□ 四十一歳 冬② その2




 保健所フロアに着いた途端に、奇妙なさざめきに襲われた。

「あ、先生来たよ」

 受付で私を待っていたらしい課長が、私の姿を見つけ、奥に叫んだ。

「先生、早く。もう所長も来てるのよ」

 苛々しているかと思っていた課長が、奇妙なほど冷静に立っている。こんなに落ち着いているということは、大した出来事ではないということだろうか。

 自席まで歩く間に、また二回もよろけた。床に貼られたじゅうたんが波打っているからだが、いつもなら絶対に引っかからないのに。

 椅子の上にトートバッグを置き、クロコの型押しのポシェットをのせる。私の動きを複数人が見守っているのを感じて、溜息をついた。

「で、先生、話し始めていい?」

 課長が私の後ろから声を発する。その場に立ち、なんとなく円を描いた面々を眺め渡して、課長は言った。

「まず、事実から述べると。今朝、早朝に富永布貴恵さんが遺体で発見されました」

 皆が、うなづく。私はじっと動きを止めて足先を睨んだ。

「昨日の夜、なかなか連絡がつかないことを不審に思った御家族が、朝、富永さんのお部屋を訪ねたら、部屋の真ん中、リビングで倒れている富永さんを発見。百十九番するも、すでに亡くなってから時間が経っていて、不搬送、警察対応になりました」

 皆がまたうなづく。私はまた動かない。

「で、問題はここから。昨日の段階で、保健所は富永さんの健康観察をしているかどうか」

 昨日、管理職当番は課長だったじゃないか。貴方は分かっている筈でしょう。

「ちょっと待ってください、一つ確認させてください。富永さんは独居でキーパーソンがいない方だったはずですが」

 思わず、口を挟んでしまう。そんなこと大事じゃないかもしれないが、でも気になってしかたない。

「御本人は天涯孤独の身だと言っていたんだけどさ、何と、議員の伯母さんだったんだよ」

 主査が教えてくれた言葉に思わず耳を疑った。

「議員?誰」

「めんどくせーことに、石野市議」

 中央区選出の市議だ。何が面倒くさいのか分からない。

「石野市議といえば、ほら夜の繁華街の見回り隊をやれとかなんとか、めちゃくちゃコロナに口挟んできてたじゃん」

 平たく言い過ぎの主査を、所長が嗜める。

「結木さん、石野先生だって良かれと思って横槍入れてきてるんだから」

 全くフォローになっていない。

「もう、みんな話が逸れてきてるって。だから、昨日のことを聞いてるの、私」

「だって、昨日の当番、課長だったんですよね?」

 主査が冷たく確認する。

「そうよ、だから、昨日はきちんと電話繋がってたから、ちゃんと確認したもんね?先生」

「・・・カルテ、どこにありますか?」

 はいこれ、と所長に渡され、健康観察表を開く。今日で発症日から八日目だ。昨日は七日目。うちが探知してからも五日経っている。

 富永布貴恵さん、八十四歳。基礎疾患は高血圧だけ。いや本人が認識している疾患はそれだけ、ということだ。ADLは自立、認知機能は問題ない。あまりにしっかりしたおばあさんだったから、本人への聞き取りをして、他の誰にも調査の電話をしていない。

 本人は身内がいないと言っていた。友達もいない、緊急連絡先もない、と。介護保険のサービスを使っていないからケアマネもいない、と言っていた。そう記録にしっかり書かれている。

 私は一度も話したことがない。ずっと軽症だったから、健康観察の電話はコロナ当番の保健師がかけていた。

 発症日とその翌日は微熱があった。微熱と言っても三十六度八分。いわゆる風邪症状はなく、ほんの少し倦怠感があったという。かかりつけのクリニックを定期受診したときに念のためPCR検査を医師から勧められて、やってみたら陽性だった、という、典型的軽症パターン。元気な高齢者では多いケースだ。

 昨日電話をしたのは近藤保健師。まだ若手だがとてもしっかりしていて、臨床的なセンスもある。今まで、電話を掛けて『おかしい』と思ったのに報告してくれなかった、ということは一度もない。記録では、午前中に電話を掛けて、熱は三十六度一分、サチュレーションは九十六、症状は何もない、ご飯は食べてる、水も飲んでる、気になるのはいつまで自宅に閉じ込められなきゃならないかということだけ、となっている。解除日が知りたいと言われたので医師に確認、と記録されている。思い出してきた、近藤さんに聞かれて、通常通り十日目で終わるよ、と答えた。

「このカルテ上は、問題なかったように見える」

 所長が重々しく言う。皆がうなづいた。

「午前中は問題なかった人が、夕方には家族からの電話に出なかった。この場合、危ないな、と保健所は思うべきだったのかどうか」

「・・・家族から、ウチには連絡があったんですか?」

 私の声が妙に響いた。

「時間外窓口には電話がかかってきていて、時間外は藤野保健所に電話したけど、出てもらえなかったと言っている」

「保健所に繋がらなかったら、管理職の誰かに電話するルールじゃなかったです?」

「昨日まで元気だったと家族が言ったらしくて、時間外の看護師は明日藤野保健所に連絡してください、と言って切ったと言っている」

「じゃあ、ウチの落ち度じゃないじゃん」

 主査が肩を竦めて言い放つ。皆はうなづく。

「・・・高血圧があったってことは、心臓か脳血管か、何か別の死因ってことですか?」

 私は腑に落ちなくて、思わず言った。

「先生は違うと思うの?」

 所長が聞く。何を言い出すのかと皆が不審げに私を見る。

「・・・本人は認知症もないし、とてもしっかりしていたと聞いています。記録もそうなっている。でも高齢女性、特にこの人はお金持ちの奥様っぽい感じだったし、そうしたら、保健所に迷惑かけたくないからって自分の症状を軽く申告することもあるんじゃないかと思うんです。鬼頭医院では胸の写真を撮ってないし、実際のところ、本当に軽症だったかなんて分からないじゃないですか」

「先生、それを言い出したら、そもそもこのシステム自体に無理があるってことになるよ」

「・・・解剖するんですか?」

「家族が希望しなかったし、コロナ陽性者であることは間違いないから、コロナ死で手続きするんじゃないかな」

 昨日の私が何か見落としていないか、私が何度も何度もカルテを見直しているのを、皆は可哀想な小動物でも見ているような目付きで眺めていた。

「とにかく、藤野保健所は悪くない、落ち度はない、で収めてもらう、しかないね」

 収め方なんかどうでもいい。昨日の私は・・・大丈夫だったんだろうか。

 結局後ろめたいから、こんなに不安になるのだ。昨日の私は普段の私でなかったことを、私だけは知っている。カルテをちゃんとチェックしていたと思えないし、保健師達の話をきちんと聞いていた自信が全くない。

 どうして、よりによってこんな時に。全部、慧のせいだ。

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