掌篇 教室にて

月の出ない夜に歩く人

掌篇 教室にて

 掌篇 教室にて


 言葉の濁流に鼓膜が破けるような苦痛を感じた。数々の視線がわたしを見ている。いま私に話しかけている者は、そのなかの数人に過ぎなかった。耳は周囲の音を聞き分けようとして、拾わなくてもいい音まで拾い上げてしまう。我ながら耳がいい、と思う。騒ぎを聞きつけた他のクラスの連中が、廊下からこちらを覗き込んでいる。

 がらりと扉を開く音がする。また誰か来たみたいだ。「ねえ、何があったの」三メートルは離れた距離にいる学生がひそひそと発した声は、まるで耳元に聞こえるみたいだった。

 もういい加減にしてくれ。わたしも、彼らも、それからわたしの聴覚と、それを処理する脳みそ。

 不必要に聞き分ける力を持った聴覚はわたしを追い詰める。まるで聞き分けのなってない子どもみたいだった。

「いい加減にしなよ」

 そう言ったのはさっきから鼓膜が破れそうなほど高い声で喋り続ける佐藤という名の女学生だった。

 別の誰かが言った。

「なんで、尾形くんは、いつも和を乱すようなこと言うかなぁ」

 まるで金魚の糞みたいだ。他人の言ったことに乗っかってしか話せない。自分の言葉という者を彼らは持たないのだ。

 耳慣れた台詞に嫌気が差した。和を乱す? いじめを放置するような連中に言われたかないんだけどね。わたしは心の内側で悪態を吐いた。それを外に出すわけにはいかないが、思ったことは顔に出る。この場合は顔と言うよりも、声というべきか。

 わたしは心なしかハリのある声を発した。というより、そうなっていることに後から気が付いた。

「なんでって。じゃあ、なんで宮島にしわ寄せが行くようなことするんだよ」

 わたしはこれを佐藤をみて言った。彼女が僕に向かって言ったことが、この質問を呼んだからだ。佐藤一派とも言うべき連中の言った言葉は、すべて佐藤の言ったことと言ってもさしつかえないでしょ? けれど佐藤は逃げる。卑怯者だからだ。その他大勢の有象無象と同化して、軍勢の壁の後ろに隠れてしまった。もう彼女の顔はわたしからは見えない。

 かわりに質問に答えたのは霧島という名前の男子学生。サッカー部の主将の男だった。こいつらは付き合っているという噂だ。それが、彼が割り込んできた理由なら、わたしは彼らを軽蔑する。

「本人がいいって言ってるんだから、いいじゃん。なんで蒸し返すよなことするん?」

 学年でも信頼を得ている人間が、いじめを容認するようなら世も末だ。それを正そうとするわたしが悪い? まさか、ね。

「本人がいい? こんなの、いじめも同然だろうよ。選択肢がないなかで選んだことが、本人の希望なわけないだろうが」

 言葉が暴力性を帯びてきた。冷静になろうとするも、霧島は煽るようなことを言う。わたしはこれに乗っかるべきだろうか? それとも、もっと冷静になって、彼らを諭すのが得策だろうか? おそらく結果はどちらも同じだ。

「尾形は俺たちがいじめをしてるって言いたいのか?」

 教室にクスクスと笑いが起こる。邪悪が電波するみたいでぞっとしない。顔が同じような角度に歪んでいる。その他大勢と同化することで、自分たちが力を持ったと錯覚しているのだろう。君らは自分たちの将来を案じたことはないの? と言いたくなったが、それをどうにか堪えた。

 ため息を吐きたくなるけれど、わたしはそれをしっかりと飲み込んで空気は肺に入れたまま。次の言葉を繋いだ。

「見て見ぬ振りをするのはいじめだって言ってんだよ」

「ふーん。じゃあここに居る連中のほとんどはいじめの加害者で、尾形だけが正義の味方ってわけか」

 外野が声を上げる。「ヒーローぶりたいだけじゃねえの」笑い声も聞こえた。「ギャハハ」

 サッカー部の主将というのは演説をするのが仕事なのだろうか。これが選挙前の、どこぞの政党から出馬する議員候補の演説なら大成功と言えるのかも知れない。

 わたしは同時にそのことに絶望する。彼らみたいなのが世間の多数をしめるなら、世の中はもう、救いようがないほどに終わっている。

 議員候補が目の前にいる彼のような人物だとして、大衆がいまここにいるクラスメイトみたいな連中ばかりだったら? だとしたら、この国に社会的正義や正しさなんてものは存在しないのではないか、と。逡巡は一瞬の後に、元の場所へ戻ってくる。

「そんなつもりはないよ。でも、いじめを見て見ぬ振りする連中よりよっぽどマシだとは思っている」

 またどこかで笑い声が上がった。今度は廊下からだった。

 当の本人は窓側の席に座って俯いていた。その他大勢は全員立ち尽くしている。廊下の連中も、教室にいる連中も、それから、わたし自身も。

 廊下が騒がしくなった。教員達が数人で教室に向かってくるらしい。収拾をつける大人というのは難儀なことだけれど、わたしは彼らを必要とは思わない。なぜなら私は、彼らが愚か者の集団であることを以前から知っているからだ。

 それはある意味で名慣れた光景にだった。わたしも、彼らも同じこと。

 教師のやることといえば、教室で起きたことが学校を囲う塀の外に漏れ出ないようにするだけだった。要するに火消し。後始末。口止め。その他諸々が彼らの仕事だ。ギャングのやりくちに似ている。大人という生き物には目先のことしか見えないらしい。

 わたしはため息を吐いた。これで全ては彼らの思惑通りになってしまうのだから。廊下の足音は近づいてきている。他クラスの学生は自分たちは関係ありませんと言いたげに、ヘラヘラと笑い合っている。歪な笑い。彼らの顔そっくりな笑い声だ。

 黒い何かが胃袋に似た体の組織からあふれ出した。これは錯覚だろうか。それとも真実? 僕の体はそういうふうに出来ているのだろうか? どちらでもいいのかも知れない。どちらにせよ、目の前に変化があって、わたしはそのことを知覚のだ。そのことへの意味づけなんて、どうだっていい。

 殺意に似た何かが腹の底に堪っていく。嫌気が差すというのはこういうことを言うのかも、と思う。全身の筋肉が緊張から弛緩へと移行していくのがわかった。

 いじめっ子は笑い。いじめられっ子はただ俯くのみだ。

 自分の無力さに吐き気がする。


 了

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掌篇 教室にて 月の出ない夜に歩く人 @urei-kansaku

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