いのりのはま
ケン・チーロ
いのりのはま
俺はカメラを持っている事を思いだし、足を止めた。隣にいる彼女に、少し待っていてくださいと告げ後ろを向いた。バッグから古いデジカメを取りだし、ファインダを覗く。
そこには、誰も居ない白い砂浜があった。
Ⅰ
四月の沖縄は涼しい風が吹く。開いた窓から、その風に乗って少し外れたトランペットの音が聞こえて来る。
――吹奏楽部の新入部員、何人かな
俺はそう思いながら、放課後の廊下を所属する部室に向って歩いていた。中学の頃はSF研究会と言う、存在も活動内容も超日陰者の部活動から一転、趣味の写真を生かし太陽の元でバラ色の高校生活を送ろうと写真部に入った。
だがそこは二年生の部長一人だけの過疎部だった。新年度になった途端、数名いた先輩方が一斉に退部し、新入部員は俺一人。学校の規則では七月までに三人以上部員が揃わなければ、廃部になってしまう。
『焦る事はない。何か策を練ろう』と部長の
高良部長が窓際のパソコンの前に腕組みをして座り、パソコン横のプリンタがガーガーと音を立て動いている。どうやら写真をプリントしているようだ。そして部室中央の机には、A3サイズの写真が数枚置かれていた。
首里城や金城町の石畳が見えた。風景写真かと思ったが、その中に祈る様に両手を合わせている老婆の写真があった。
窪んだ眼窩の悲しげな小さな目は、澄んだ空を仰ぎ見ている。背景の水平線に淡い島影が浮かんでいて、何処かの浜辺で撮られた写真だと思うが、俺はその写真に目が惹き付けられた。
「部室に入る時はノックしなさい、
「これ、何ですか」
「ん?」部長が意外そうな顔をした。
「いや、この写真どうしたんですか?」
「部員募集のポスターだよ。生徒会に許可貰ったからね。後で掲示板に張り出すのを手伝ってくれ」
見ると確かに写真上部に『写真部部員募集』の文字がある。
成程と頷き、俺は老婆が写った一枚を手に取った。改めてじっくりと見る。
合掌している細い両腕と顔に刻まれた深い皺と陰影が、静かに祈る老婆の深い悲しみとして伝わってくるようで、胸が締め付けられた。
見て感動する写真では無いが、見る者の心に何かを訴えかけてくる写真だ。
「これいい写真ですね」
部長にそれを見せながら言うと、部長は苦笑いを浮かべた。
「君は大物だな。自分の写真を褒めるとは」
ん? 今俺の写真って言ったのか?
聞きなおそうとした時、バンと大きな音がして、乱暴に部室のドアが開いた。振り向くと一人の女生徒が立っていた。赤いリボンから二年生だと分かるが、俯いた顔は長い黒髪に隠れて表情が見えない。左手には何か紙を持っている。すると女生徒が顔を上げた。
ハッとする程の美人だ。だが頬は赤く上気し、大きな瞳は潤んでいる。半開きの薄い唇が微かに震えていて、ただ事ではない雰囲気が彼女から伝わって来た。
「玉城さん?」
部長の驚きの声が聞こえた。
玉城と呼ばれたその上級生は、左手をゆっくり上げた。強く握られ皺が寄っているが、彼女が俺達に見せたのは、あの老婆が写ったポスターだった。
「この……この写真を撮った人は誰?」
絞り出すような声だった。潤んだ大きな瞳が俺達に向けられる。
「そこに居る東君ですが」部長が答えた。
――俺が撮った? 思わず声が出そうになるのを堪えた。
全く身に覚えがないが、一つだけ思い当たる節はある。部長にそれを問い質そうと体の向きを変えようとした時、玉城さんが俺の前に進み出て来た。
俺は背の低い方では無いが、彼女は俺とほぼ同じ身長だった。
彼女の顔が、吐息がかるまでに近づく。こんな近くで異性の顔を見た事が無い俺は、心臓が早鐘を打ちまくった。
「どこ?どこで撮った写真なの?」
緊張と彼女の気迫に押され、咄嗟には撮影場所を聞いている事を理解出来なかった。答えずにいると彼女は更に捲し立ててきた。
「お願い教えて。おばあちゃんが、おばあちゃんに会いにいかないと」
俺はたじろぎ一歩下がったが、彼女も一歩詰めて来る。だがそれ以上は机に腰が当たり下がれない。俺の目前には、世界の終わりかと思う程の切羽詰まった顔が迫っている。クラクラする意識をどうにか抑え、俺は生唾をゴクリと飲み込み、口を開いた。
「撮影場所は、分かりません」
彼女の顔に動揺が広がるのが分かる。
「分からないって、どうして」
か細い震える声が喉から漏れる。俺は堪らず部長を見た。「この写真、もしかして俺のフォルダにあったやつですか」
部長は何度も頷いた。俺は理解した。部のパソコンに俺名義のフォルダがある。その中に、撮影の参考にと画像データを入れた。
だがそれは俺にカメラの手ほどきをしてくれた、叔父のデジカメにあったデータだ。
「あれは俺の叔父が撮った写真です」
「じゃあその叔父さんに聞けば……」
彼女は必死だった。だが俺は無情に首を振った。
「叔父は去年、亡くなりました。だから」
……亡くなった そう呟くと彼女は俺から離れた。呆然とした表情になり、持っていたポスターが手から落ちる。
突然彼女は両手で顔を覆った。
いや! 行かないで!
短い悲鳴が上がった。俺達が唖然としていると彼女の身体が小刻みに震え出した。俺は部長と目を合わす。部長が頷いた。
「玉城先輩」俺は驚かさないようにと、慎重に声を掛けた。
ビクッと彼女の身体が動く。
彼女の顔がゆっくりと細い指の覆いから現れた。先刻までの表情は消え失せ、白磁の様な白い肌は血の気を感じさせない。
大きな瞳が俺を見ていたが、その瞳から光がフッと消え瞼が落ちた。その瞬間彼女が俺の方に倒れて来る。俺は咄嗟に崩れ落ちていく彼女を受け止めたが、彼女の体温や重さを感じる余裕は、俺には無かった。
Ⅱ
マウスをクリックすると、人波溢れる商店街の写真に変わる。俺は部のパソコンの前に座り、叔父が残した写真を確認していた。
玉城さんの騒動から四日が経った。
あの後、部長は人を呼びに部室を飛び出して行った。
騒ぎを聞きつけた数名の野次馬が部室を覗きこみ、ぐったりした女生徒を抱きしめている俺の姿を見て軽い悲鳴や冷やかしの言葉を上げていたが、当の俺は彼女を床に寝かすべきか、このままの状態を維持するのかの二択を真剣に悩むほどのパニック状態に陥っていた。
やがて部長が教師数名を引き連れて来て、二人の教師が彼女の両脇を抱えて部室から出て行ったが、何があったのかと当然の質問が飛んできた。それはこっちが聞きたい事だが、そう言っても混乱に拍車が掛かるだけだ。俺が答えに窮していると、部長が見事な火消しを行った。
生徒会役員の玉城さんが、部員募集のポスター掲示の事で打ち合わせに来たのだが、どうやら貧血で倒れたのではないか。
完璧で見事な嘘だった。
後に知ったが、彼女が持っていたポスターは、実際に生徒会に見本として部長が送った物で、彼女は生徒会書記だった。
納得した教師達は、逆に俺達に労いの言葉を掛け退室していった。
「何だったんでしょうか」
「さあ。僕も何が何だか」
静かになった部室で俺達は立ちつくしていた。気づいたら西日が部室に差している。もうそんな時間かと思った時、部長が呟いた。
「ポスター、勿体ないから明日貼ろうか」
俺は軽い眩暈を感じた。
「駄目です。叔父の名に懸けて駄目です」
部長はやるせない顔で両肩をすくめた。
そんな四日前の事を思い出しながら、またクリックした。
画像データは二百枚近くあった。俺は昨日からそれを撮影年月日順に並び変え、一枚ずつ確認していった。一番古い写真は十五年前の日付から始まり、六年前で終わっていた。
例の写真は十二年前の七月二十七日の撮影と判明したが、その日付の写真はそれしかなかった。前後の写真は日付が五日以上離れていて、前は園庭で楽しそうに走る幼稚園児達で、後は病院の待合室が写っていた。これでは手掛かりには程遠い。二日がかりで全て見ているが、その殆どが沖縄の見慣れた風景や風習の写真で、老婆を写した場所を特定できるような写真は無かった。
「……やはり分からんな」俺は呟いた。
「君も頑張るね」
俺の斜め前でパイプ椅子に座り、単行本を読んでいた部長が言った。
「だが彼女の事は君の責任ではない。気にやむな」部長は単行本を閉じた。
彼女、玉城さんはもう四日も学校に来ていない。騒動があったのは月曜で、水曜に部長からその事を告げられた。
あれから二日が経った金曜日の今日も彼女は休んでいた。
「それは分かっていますけど」確かに気にはやまない。だが気にはなる。
何故彼女はあの老婆の写真を見て、あれ程までに取り乱したのか。全く理解不能だ。
「……部長はどう思われます?」
目的語の無い問い掛けだが、部長は理解してくれた。
「幾つか推論はあるけどね。例えばあの老女が生き別れた祖母だった。彼女は祖母の情報を求め写真部に駆け込んだが、君に分からないと言われショックで倒れた」
それは俺も思いついていた。何より彼女の『おばあちゃん』と言う言葉。だがそれだけで、あんな突飛な行動を取るだろうか。やはり合点がいかない。
「あとは……無いな」
ないのかよ。でもまあ俺も同じだ。
「でも本当に驚いた。普段冷静沈着な彼女が、あんな感情的になるなんて初めて見たよ」
「部長は玉城さんの知り合いなんですか?」
「小学校からの同級生だ。そうでなくても、全国模試上位の頭脳に加えあの容姿。校内で彼女の事を知らない生徒は新入生くらいの超有名人だよ」
取り乱した表情でも美人と分かる上に、頭脳明晰と来たか。そりゃ有名人だ。
「モテるんでしょうね」
下世話な感想が素直に漏れたが、部長は何故か半笑いになった。
「突撃した男子は数多いるが最初から相手にされないな。何せ彼女は僕よりも二歳年上だよ。多分来年二十歳じゃないかな」
え! 思わず声が出た。
「これも有名な話だけど、幼い時に大病を患って小学校入学が遅れたらしい。彼女の普段の落ち着き払った態度はまあ当然だな」
と言う事は俺より三つ年上だ。そんな大人の女性が何故あんなに取り乱したのか。
増々謎が深まった気がした。
――コンコン
ノックの音だ。部長と目が合ったが来訪者の予定はない。もう一度ノックされたので、部長がどうぞと言った。ドアが開き、中に入って来たのは玉城さんだった。
俺達は驚き立ち上がっていた。彼女はゆっくりと俺達に向き合った。
潤んでいた瞳は、今は
その彼女は両手を前で揃えると、深々と頭を下げた。
「先日は大変な迷惑をかけ申し訳ありませんでした」
俺達が呆然とする中、彼女は姿勢を正し、阿保みたいに口を開けている俺を見た。
「東君って言ったわね。少し時間をくれるかしら。それと高良君」
今度は部長を見た。
「暫く彼と二人きりになりたいの」
言葉が遠回りして伝わったのか、部長は暫くしてから数回頷いた。そして俺に妙な視線で睨み、部室から出て行った。
ドアが閉まる。彼女は机を挟んで俺の向かいに座った。「座って話しましょう」
関節が壊れたロボットの如く、俺はぎこちない動作で椅子に座り、彼女と向き合った。改めて見る彼女の表情は人形のようで、感情を全く読み取れない。その彼女と視線が合ってしまい、思わず目を逸らしたが、相手は変わらず俺を見ていた。
「単刀直入に聴くわ。あの写真の撮影場所をどうしても知りたいの」
そりゃそれしかないよな。
俺は心の中で一息吐き、この数日俺が調べた事を話した。
何の手掛かりも無かったと言う報告なのだが、彼女の表情は動かなかった。
「そう」
彼女は一言だけ言い黙った。金属バットの快音が聞こえる程、部室は静寂に包まれた。それを破ったのは彼女だった。
「叔父様はカメラマンだったの?」
「いえ、新聞記者でした」
「新聞記者?」彼女の表情が一瞬曇った様に見えた気がした。
「でも十五年前に引退して、その後フリージャーナリストになりました。多分あの写真も引退後に撮ったものだと思います」
叔父は七二で亡くなったが、確か俺が生まれた頃に新聞社を辞めたと聞いている。写真データが一五年前から始まっている事から恐らく間違いないだろう。それも付け加え話したが、彼女は何か別の事を考えている様だった。また部室が静かになった。今度はそれを俺の方から破った。
「先輩はどうして写真の撮影場所を知りたいんですか」彼女は暫く黙っていたが、やがてゆっくりと語り始めた。
「信じてもらえるとは思ってないけど、それでもいい?とても非常識な話よ」
俺は頷いた。聞かなければ始まらない。
彼女は値踏みをするように俺を見つめ、少し間をおいてから話し始めた。
「私の中にもう一人の人格があるの。四歳くらいの小さい男の子よ」
予想の斜め上を行く答えに驚いたが、彼女は俺の反応をじっと見ている。俺は彼女に倣い、感情が顔に出ないよう努めた。彼女は話を続けた。
「私幼稚園の年長の時に病気で長期間入院していて、その時にその子が現れた。私も幼かったから何も不思議がらずにその子と良く話しをして、遊んでいたわ」
……イマジナリーフレンド 俺は呟いた。
イマジナリーフレンド。空想上の友達。心理学上の現象で、同じ歳の子供が身近に居ない環境の子供が遊び相手欲しさに脳内に出現させる別人格。虐待を受け防衛本能で自分以外の人格を作り入れ替わる多重人格とは違い、言葉通りに友達として現れる。遊びたい盛りの幼少期に入院生活を送った事を考えれば納得できる。
「そう、良く知っているわね」
SFのネタ、と言いかけて口をつぐんだ。
聞いた事があるので、と言い直したが、彼女の冷たい視線が刺さった。
「話の腰を折ってすいません」と謝り、話の続きを待った。
「……彼は私の成長に伴って徐々に姿を見せなくなった。でもあの写真を見た時、突然彼が現れ叫んだの。幾ら彼を落ち着かそうとしても駄目だった。私はパニックになったわ。そのうちに私の意識は彼と混ざり始めて、そして気が付いたらここに来ていた」
そこで彼女は黙ったが、その後の事は俺も良く知っている。
「私が意識を取り戻した時、彼は消えていた。でもまた同じ事が起きるかもしれない。だからそれに備えておきたいの」
確かに俄かには信じがたい話だ。だがそれが本当の事だとしても、何故撮影場所を知りたいのかの答えにはなっていない。
「想像上の存在がどうして現実にいるおばあさんに会いたがっているんですか?」
俺は率直に問い質した。彼女の眉根が一瞬寄ったが、すぐに戻る。
「……今は言えない。理不尽だと分かっている。でもあなたしか頼めないの。お願い」
冷静な表情は変わらないが、言葉の中にあの日と同じような切迫感がある。
俺は壁に掛かっているカレンダーに目をやった。四月は来週で終わり、待望の大型連休に突入する。
月曜は振替休日で三連休になるが、今年は遊ぶ時間は無くなりそうだ。
「明日叔母の家に行ってきます。でもあまり期待しないでください」
「ありがとう」そう言った彼女の表情は、変わらずクールだった。
「それで彼女と連絡先を交換したって訳か。羨ましい限りだ」
部長の少し皮肉めいた言葉にも反応せず、美女と二人きりで話すのに疲れ果てた俺は机に伏せていた。
「元ミステリィ研としては彼女との会話から何かヒントを掴んだのかい」
SF研です、と俺はそのままで答えた。
玉城さんの話だけではヒントらしきものは何もない。叔父の家から何も見つからない可能性だってある。美人からの頼み事に、安請け合いした己の薄っぺらい虚栄心と軽率さに、今になって後悔しはじめていた。
「他にどんな話をしたんだい」
「だからさっき言った通りですよ」
だがそれは嘘だ。俺はイマジナリーフレンドの事を伏せ、玉城さんの知り合いのおばあさんを探す手伝いを引き受けたと、部長に説明していた。
「それにしては随分長かったね」
鋭い、と思いつつ「そうですかね」と未だ伏せたまま答えた。
「彼女が心許す学友は少ない。その彼女が見ず知らずの下級生に連絡先を教えたのは相当の理由がある筈だ。正直に話したまえ」
理由は俺が聞きたい。
それにイマジナリーフレンドは俺だって納得している訳じゃないし、彼女のプライバシーに関わる話で、部長に言っても余計ややこしくなるだけだ。
全く持って混沌とした状況の渦中に俺はいる。その状況の原因を作ったのは部長じゃないか。それに先刻から俺に対する言葉に棘がある。
段々腹が立ってきた俺は、一言文句言ってやろうと勢いよく顔を上げて部長の顔を睨んだ。だが意外な事に、高良部長は切ないような奇妙な表情を浮かべていた。
あれ? もしかして?
「え?もしかして突撃した一人ですか?」
部長の表情が凍り付く。暫くして眉間に中指を当て、白縁眼鏡をクイっと上げた。
「その洞察力、彼女の為に使ってくれ給え」
Ⅲ
「そんな昔の事、覚えてないわよ」
老婆の写真を見ながら、テーブルの向こうの叔母は明るく笑っていた。
昨晩叔父の写真の件で聞きたい事があると連絡を入れ、翌日の昼過ぎ、俺は葬儀以来一年ぶりに叔父の家を訪ねた。
「でも、ちょっと待っていて」
叔母は立ち上がると居間から出ていき、暫くして分厚い青色のファイルを数冊抱えて帰ってきた。
多分叔父の部屋から持って来たと思うが、その部屋は現在倉庫と化していて足の踏み場もなく、俺はそこで手掛かりを探すのを、この家に来て早々に諦めていた。
「一二年前だったら、多分これね」
ドスンとテーブルの上にファイルを置いた。
背表紙には『命の現場』と書かれている。
「あの人、これをやりたくてフリーになった様なもんだから」
叔父は長年医療問題に関心があり、コツコツと取材を重ねていたと叔母は話した。
「命の現場」はフリーになった最初の仕事で、医療系の月刊誌に一年に渡り長期連載されたらしい。
叔母は薄いファイルを開き俺に見せた。それは掲載されていた記事の切り抜きだった。
何か手掛かりがあるかもしれないと、俺はファイルを引き寄せた。
第一回の記事は終末医療がテーマだった。記事を捲りざっと目を通していく。テーマは三ヵ月毎に代わり、救急救命医療の現状、臓器移植の現状と問題点と続き、再生医療の未来で連載は終わっていた。だが例の写真に関連するものは見当たらなかった。
「当時は私も手伝っていたけど、取材はあの人だけでいっていたから、その時撮られた写真なら分からないわ」叔母は別の分厚いファイルを捲っていた。
「それは何です?」
「取材メモとか、気になった記事の切り抜きとか。記事を書くための基礎資料よ」
ファイルはもう一冊ある。俺はそれを手に取り開いた。記事の切り抜きが貼られた紙が現れたが、その記事を囲む様に、小さな細かい文字がビッシリ書かれていた。俺が驚いた顔になったのを見て叔母は微笑んだ。
「それ取材メモよ、あの人メモ魔だったから」
ファイルを捲りながら、叔母は懐かしそうに話した。俺はもう一度それを見たが、この字の洪水から、どうやって記事にするだろうかと不思議に思った時だった。
「あら、ほらこれ、同じじゃない」
叔母は開いたファイルを俺に差し出した。
俺は息を呑んだ。あの老婆の写真が紙に貼られていた。写真の下に何か書かれている。やはり小さい字で「S島にて撮影」と読め、続いて一二年前の七月の日付があった。
――S島か。
S島は本島南部の島で、本島とは短い橋で結ばれている。モズク料理が有名で、俺も数回家族と訪れた事がある。
呆然と写真を見ていると、その下に新聞の切り抜きが貼られているに気づいた。
『県内で二例目:R大学病院にて死亡した幼児からの臓器移植が行われたと大学病院が発表しました。先月死亡した幼児の心臓が家族の希望により、県内の心臓病患者に移植されたとの事です。臓器移植法が改正されドナーの年齢制限がなくなってから未就学児からの臓器提供は県内二例目で――』
子供からの臓器移植があった事を伝える記事だったが、この記事と老婆の写真の関係が全く見えなかった。そして俺はおかしな事に気づいた。切り抜きの下の日付は十三年前の五月二日とある。つまりこの記事と写真は一年近い開きがある。
――何故だ?
疑問が真っ先に浮かんだが、何かが繋がりかけていた。
臓器移植、子供、十三年前、イマジナリーフレンド……
ふいに閃きが脳裏に走る。俺は無意識にファイルを捲った。
次の頁は臓器移植の記事と叔父の小さな文字。
次々捲っても同じ様な取材メモが続いていた。記事も脳死判定基準や移植年齢の撤廃など、臓器移植に関わるものが殆どだった。
――もう少しで繋がる。
俺は叔母を見た。
「このファイル、借りていっていいですか」
叔母はキョトンとした顔で、別に構わないわよ、と言った。
叔父のファイルを、俺は自分の部屋で読み込んだ。米粒程の文字を読むのは、慣れてしまえばそう難しくなかったが、情報量が多くまた記事の下書きとして書かれた所もあり、必要な情報の取捨選択に時間が掛かった。
それを別のノートに書き出していく。
情報は物語の輪郭を描き、登場人物が現れ、いつしか俺は一つの物語の終わりと、それから続いているもう一つ物語を知った。
薄暗い部屋の天井を見上げる。
――馬鹿か、俺は。
謎を解いた達成感はなく、逆に後悔と自己嫌悪が渦巻いていた。
暫くは悶々と悩んでいたが、成り行きの結果だと自分に言い聞かせ、スマホを手に取った。
着信履歴を見る。時間はもう深夜に近いが、俺は一番上にあるその番号を押した。
玉城さんはツーコールで出た。お互いにぎこちない挨拶をかわし、本題に入る。
「撮影場所はS島でした」
沈黙の後、暫くして返事があった。
「分かったわ、ありがとう」
素っ気ない返事に安堵の溜息が出そうになる。俺の役割は終わったと、通話を切ろうとした時、彼女が問いかけてきた。
「叔父様の家にもあの写真があったの?」
「……はい」正直に答えた。少し間の後、彼女は想定外な言葉を俺にぶつけた。
「東君、明日S島に一緒にいってくれない?」
「どうしてですか?」思わず聞き返していた。
「また取り乱すかもしれない。その時に事情を知っている人がいて欲しいの、お願い」
二度目のお願いだった。いやでも、と言いかけたが彼女はそれを遮った。
「君と話したい事もあるの。お願い」
俺は逃げられないと悟り、彼女の三度目のお願いに、分かりましたと答えた。
Ⅳ
三連休の中日の早朝、S島行きのバスの中は俺と玉城さんだけだった。その玉城さんは、今俺の後ろの席に座っている。
昨晩の電話の後、俺達はネットでS島の行程を調べ、翌朝バスターミナルで会う約束をしていた。
翌朝、バスターミナルに現れた玉城さんは白のロングTシャツに濃い色のデニムのパンツ姿で、制服と違い活動的に見えた。俺は至って普通の恰好で、肩から掛けているバックには、叔父の形見のデジカメが入っている。
バスは空いている国道を南下していく。収穫の終わったサトウキビ畑の中を進み、家も
昨晩からの後悔と、彼女にどう向き合うのか、その答えが出ないままバスに揺られていると、S島入口を告げるアナウンスが流れた。俺は慌てて降車ボタンを押した。
二人分の運賃を払い、俺達はバスを降りる。
突然彼女が俺の袖を引っ張った。驚き彼女を見ると、幾ら?と聞かれた。
何故か不満そうだ。帰りはお願いします、と答えたが、彼女は不満げな表情のまま私から目を反らした。
俺たちが降りた場所は、背の低い錆びたバス停の標識が辻の角にあるだけで、人の姿は何処にもない。
バスが去り、辺りは静かになる。俺はバックからスマホを取り出し地図アプリを立ち上げ、俺達が居る場所を確認する。
「こっちです」そう言って彼女を見る。
いつの間にか彼女は黒いキャップを目深に被っていた。返事は無いが、構わず俺は歩き始めた。
ブロック塀に沿って暫く歩くと、舗装が途切れ砂利道になる。
潮の香りと波の音が徐々に強まる。塀がブロックから石垣に変わる角を曲がると、それは突然に現れた。
砂浜だ。
光る水平線が遠くに見え、優しい海風が心地よい波音と涼しさを運んでくる。
暫く俺達は無言でその海を見つめていた。
俺から砂浜に足を踏み入れたが彼女は動かない。気にせず俺は進む。歩きながら遠い景色に視線を配り、波打ち際で足を止めた。スマホに例の写真を出し、画面を横にして背景の遠い島影と見えている風景を見比べる。
――間違いない、ここだ。
俺は彼女を見た。距離がありキャップの陰に隠れた彼女の顔は見えないが、確かに目が合った感触があった。
暫くして彼女が動いた。ゆっくりと近づいて来る。俺は少し緊張した面持ちで彼女を待った。彼女は俺の横まで来て立ち止まる。
彼女は俯いていて、顔を上げない。
「……君は何処まで知っているの」
俺は一呼吸おいて、覚悟を決め答えた。
「イマジナリーフレンドはドナーの男の子だった。違いますか?」
「叔父様の資料に私の名前があったのね」
「いえ、ドナーのご家族の名前だけでした」
「それだけでよく分かったわね、凄いわ」
波音に消える程の小さな声だった。
「そうよ、彼は私に心臓をくれた恩人よ」
確信はしていたが、彼女の口から真実を聞くと、胸にズキリと痛みが走る。
一二年前叔父は、四歳の時に病気で亡くなり臓器提供をした男の子の家族を取材していた。写真の老婆は男の子の母親の祖母で、男の子は生前祖母の居るこの島を良く訪れていた。
叔父は老婆にも会い、その時あの写真を撮った事がメモに残されていた。
そしてメモの続きには『レシピエント』『県内就学前少女に移植:取材は不可』と書かれていた。
その一文で全てが繋がり、俺の閃きは確信に変わった。
臓器提供者ドナーの記憶が、臓器移植を受けた者レシピエントに転移する不思議な事例が、海外では数多く報告されている。
玉城さんの場合は更に特殊で、心臓移植により亡くなった男の子の記憶がイマジナリーフレンドに形を変えて発現した。
人の記憶は脳だけではなく、臓器にも宿っている説があるが、科学的には証明されていない。だが玉城さんの身に起こった事は、心臓移植による記憶転移でしか説明できない。
「一度だけ親に彼の事を話した事があるの」
玉城さんは語り始めた。
「親は驚いていた、当然よね。困惑した親は言ったわ。『絶対他人に手術の事も彼の事も言ってはダメよ。もし言うとお家に帰れなくなるよ』怖くなった私は素直に言う事を聞いた。それから誰にも彼の事は言わなかった。君に言うまではね」
彼女はキャップを取った。
長い黒髪が海風で後ろに流れる。瞳は遠くを見ている。
「彼も入院生活が長かったから私とすぐに仲良くなった。嬉しかったわ、お互いに最初の友達だったもの。私が大きくなって彼が現れなくなっても彼の事を忘れた事は無かった。だけどあの写真を見た時、突然彼が現れ叫んだの。おばあちゃんって。それから海で遊ぶ彼の記憶が流れ込んできた。そして会いたい、会いたいって」
玉城さんの声が震えながら大きくなっていく。
「私は友達から命をもらったのに何も恩返しできない、だからせめてこの海を見せたかった、おばあさんに会わせたかった。あの写真を見た日から必死で調べた。初めて彼の名前で検索もした、臓器移植の記事も探したわ。でも出てくるのは匿名のドナーとレシピエントの記事だけ。彼は匿名の誰かじゃない!」
玉城さんの叫びが俺の心を打つ。
一つの命は一つの命を救った。しかし今の日本の臓器移植制度では、それが誰だったのかは公表されず、ドナーとレシピエントは家族を含め特定される情報は公開されない。だから老婆の写真が世に出る事はなかった。
叔父は『命の現場』の中でドナー家族とレシピエントを、専門家を介して対面させる海外の事例を紹介し、日本でもその議論を始めるべきだと提案していたが、俺が調べた限り状況は十三年前と変わっていなかった。
だが玉城さんはドナーの記憶を共有してしまった。
男の子の名前も、顔も、家族の事も。
そして、男の子の切なる願いも。
玉城さんは俺に理不尽な頼みと言ったが、理不尽ではない。当事者の彼女は、ドナーを探す事は許されず、ドナーの家族に会いたいと言う願いは、それがどんな理由であっても、どんな無垢な願いであっても叶う事はない。
玉城さんは右手を胸に添え、大きな瞳は遥か水平線を見ていた。
「……おばあさんの事も分かったのね。だから私をここに連れて来た」
俺はそれに答えなかった。
教えて、と玉城さんが呟く。
玉城さんから見知らぬ老婆に会いたいイマジナリーフレンドの存在を聞かされた時、正直俺の好奇心は刺激された。
俺の閃きが、叔父のメモにより補完され真実に迫っていった時は、ミステリィ小説のトリックを解いていく様な高揚感もあった。
玉城さんの命が、もう一つの命から引き継がれているという絶対に忘れてはいけない事実を忘れ、俺は自分の閃きの正しさの証明に没頭していた。
多くの善意と覚悟によって繋がれた命の物語だと気づいたのは、もう一つの物語の終わりを知った時だった。
美人に頼まれその気になり、探偵気取りで人の過去を探っていた俺は、とんだ無神経の恥知らずだった。
そんな俺が真実を語っていいのか、昨晩から何度も自問したが答えはいまだ出ていない。葛藤を続けている俺の心中を察した様に、玉城さんは優しく囁いた。
「私が頼んだ事よ、君が苦しむ事はないわ。大丈夫、覚悟はしている。それにもう彼はいない。あの日、彼は消えてしまったの」
驚き顔を上げる。玉城さんはまだ海を見ていた。
不意に短い悲鳴と蒼白な顔が、フラッシュバックで甦る。
――行かないで!
……だからあの時、彼女は叫んだのか。
俺は思わず天を仰いだ。あの写真と同じ澄んだ高い空が見える。老婆はこの空へ何を願い祈ったのか、俺には分からない。だが小さな命から受け継がれた命が今この場所に立っている。
几帳面な叔父は、老婆の名前が載った黒く縁どられた小さな記事を切り抜き、取材メモに張り付けていた。
そこにはやはり丁寧な小さな文字で、安らかにと書かれていた。
俺も覚悟を決め、玉城さんを見て告げた。
「五年前に、亡くなっていました」
玉城さんは一瞬目を伏せたが、すぐに目を見開いた。
その強い視線は、今見えるもの全てを瞳に刻み込むようだった。その瞳から涙が零れた。白く輝く頬を涙が滑り落ちて行く。
煌めく海に向い、哀しくも凛として立つ彼女の姿に心を奪われた俺は、その瞬間を切り取る事を忘れ、見とれてしまっていた。
Ⅴ
帰路は往路と同じ道を辿った。違ったのはバスには既に人が乗っていて、席は二人掛けの場所一つを残し全て埋まっていた。
玉城さんは迷わずその席の窓際に座った。そして俺を見ている。
俺は仕方なくその隣に座った。微妙な隙間が二人の間にある。
バスが動き出した。来た時とは逆で窓の外は家並が徐々に密になり街になっていく。国道に入ると車の数が多く、所々で渋滞に捕まった。日はまだ高いが、バスに揺られていると眠気が襲ってくる。振り返ると長い一週間だったと思った時、左肩に重みを感じた。
玉城さんの頭が左肩に乗っている。
――ありがとう
その言葉に続いて、軽い寝息が聞こえて来た。
俺は固まったまま、次々と発生し膨らむ妄想を必死で抑えこみ続けたが、終点のバスターミナルはまだまだ先だった。
吹奏楽部の合奏が湿った夏風に乗って聞こえて来る。去年県大会ベスト4に入った我が野球部に、今年こそ悲願達成の機運が高まり、応援する側も熱が入っている。
高校野球など他人事だと思っていたが、高良部長が応援団や選手を球場で撮影する許可を、学校と高野連から取り付けてきた。
『夏、その一瞬をかける』と銘打ち、大会後に写真展を開催する予定で、写真部の名を上げる絶好の機会だと張り切っている。部長は綿密な撮影計画を練っている様で、今日はその打ち合わせだ。
内野席だけではなくベンチ内を撮影する許可も貰ったらしく、汗くさい丸坊主の選手に交じって、文系丸出しの俺がベンチ担当だと事前に聞かされていた。
まあそれもいいか、と部室のドアをノックしたが返事がない。ノブを回すが鍵が掛かっている。俺は合鍵を使ってドアを開けた。
室内はムッとした熱気が籠っていたが、窓は開いていて扇風機も廻っている。どうやら先に誰かが来ていたようだ。机の上を見ると、青い団扇と一枚の紙があった。
『急用で生徒会室に呼ばれました。会議までには戻ります。それと試合会場が決まりました。カレンダー要確認』
紙には綺麗な青い字でそう書かれていた。
俺は団扇を手に取り、パタパタと自分に風を送りながら壁のカレンダーの前に立った。来週土曜に赤文字で『二回戦第三試合(T球場)』と書き込まれていた。俺はそこを団扇の縁でコンと叩く。
カレンダーの横には、青い海と白い砂浜が写っている浜辺の写真がある。
あの日、玉城さんと訪れたS島で俺が撮った写真だ。
今度はその写真をコンコンと二つ叩き、俺は椅子に座った。
扇風機は部屋の熱気を混ぜ返すだけで、体感温度は中々下がらない。
団扇で扇いでも涼しくならないが、やらないよりましだ。
俺は自分で作り出した生温い風を受けながら、まだ来ない二人の先輩を待っていた。
終
いのりのはま ケン・チーロ @beat07
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