□ 四十一歳 冬⑥ その1−2
もうすぐ仲杜を抜けて、隣町に入る。息子の歯科矯正で何度も通った国道も、今は全然別世界のようにしか見えない。並んでいる寂しい色合いの市営住宅を横目にしながら、私はフッと藤野保健所のことを思った。私がこうやって不思議な旅路を辿っている間も、みんなは一生懸命、発生届をカルテに起こしてHERーSYSに入力して電話掛けて必要なら医療機関を受診させて……その場にいない私への愚痴でも言って頑張ってるんだろう。まるでその全てが私の悪い夢だったような気がする。新型コロナウイルス感染症自体が私の妄想が生み出した幻のような。周りの車の群れを見ながら、これが全部夢だったら、そして……今、この車の中だけが現実だったら。いや、もう、何もかもが全てが夢だとしか思えない。
慧は相変わらず確信を持って運転している。ナビにも何も入力していないし、一瞬も迷うそぶりを見せない。どうして異邦人である慧がこんなに慣れた様子で運転しているのか、段々不安になってくるくらい、当たり前の横顔をしている。
「どうしたの?」
「いや、ホント、何でもない……」
そういえば、慧こそ仕事は大丈夫なんだろうか。本庁の感染症対策のお偉いさんだと思われる慧が、こんなところでのんびりと時間を過ごしていていいのだろうか。
でも、なぜかそれを口にできない。聞いて何か問題がある話題だとも思えないのに、どうしても喉から音が出てこない。それが自分でも謎でもどかしかった。
「そういえば……こんなこと聞いていいのか分からないけど。あゆって井上祐未と親戚だったんだって? あ、井上祐未、覚えてないか」
「いや、大丈夫。従姉妹ってことになるのかな、色々複雑なんだけど、父親の兄の子供ではある、よ」
「井上先生さ、ずっと厚山で働いてて。医局派遣で羽鳥病院にいてさ、あ、羽鳥病院、分かるかな?」
「分かるよ、海沿いの単科の精神科でしょう」
「そう。羽鳥にしばらくいて、医局が戻そうとしたら、私開業しますので、とか言って、舞山に戻ってった」
「詳しいね」
「一時期、結構、彼女にはお世話になったんだ。自分の持ち患を引き取ってもらったりしたし。意外とサバサバしてて気が合ったってのもあるけど」
「へえ、そうなんだ」
「で、結局、舞山で開業してるのよ。未婚で男の子二人いてね」
「え?」
「事情はよく分からないけど、二卵性双子の男子達をお母さんと育ててたよ」
「相田君の子?」
「違うと思うけど。卒業する頃には別れてた気がする」
「ふーん……さっちゃんって、そんな情報にも詳しいんだね」
「立場的に、ね。結局、六年間ずっと学生会の委員だったったんだから。ホント、我ながらよく我慢したよ」
「……それは……大変だったね」
「そうは思ってなさそうだね」
「いや……色々複雑な思いがあるのよ、私だって」
「ごめん、こんな話、あゆは嫌だったね」
「いや、全然。もう私の中では色々辛かったこととか、昇華されてるから。ただ、久しぶりにこんな話してると……時間って残酷だなって思うから」
「どういうこと?」
「……深い意味はない」
「ごめん」
私の知らない慧、私が見ることが出来なかった慧、そういうものが現実感を持って襲いかかってきて、ちょっと苦し過ぎて、話題を何でもないように受け流せなかった。考えてみたら一緒の景色を見ることが出来ていたのはほんの一年と少しだったのだ。
「そのワンピース、すごい可愛いね」
「え?」
「なんか……昔のあゆなら絶対に着なさそうって思って。昨日の格好もそうだけど……なんか、すごく、ちょっと……衝撃を受けたっていうか」
「医師になって、何か毎日めちゃくちゃ忙しくて、遊びにもいけないし趣味を何か始めたりも出来ないし、ってなって、時々デパートで衝動的に服買うようになってね、それ以来、結構こんな感じ。潜在意識下ではこんなカッコしたかったんかな、って自分でも不思議だった。でもさ、いつも大抵モノトーンで無地でさ、うちの今の課長がオシャレ大好きな人なんだけど『先生、もっと華やかな格好してきてくれる? 気分が滅入るわ』ってよく言われる」
「でもそのワンピースすごく凝ってるし、お金かかってる感じするけどね」
上身頃はニットになっていてウエストから切り返してフェイクレザー、裾にリバーレースを叩きつけてある、全身真っ黒ながら、よく見ると不思議な存在感を持つワンピースだ。真っ黒だから一番地味だと思ったけれど、よくよく考えると勝負服に見えても仕方ない、のかもしれない。
「たまたま手に取ったのがこれだっただけで深い意味はなかった」
「……残念、そうなんだ」
「え?」
運転する横顔をまじまじと見つめるが、特別な意味は、さっきの発言にはなさそうだった。
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