第10話 朝もやけを見送りながら




 ……静かだな。

 雪が降っているみたいに寒くて、何の音もしない。ベッドから視線だけを動かして窓を見る。夜空が少しずつ白み始める時間。携帯のアラームも目覚まし時計も、じっと出番を待っている。そりゃあそうだ。起きる時間はもっと後なんだから。今日に始まったことじゃない。いつからか、一日がどんな日であっても、私は私を動かす為の準備が必要になった。それも結構な手間がかかる。


【別に起きなくてもいいんじゃない?】

【今日も明日も休みだし。朝ごはん食べなくてもいいよね?】

【理子は私がキッチンに居ても居なくても気にしないし】

【北川愛理という存在が誰かに影響してる訳でも、誰の時間を奪っている訳でもない。私なんかが何をしたって、大して変わらないんだ】


 ゆっくりとベッドに腰をかけて、ドアの方を向きながら聞こえない振りをする。仕事や出かける時も毎朝同じ。私は弱音を吐き尽くして出なくなるまで待たなければならない。ドアを開ける、って行動と理由はいつも心の奥にへばりついているのだから。


 身体を動かすとっ掛かりがどうしても掴めない。一度動きだせば、あとはあれこれ余計なことを考えずに済むのだが……ずっと前からこうだ。これは私の癖になってしまって戻らない。


 父は数年前、心臓を悪くして死んだ。

 あの日のことはよく覚えている。父が珍しく誰とも言葉を交わさずに仕事に向かって、出て行くドアの音で気がついたから。そしてそのまま――病院で、いや、病院の救急搬送裏口で対面した。午後に仕事場で気分が悪くなり、休憩室で横になったまま意識を失ったらしい。


 会社の同僚は誰一人気付かなかったのか? 辛そうにしているサインを読み取る人も、直前に言葉を交わした人もいなかった? なら父の疲れた姿が職場では見慣れたものだったのか? どうして父が。なんで父が……最悪を避けることは出来なかったのか。


 夜の救急搬送口、救急車から担架に乗せられた父はすでに冷たくなっていた。動かない、と言うよりはもう死んでいたように思う。不安をにじませた表情の母から聞いた話ではこれから緊急手術をするらしい。


 どうして。なんで。死んでいるのに手術をするんだろう。

 また私の胸に疑問が浮かんでは沈んでいった。死んでいる、という状態から戻すために、心肺蘇生や電気ショックのようなものをするのではないのか。そんな光景は一度も見ていない。それとも私たちには分からないが心臓は動いている? あんなに冷たいのに? そしてどうしてこんなに手術の順番待ちがあるのかが不思議だった。ずっと待っているのは、なんで……先に運ばれている奴らは父より優先される重篤患者なのか? なら父は助かる見込みはあるってこと? でもそんなこと誰も言ってはいない。 頭の中でぐるぐると思考がかき混ざり、沈んだ疑問を巡らせた。

 その時に見た理子の横顔……あれは二度と思い出したくない。


 結局、父は死んだ。

 そのこと自体に驚きはしなかった。てはつくしましたが。という医者の口ぶりには首を傾げたけれど。すでに死んでいた気がしていたし、改めて伝えられて納得も出来た。


 その代わりに、お通夜もお葬式も立ってお辞儀をして座る、それしかできなかった。ご飯を食べたいという気も起こらなかったし、眠りたいとも思わなかった。何かをするときに、強いブレーキがかかるようになってしまった。なんで食べるの? どうしてそうしなくちゃいけない? そこまでする理由がある? 私のぽっかり空いた心は疑問で埋められていった。


 母がきつい口調で私に声を掛け、命令に従う形じゃないと日常生活に支障の出る日々を繰り返すうち……自分一人では何も出来なくなっていた。


 あの時期から、理子の様子が明らかに変わったように思う。

 私に対して積極的に関わろうとしなくなったし、何の期待も掛けなくなった。理子なりの悲しみに向き合う時期だったのかも知れない。無関心に近い関係は今も続いている。でも気にはならない。湧き上がっていたのは、自己嫌悪の感情だった。母が私のことなんかに構っている、ただただ心配させていることに苦痛を感じ、そのたびに頭を叩き割りたくなるのだ。自分を嫌いになる、という気持ちが初めて理解できた。


 母に迷惑を掛けさせちゃダメ。その想いで学校にも通い続けた。普段の自分を演じてさえいれば、友だちは私の変化には気付かず周りと等しく扱ってくれる。【私のために誰かの時間を使わせない】ずっとずっとそう言って呪文のように命令を繰り返していくと、平気な顔をすることには慣れた。たまにどの自分が本物か分からなくなる時がある。そして今も……心にはブレーキがかかったままだ。

 

 太陽が昇りだし、窓の外は動き始める。

 私はベッドから一歩も動けない。ただ静かに心の底が揺れないように待つ。父が死んだあの日から、私の中に雪が降りだした。疑問と後悔が代わる代わる重なって降り積もり……視界だけがどんどん悪くなっていく。まるで子どもの時に買ってもらったスノードーム。自分で勝手に揺らして、勝手に我慢して、落ち着くのを待つ。バカみたいだ。バカみたいだが、それが私だ。


 それか、ねじ仕掛けのオモチャかな。

 巻いた分だけ進んで、。今はその途中。家にもあったなあ。くまのぬいぐるみ。背中のねじを回してって、よくせがまれてたっけ。

 巻きすぎて壊れたことがある。おもちゃもあたしも。母が亡くなった時も酷かった。あれだけ神さまに頼るなって言って聞かせてたのに口から出るのは願うだけなんだから。助けて欲しいだの自分と苦しみを取り換えて欲しいだのぐちぐちぐちぐち……ムカつくなあ。父や母とは違うんだ。頭がおかしくなるまで、身体壊して死ぬまで家族の為には動けない。自己犠牲とは程遠い、そういう人間なんだよ。

 だって役立たずな命に意味を持たせられるってのに、その為に死ぬことができないんだから。大した夢も生きる目的もないあたしがだ。ふざけてるよなあマジで。結局両親に何もしてあげらなかったのに、何で生きてるんだお前は?


 ネジの外れた人形はただのくまのぬいぐるみになった。

 

 では、あたしは?

 動けなくなったら何になるんだろう? 

 生きてる限りは動くつもりだけど。


 そこに意味はあるのか?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る