第47話 絵画との対峙


 他の入館客と同じように順路に沿って歩いていく。並べられたナミノキョウイチの絵が次から次に目にはいり、その世界にぐいぐい惹き込ませに来る。


 緑あふれるのどかな草原。夕暮れ時の橋。

 ねじれた顔と手の人物画。木漏れ日が差すさびれた小屋。

 海の見える廃墟。夜の街角を歩く人。

 水槽を隔てたようなぼやけた室内。


 様々なモチーフに鮮やかな色彩。間違いなく観る人を唸らせる迫力がある。躍動感どころじゃなく本当に生きているようだ。この絵画たちには岡崎さんのその時持っている技術すべてが込められてるのが分かるし、作品を追うごとに荒々しさが抜けて洗練されていくのも伝わる。


 ……ただ倉田さんの絵の方がもっとずっと、すごかった。


 二人の絵には、どちらも動きを感じられる。イチョウの葉が風によそいだり、人がどんな風に歩いてきてどう通り過ぎるのか、草木の揺れ、髪の流れる様子、雲や波の動き。まるで描き手の込めた魂で動くように。

 どの部分に差があるんだろう……あえて言うなら解像度というのか、倉田さんの絵の方がよりなめらかな動きをイメージできる感じだ。そして彼女の絵だと見えないものまで動きを読み取れる気がする。空気のよどみ、感情、その息遣いまでも。絵の微妙なタッチ違いや解釈の度合いで人の好みは分かれるかもしれない。

 でも、やっぱりあたしは……倉田さんの絵の方が好きだな。


 その想いは、ナミノキョウイチの後期の絵や評価の高い数点の作品を辿って歩いても変わらなかった。自分と同じ間隔で鑑賞している人たちはため息を漏らし『ここの色のセンスが』とか『思い切った筆の動きがとても』とか感じたことを口々に呟いている。

 飾られてる絵はどれも評価されるべき魅力があると思う。誰が見ても華やかで美意識ってものが磨かれると思うよ。

 なら倉田さんの絵も、誰もが目に止まり鑑賞されていい絵だ、って言われてもいいじゃないか……寂しさのような、じめじめした苛立ちが少しずつ大きくなる。しばらく絵を見ることもなく、視線は床を彷徨った。




「お姉ちゃん」

「え、あ、理子。もう二階はいいの?」

「重要な見落としは特に無し。涼に任せて良かったってところね」

「……そう」


 理子はあたしと同じように壁を背にする。

 視線をあげて光の柔らかい照明を見ていた。


「収穫はあったわ。二階で興味深い話を聞いたの。今回の催しは、生前の岡崎が創作活動を終えた時に美術館にお願いしていたそうよ。自分の死後か号令をかけた時、ナミノキョウイチの絵画を速やかに集めて回顧展を開け、ってね。つまり開催自体は予め決まっていた。ここまではいい?」

「けっこう前に決まってたのなら、危険はないのかな?」

「ただ岡崎の願い通りになってるとは言えるから……でね、幾つか注文があったんだ。まず、繋がりのあった各新聞社に催しの広告を打つようにと。そして……これが重要だとあたしは思うんだけど、って強い要望を伝えたらしいんだ。遺言状代わりにお達しまで添えてあったそうよ」


 確かに今は岡崎さんの要望通りの状況。

 絵を見る人を集めたかったのか? 何のために? 全国的に関心を集めていてテレビや携帯のネット記事でも情報は出てる。彼は死ぬことも計算に入れていた? あんな凄惨な死に方が予定通りだったとでも……いや、単に亡くなったから遺言を履行したんだきっと。その方がよっぽど自然な考え方だ。


「そしてその注文の絵は順路の最後、向こうの展示室にあるの。二つの絵画。なんか倉田さんの呪われた絵をどうしても想像しちゃうけど……関係はありそうよね?」

「確かめてみよう。その為にここに来たんだ」

「お姉ちゃんは気分が悪いみたいだし、休んでたら?」

「冗談でしょ? あんたに任せてなんてられない。ここのみんなは自然な日常で絵を観てる……でもあたし達は、不自然な非日常に今もいるんだ」


 理子は怒ることもなく、小さな笑みを返した。

 展示室は順路の終わり際、その横にある。わざわざ通り過ぎる人はいない。美術館の作りからも最奥の展示室にメインの大物を置くものだ。展示室から出る人は、階段で二階へ行くか、出口から帰るか、あるいは見方や視点を変えて二週目の順路に入るかになる。


 部屋の中を見ると数点の絵画があった。

 近くの説明書きを読むと、何かの受賞作の絵で、ナミノキョウイチを代表する作品のようだ。たくさんの人だかりが出来ていてよく見えない。入館客の目当てで、これだけは観て帰ろうとするらしい。たしかに涼くんのレポートの画像でも見た気がする。

 逆に一つの絵にはそこまで足が止まっていない。他の絵より小さいからか? 首を傾げている客もいる。人物画? 女性の――


「お姉ちゃん。これって……」

「うん、若い頃の倉田さんだ」


 ベンチに座りこちらを見上げている倉田さんの絵。イチョウの葉が散っていることと、脇の道や色からあの団地だと分かる。何となくどこかへ出かけた帰りな気がする。デートというよりも共通の用事を済ませたような。

 そこまで考えて二人が恋人の関係だと普通に思っている自分に気付いた。この時期、この場所で倉田さんを立って見ている構図は岡崎さんにしか出来ないし、何より倉田さんの視線は……心から信頼している人だけに向けるものに違いない。すてきな絵。あたたかい時間の流れまで手に取れるような、すてきな絵だ。


「人気がないのは、他の絵より一回り小さいから……あれ」

「どうしたの?」

「理子。倉田夫妻の屋敷で見た、白い方の絵を憶えてる?」

「白一色で塗っただけの、ちょっと小さい絵?」

「絵の端を見て。同じ白い絵の具が少し残ってる」

「ホントだ。下地に塗ったんじゃなくてこの絵を描いてから上から重ねてある。削った痕跡も……でもどうしてここに? 倉田さんの二つの絵は燃え尽きた。あたしが詳しく聞いたからそれは確実なはず」

「この絵は共に暮らしていた相手をモチーフにしてる。ならお互いの肖像画を持ってたんじゃないかな。岡崎さんは倉田さんを描いていて、倉田さんの絵はその逆。……当時はその関係も明かせなかったから、白く塗り潰して隠した、とか?」


 時が過ぎて、あるいは画家として成功し世間に出せるようになったら、表面を削るつもりだったのかもしれない。彼の意図は読み取れないが、事実としてその機会は生きているうちに訪れなかった。


「今となっては分からないけどね。お姉ちゃん、呪いの絵みたいな感じはする? あたしには普通の絵にしか見えないけど……」

「いい絵だよ。嫌な圧力というか、禍々しさは全然ない。同じ時期に描いたのに、この違いは……? それとも倉田さんの絵だけか? 団地の片隅に埋めてあった彼女の未練、呪いの根源と岡崎さんは関係ないからかな?」

「関係ないってことはあり得ないんだけどな……」

「そうなの?」

「ああいやたぶん。あたしのも推察でしかないからさ」


 行列がやっと動き出し、入場客の鑑賞するローテーションが替わる。自分たちは次の絵を……岡崎さんがここに展示しろ、と強く言い残したもう一枚の絵を見た。

 それは『銀杏イチョウの並木』というタイトルの絵だった。黄色い絨毯の並木道に、小さい子どもが歩いている。その先の公園や広場に向かって遊びに行く風景画。


 思わず息をのんだ。

 今までの絵とは何だったんだ? そう頭によぎるほど比べ物にならない、圧倒的に迫る力。魂の薄皮一枚どころじゃなく、ありったけの……文字通りナミノキョウイチの魂を感じ取れる。


 そしてこれは――岡崎さんの感情が入り混じっている。幸せな未来。あたたかな愛と……それを塗り潰すような後悔と絶望がこめられている。

 倉田さん描いたのと同じ。呪いの絵に違いなかった。

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