あの夏の蛍
Youlife
1991 心残り
1991年6月。
高校三年生の
そんな時、美夏子の斜め前の男子が突然立ち上がり、先生が座る教壇の前に答案用紙を持っていった。
「なんだ
「はい。先生、今日の試験はこれで終わりですし、もう帰っていいでしょ?」
「ま、まあいいけど、他の生徒はまだ試験中なんだから、静かに帰るようにな」
「はーい」
「亨、もう出来たみたいだな」
「さすがだよ。あいつ、いつも一人で黙々と勉強してるもんな」
美夏子の後ろから、試験中の同級生がヒソヒソと小声で会話していた。思い起こすと亨は一年生の頃から、同級生たちが教室でバカ話をしていても、そこに混ざることなく教室の片隅でひたすら参考書を読んでいた。
帰り道、美夏子は自転車を引きながら、夕闇に包まれた西武多摩川線沿いの長い坂道をゆっくり下りていた。
「はあ……このままじゃ推薦入試は行けそうにないなあ。やだなあ、一般入試。今年も受験人口が多くて倍率が高いって聞くし」
長い下り坂を降りると、眼下に野川に架かる二枚橋が見えてきた。
橋を渡ろうとしたその時、制服のワイシャツ姿で堤防沿いを歩く一人の男子学生の姿が目に入った。
「あれ……亨?」
野川沿いを一人で歩いていた学生は、間違いなく亨だった。
「何やってるの?こんな暗いところで、一人ぼっちでお散歩?」
「まあな」
「この辺、本当に何もないわよ。幽霊でも探してるの?」
「バーカ。蛍だよ」
「螢?まさか、この野川に蛍が?」
「そうだよ。東京といえど、この川の水は武蔵野台地からの湧き水だからすごくきれいだし、地元の人達が長年にわたって保全活動をしているんだよ。俺、毎年この時期になると、この場所に蛍を見に来てるんだ」
暗闇の中、二人の視線は、草に覆われた漆黒の川面へと向いていた。
しかし、いくら時間が経っても、いくら目を凝らしても蛍の姿は見つからなかった。
辺りは静寂に包まれ、川面を伝う風が揺らす草木の音だけが、二人の耳に入ってきた。
「もう一時間近く経つけど、なかなか出て来ないじゃん」
美夏子は膝を抱えて川面を見つめながら、亨に話しかけた。
「ところでさ、亨は何であんなに勉強してるの?どこか有名大学でも狙ってるの?」
「違うよ、俺にはどうしても叶えたい夢があるから」
「夢?」
「そうだよ。アメリカの大学で経営学を勉強したいって夢があるからね」
亨は川面を見つめながら、独り言のようにつぶやいていたが、突然目を大きく見開き、慌てた様子で川面を指さした。
「あっ!見つけたぞ!あそこにいるぞ、蛍が」
「え!?どこに?」
「草むらの上を浮いたり沈んだりしてるだろ?」
美夏子は亨の指さす方向に目を凝らすと、小さく黄色い光が一つだけ草むらから飛び立ち、漆黒の川面にほのかな明かりを放っていた。
「え?すごい!蛍だ!蛍が飛んでる!」
淡い黄色い光は、弧を描きながら夜空の中を舞い始めた。やがてその動きに呼応するかのように、遠くから別の黄色い光がこちらへと向かってきた。
「あの子の光に誘われて、違う蛍が出てきたんだね」
二匹の蛍たちは川面の真上を上下に動きながら、暗闇の中を舞い続けた。やがて一匹の姿が草むらの中に隠れると、もう一匹は必死に草むらの真上を弧を描きながら何度も旋回していた。
「あの蛍、ひとりぼっちになっちゃったね」
「非情な奴だよな。せっかく一生懸命探してるのにさ」
しばらくすると、もう一匹の蛍は探すのを諦めたのか、遠くへと飛び去って行った。にぎやかに飛び交っていた蛍たちの灯りが消え、辺りは再び暗闇に包まれた。
「今年はこれで見納めかな。でも、しばらく見れなくなる前に何とか見れて良かった。一つだけ、心残りはあるけど」
亨は大きく背伸びをすると、立ち上がり、堤防を歩き出した。
「え?心残り?」
「ただ、それが叶うかどうかは俺だけの努力だけじゃどうにもできないんだ」
すると、亨は振り向き、視線の先をまっすぐ美夏子へと向けた。
「美夏子、おまえの協力が必要なんだ」
美夏子は自分の顔を指差しながら、きょとんとした表情で亨の顔を見つめていた。
「またこの場所に、蛍を見に来てほしいんだ。俺がここに帰ってくるまでね」
暗闇の中、西武多摩川線の車窓からの光でかすかに映る亨の顔は、今まで見たことも無い位真剣な表情だった。美夏子はその表情と、迫りくるかのような強い目力に圧された。
「いつになるかわからないけど、俺、絶対に夢を叶えて、日本に帰って来るつもりだから。そして俺……おまえと一緒にまたここで蛍を見たいんだよ。だからその時まで、おまえにはここで待っていてほしいんだ」
そう言うと、亨はポケットに手を突っ込んだまま、背中越しに手を振って暗闇の中へと足早に消えていった。
「ねえ亨。それって、私のことを……!」
美夏子は亨を呼び止めようとしたが、蛙がけたたましく鳴き続ける中、その声はかき消された。美夏子は川面から吹く風に長い髪をなびかせながら、遠ざかる亨の背中を目で追いかけていた。
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