの醜態を晒して、正直あまり思い出したくない。
母にもお酒はよそ様で飲んじゃダメと諭され、理子にも軽く絶縁されかけた。その日以来アルコールは絶対に口にしないと決めている。あれは人に迷惑をかけてしまう、私の行動理念の対極にあるもの――
「そうね。酒の匂いはしない」
理子が顔を寄せて来る。
私が酔っぱらっているか、と言うよりも目を合わせて隠し事がないか探るような感じだ。
「だから違うって」
「ただ、いつもと同じってワケでもない……それも違う?」
「……」
「訪問介護ってあんたの仕事上。高齢なら亡くなることも、その場面に出くわすこともあるでしょうよ」
「な、なんで知ってるの?」
所長が自宅に電話してきたときに話した?
いや、そんなはずは……仕事で得た情報は施設外に漏らさない。それは本人が一番気を付けているし周りに徹底させている。ということは、ああ、ダメだ。頭の中が散らかって全然分からない。
「どうして……?」
「黙れ。別に電話じゃそんなこと言われてない。でも、少し考えれば想像はつくわ。上司から片付けや忘れ物の電話が来て、帰ってきたあんたが落ち込んでいた。それは事務作業というよりは対人のトラブルが主な原因。同僚と上手く行っていない、とかならもっと前から顔に出ているはず。なら利用者関連。それも急な話。訪問介護を受けている人で、重い病気とか事故じゃないとしたら――ほら、もう絞れた」
「嘘……」
「そうよ。最後はカマをかけたの。あんたを誘導するのは簡単ね。どうせ考えるだけ無駄なんだから、深く考えない。気が滅入るだけ損。それとも好きなの? 自分で自分の首を絞め、追い詰めていく感覚がさ……ホント頭おかしいんじゃない? 過ぎたことをいつまでも掘り起こす。その度に苦しんで立ち止まる。カタブタを剥がし続ける子どもより愚かで度し難い」
何も言い返せない。
理子が朝食を食べ終わり、大学に向かうまで動けなかった。妹の言う通り、私は停滞している。立ち止まり続けている。理子は家を出るまで何も言わず、冷ややかな視線を一度向けるだけだった。
妹の使った食器を洗いながら、自分の分の朝食がまだテーブルに残されているのを見た。料理には不思議な力がある。特に家族と食べる時にはいつもその力を感じていた。学校に行くのが辛い時も、理子とケンカした時も。みんなで朝ごはんを食べると自然と笑顔になる。悩みだって解決する気持ちがいつだって湧いてきた。
私はきっと無意識に、テーブルへ二人分並べたんだな。一緒に食べても何の味もしないけれど、理子と食べようとしていたんだ。その方が家族らしいから。
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