卯月 現実から遊離したミヤコダさん(前編)

卯月



 昨日、私はミヤコダさんと一緒に、ペンションの住み込みアルバイトから帰ってきた。

 2年目の講義が始まるまで、まだ1週間はある。

 春休みは、働き詰めだったから、ちょっとのんびりしようと思っていた。


 のんびり過ごすためには、私は、1年前にやり残したことを片付けなければならない。


 ミヤコダさんと部屋の前で別れて、久しぶりに自分の部屋に入った。ちょっと埃臭い気がして、窓を開けて換気した。

 それから、おもむろに私はスマホを取り出した。

 1か月近く既読スルーしていたLINEのトーク画面を見る。


『明日、引っ越します』

 それが私からの最後のメッセージ。地元を離れて、こっちに出てきた1年前のもの。


 それから1年。止まっていたトーク画面が動き始めて、先月からつらつらと彼からのメッセージが続く。

 その短い文章は、高校時代から変わらない。文字を読んでいるだけなのに口調が聞こえるみたいだった。

 私は、その全てを無視した。

 もしかしたら怒ってるかな。怒って私からのメッセージを無視するかもな。

 そこまで考えて、無視されるのを期待している自分に気付いて、口許が歪んだ。

 まだ逃げたいんだ。



『引っ越しが終わったら連絡下さい』

 遂に、私からメッセージを送る。指はしっかりと動いた。


 すぐに既読が付いた。


『もう、こっちに住み始めたよ』

 残念ながら?彼は私を無視するほどには怒っていない、ようだ。


『都合の良いときに、会って下さい』

 また、もう一歩踏み出す。


『明日でもいい?』

 それに対して、私は事務的に時間と場所を決めて、メッセージを送信した。


 10分後にぽつんとメッセージが届く。

『遅れてきたエイプリルフールじゃないよね』

 ちょっとだけムカっとする。それから、くすっと笑ってしまった。

 私が一昨年のエイプリルフールにいたずらのメッセージを送ったことを思い出した。

『また、明日。おやすみなさい』

 もうこれで返事はしないと決めて、私は寝ることにした。


 ずっと二人部屋で住み込みしていたから、ミヤコダさんのいない部屋で寝るのも久しぶりで、彼女の寝息が聞こえないのは寂しい気がした。でも、胸がざわつかないという点では少し楽で、私はぐっすりと眠った。


 朝起きると、彼から『ありがとう』というメッセージが届いていた。

 何にお礼を言ってるのか。




 恋ははしかのようなもの


 そんな名言があるらしい。

 待ち合わせ場所に向かいながら、そんな言葉を思い出した。






 私たちの周りには恋が溢れている。


 テレビでも本でも誰かがいつも恋をしている、友達が恋をしている、恋人たちが歩いている、先生たちが恋愛結婚する、信じたくないけどうちの親だってそうだった。

 私の好きなホラー映画の登場人物だって恋愛しまくりで、恋愛というより性欲まみれでエロすぎるくらいだ。


 だから、中学生の頃から、いつか自分も誰かと恋をするのだ、そういうものだのだろう、と漠然と思っていた。


 中学校に入ると、友達が男の子たちと付き合い始めて、自分も同級生の男子に告白されて、ちょっと舞い上がった。

 付き合うということをしてみて、男子と二人で家に帰る、そんなことが恥ずかしすぎて、何だか自分には早すぎる気がして、すぐ別れてくれとお願いすることになった。

 中学生だった私は、恋なんて高校に入ってからでいいや、って思った。

 だって、よく分からないから。


 そして、高校に入って、彼と出会う。

 2年になって、同じクラスになった。


 よくある平凡な恋。


 何かのきっかけがあって、話すようになって、気になり始める。

 目が合うことを期待する。話す機会を増やそうとする。

 そのうちに、私は彼のことが好きなんだなと感じ始める。


 そうして、 好き という言葉に惑わされる。


 誰だって、好きな人には良く思われたい。

 だから、好きな人に良く思われそうな私と在りのままの私の差を埋めようとする。

 可愛く見せたい。いい子に思われたい。



 ある日の放課後、私には初めての恋人ができた。

 自分と相手の気持ちが同じだと知って嬉しかった。


 だからこそ

 ホラー映画が好きなことは秘密にする

 短気で強情だけど自重する

 すぐに舌打ちしたり顔をしかめたりする癖を直す

 同じ大学に行けたらいいなと想像しながら勉強もする


 背伸びばかりしていたと思う。





 待ち合わせたのは、大学の教養棟の校舎の西側。ベンチがいくつか置いてあり、学生が喋ったり昼食を摂ったりする場所だけれど、まだ春休み中なので、ほとんど学生はいない。


 ベンチから少し離れたところに桜が咲いていた。

 私の地元では、まだ咲き始めたばかりだろう。

 桜を眺めていたら、声を掛けられた。


「深弥?」


 振り返ると、1年振りに会う恋人がいた。


「…髪伸びましたね」


 私はそう言いながら、彼の見た目の違いは髪が伸びただけではないことに気付いていた。

 高校生だった頃は、いつも短髪でこざっぱりしていたが、今は、いかにも浪人してましたというか、伸ばしっぱなしの髪とそり残しのひげが残る顎。こんなにひげが濃かったっけ。


「髪が伸びたのは君の方だよ」

 高校時代の私は耳の下でツインテールにしていた。いかにも真面目な女子高生だった。その頃から、そんなに髪を伸ばしてるわけではないけれど、高校時代は、髪を下ろした姿をほとんど見せたことがなかったから、髪を長く伸ばしたように見えたらしい。


 1年なんて、大した時間ではないようで、やっぱり、しっかり時間が流れていて、お互い、高校のときの姿とは変わってしまっているらしい。


 軽い近況交換。元気だった?地元は?仲間たちは??

 それを打ち切らせるように、風が吹いて、桜の花びらがひらひらと落ちた。



「俺は深弥に謝らないと」


「もういいです」


「…去年、大学落ちたときに、会わせる顔がなくて……」


「もういいですから。私も謝りたいことがあるし」


「深弥は何も悪くない」


「ははは、悪いですよ」


「何が?」




「とっくに君から気持ちが離れていたのに、1年も黙っていたこと。しかも、待っているように見せてしまったこと」


 早口でばーっと一気に言った。彼が面食らったような顔になる。ああ、気持ちが悪い、吐きそうだ。




「松崎くんは、私が待っているって思っていたんじゃないですか?」

 1年振りの彼の呼び名が、私の舌に馴染まない。知らない人みたいな味がする。


「…いや、俺は」


「待ってると思ってたから、また連絡してきたんですよね」


「実は、正直、期待していたんだけど」


「無理ですよ、そんなの」

 私はばっさり切った。胃が痛くなる。


「そうか」

 彼は苦笑いしながら、肩を落とした。



「私は、1年前の松崎くんにとても、とてもがっかりして、……でも、大学に落ちた彼氏を捨てるひどい女になりたくなくて、別れようとは言えませんでした。そのうち、連絡が来たら、お別れを言おうと思ってたけど、松崎くんは何も言ってこないから、自然消滅ならお別れ言わなくて済むから楽だな、なんて思ってました」


 足元を見た。スニーカーに花びらが付いている。

 高校時代の私は、彼が何も言わなくても待っているような、「健気な女の子」だと多くの人が思っていただろう。

 自分で自分がそう見えるように作っていたところはあるから、仕方がないと思う。


「ごめんなさい」

 私は軽く頭を下げた。


「それこそ、いいよ、謝らなくて。お互い様……いや、そもそも俺が悪いんだから」

 彼は前髪をかきあげた。初めて見る仕草だった。

 その下の、ちょっとゆがんだ顔も初めて見た。

 高校時代の彼は、横柄なくらい落ち着いていて、年上みたいに余裕があったのを思い出す。




「それでも、俺は、今もずっと、深弥が好きだよ」




 彼の言葉に私は首を振った。



 彼は、少しがっかりしたように眉尻を下げた。

「じゃあ、俺たちは本当に終わりだね」


 私は頷いた。



 私の中では1年前に終わっていたことだ。それがようやく本当になった。

 肩の荷が降りた気がして、少しほっとした。



 強い風が吹いて、桜の花びらが舞い踊った。


 花吹雪が落ち着いたときには、そこにいるのは私一人になっていた。





 嫌な汗がどっと出て、ベンチに座り込んだ。


 目の前が暗くなる。


 人を傷つけるのは、とても嫌なことだ。

 自分が傷つけられるよりも嫌かもしれない。


 この1年、彼を傷つけるのが嫌で、逃げていた。

 頭では、連絡を断った彼がそもそも悪い、って分かってる。


 でも、私の中には、こうなったのは自分が悪いんじゃないかっていう罪悪感がこびり付いている。


 逃げていたときに、気が付いた。

 彼のことを考えようとすると、罪悪感にさいなまれることに。

 だから、先伸ばしにしてばかりいた。


 彼に謝れたら、罪悪感が消えるかな、と思ったけれど。

 消えない。




 私だけが合格したのが悪い


 好きじゃなくなった私が悪い


 ちゃんとそれを言えなかった私が悪い


 それで彼を傷つけた私が悪い





 彼よりミヤコダさんのことを好きになった私が悪い

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