□ 二十二歳 秋①

 復学してからの生活は非常に平坦だった。講義でも実習でも、一人ぼっちで何も困らない。講義は面白かったし、通学も楽、以前の辛さが嘘のように、問題が何もなかった。

 でも、特に楽しいことや嬉しいこともない、本当につまらないほど凪いでいる。別に誰かに悪意をぶつけられたいとか思っているわけじゃない。でも、あまりにも私は透明人間になってしまっていた。

「合原さん、この間、っても随分遅くなったけど!」

 一日の義務を終えて、帰ろうと自転車に乗っかったところで、先日の女子学生に声をかけられた。今日は三人組、私にプリントを取っておいてと頼んだ子と、元気が良すぎる子、そしてその二人といつも行動を共にしている髪が長くて背の低い子だ。全員、名前を知らないけれど、顔は分かる。同じ学年だから。

「これ、約束してたやつです!」

 一番背の高い、多分百七十センチは軽く超えていると思われる彼女がプリントの分厚い束を押し付けてきた。

「何だっけ……」

「やだなあ、先輩から回ってきた内科総論のまとめプリントですよ! 毎年の先輩達が少しずつ書き足してきた、伝統のまとめです!」

 なんか鰻屋のタレみたいな説明だな。

「コピーして返せばいいの?」

「いや、これは差し上げます。自分達のをコピーした時に一緒にしたから」

「ありがとう……」

「大丈夫、無料ですよ!」

「あ、いや……そっか……」

「その代わりと言っては何ですけど」

 突然、バレエがどうとか言ってた子が口を開いた。

「私達、あまり賢い方じゃなくて、もしわかんないところとかあったら、教えてもらっていいですか?」

「え? 私が?」

「だって、毎日めっちゃ真面目に講義聞いてるじゃないですかぁ?」

「それに、合原さん、頭めちゃくちゃイイって聞いてます!」

「はぁ? 誰がそんなデマを」

「いいですよね? テスト前、一緒に勉強しましょうよ」

 一番背の低い子がニッコリ微笑む。よく見ると、この子、ハーフじゃないかな。顔の白さが日本人離れしている。

「じゃあ、また! さよーなら、おつかれさんっした!」

 こちらがまだ何も言っていないのに三人は手を振って去っていった。ホント、どうしていつも勝手に言いたいこと言ったらいなくなってしまうんだろう。

 プリントをまじまじと見ながら、私は首を捻って……ようやく気がついた。彼女達はいつも一人の私を心配して、一緒に勉強しようと誘ってくれたのだ、デマを口実にして。

 なんて良い人達なんだろう。私は人生で初めての好意を受けて、何だか体内部が痒くなってきたような気持ちになった。

「合原さん、あの」

 私がぼけっと突っ立っているところに、また声を掛けてきた人がいる。……井上さんだ。

「ちょっと、いい」

「……」

「急いでいる?」

「……別に」

 急に胃がぎゅうっと握り潰されるような痛みを感じた。相手に気付かれないようにそっと鳩尾をさする。……息するのも難しい痛さだ。

「あ……復学、したのね」

「……」

「私……いや……お父さんに全部聞いてるわよね?」

「……」

「私、アンタが大嫌いだった。のうのうと合原の娘として幸せそうに生きているアンタが、全然悪びれずにうすらぼんやりして、いかにもお嬢様って感じがして……全然他人に媚びないで我が道を行く、みたいな余裕かました態度で、ホント大嫌いだった。顔を見るのもむかついたし、それどころか名前を見るだけて吐きそうだったわ。本当に大嫌いだった」

「……」

「この間、って言ってももうすぐ一年経つのか、あの時、アンタの父親から、正式に資産整理をして、父の個人資産を分与するって言われたわ。……でも、母が断ったの」

「断った」

「ずっと養育費もきちんともらってたらしいし、それどころか養育費にしては多すぎる金額貰ってたみたい。……それに、母はそもそも相手に愛情なんかこれっぽっちもなかったって……何それって感じだけど……そんな相手の金なんか欲しくないって。だから、もう私達は合原の財産狙ったりしないから、安心して」

「……そんな心配してないですけど。……そもそも私達は父がやることに口出ししたり出来ないし」

「母と喧嘩したまま、あのレストランに行って、そうしたらアンタ達が楽しそうに座ってるのが目に入って……嫌がらせの一つもしてやりたくなって、カッとしちゃって……失礼な事を言ったと思う。ごめんなさい」

「え?」

 私は思わず井上さんの顔をまともに見返した。

「私が謝るなんておかしいって顔ね。……私は悪い事は悪いって分かってるつもりよ。ただ……あんな高いレストランに学生の分際で行けるなんて……本当にイラッとして……ごめんなさい。あの後、合原さんが帰ってったって聞いて、言い過ぎたって思ったけど……」

「……」

「私、合原さんと佐倉さんの関係が……気に障ってた。佐倉さんって誰とも距離をとって誰にも心を開かないで……他人に無関心なくせに合原さんの事になると馬鹿みたいにオロオロして……そんな風に合原さんの味方するから、本当にうざかった。大体、私、佐倉さんも嫌い。あの人、ものすごい大金持ちの娘のくせに、庶民派気取ってるし……人望がありすぎるもの胡散臭いし……成績良いし、持って生まれたものが多過ぎるわ、一人であんなに」

「……」

「ごめんなさい、一人で喋りすぎたわ。……とにかく、私は合原さんがどうしても好きになれないけど、それは……ほとんど私の僻みみたいなものだから……」

「これからも頑張って下さい……」

「え? いや、頑張んないといけないのはアンタの方でしょ? 二年も遅れちゃってるんだから、何言ってんの。まあ……うん、お互いに、頑張りましょ」

「うん」

 井上さんはようやく立ち去って行った、と思ったら、すぐに立ち止まって振り返った。

「私、精神科に進むつもり。開業する時、元手が安く済むから。で、今、最初の診断を下すわ。アンタ、アスペルガーでしょ」

「え?」

「絶対そうだと思うわ、全然目線が合わないし、何考えてるか顔に出ないし、こっちの話聞いてないし!」

「聞いてるよ」

「ま、だから何だって話だよね。私がそうであって欲しいなって思ってるだけだから」

「え」

「だって、ずっと一人で空回りしてるみたいだった、アンタと話してると。相手にされてないって思うより、アスペルガーだからだって思う方が気が楽だわ」

「ちゃんと話聞いてました!」

 井上さんはケラケラ笑って、ようやくいなくなった。私は言いたい放題言われていたのに、不思議と腹が立たなかったことに驚いていた。それは、多分、彼女の本音の一部でも知ることが出来て、私なりに腑に落ちたからだろう。

 我に返って、私は慌てて自転車に跨った。早く帰ろう、ちょっと寒くなってきた。今日は夕ご飯、何を食べようかな。

 私は頭の片隅でチクチクと存在している違和感には気付かないふりをして、急いで家に向かって自転車を走らせた。

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