イルミネーションが灯る頃
□ 二十二歳 冬① その1
寒い。ああ、どこに空調のスイッチがあるのか分かれば、暖房つけちゃうのに。どうせバレやしない。くそー早くこれ、終わりたい。私はせっかくふわふわだったタオルをマフラー代わりに巻き付けた。ああ寒い!
ざっくり編まれたセーターの糸はスノーホワイト。とても綺麗な色の糸だったのに、母が編むと何だか変なセーターが仕上がる。祖母が入院して以来、病室に詰めている時間が余程暇なのか、最近、母親は編み物ばかりしている。ニットプリンスだか何だかの本を購入しては真似して作っているようだか、何故かメルヘンチックな仕上がりになってしまって、どうにも不格好だ。だから他に引き取り手もないから、おしゃれに興味のない私が着ているが、手編みの少女趣味丸出しセーターなんて心底恥ずかしい。
自分の頭上だけ蛍光灯をつけている。大教室の全てをパーっと明るくしたかったが、それだと期日ギリギリに慌てて作業しに来ているのが丸わかりで、それはいくらなんでも情けない。
別にサボっていたわけではない。ただ……スケッチがゾッとするほど苦手なだけだ。断じてサボってたわけでは……ない。つい言い訳を口の中で繰り返す。
医師の素質の一つに、絶対絵の才能があると思う。解剖の講義でも嫌と言うほど思い知らされたし、組織の講義でも、今、こうして打ちのめされている。この後、病理学でもスケッチスケッチスケッチ、らしい。ああ、絶望的だ。
自分の手元を見て、泣きそうになる。なんてヘッタくそなのだろう。自分で見ても、何が描いてあるのか不明だ。色鉛筆の試し書きの紙のようにグチャグチャな塊が画面の中央を陣取っている。前のページをめくってみると、これ何だったっけ? と自分でも分からない。これでは課題もクリア出来ないし、テストになんて全く利用できないじゃないの。
誰だよ、描いてるうちにコツが掴めるから大丈夫、とかいい加減なこと言ったヤツ。全然、変わらないよ!
広い教室の中には私しかいない。明後日期限の組織のスケッチを、まだ描き終わっていないのは私しかいないのだろう。それともこんな夜更けに忍び込むような真似をする人間は私しかいない、ということだろうか。そっちの方がありえそうか。
部活終わりにスケッチしにくる学生だっているだろうと思って、わざわざ夕方を避けて夜になってからスケッチしにきたが、そんなことをするものだから、教室の暖房がすでに消されていた。
あと、課題はいくつだ?
課題となっているプレパラートを何度も数える。そんな時間があったらサッサと片付けてしまえばいい。しかし、嫌いなことをやるのは、本当にエネルギーがいる。組織学のスケッチ、本当に辛い。
諦めて、再度顕微鏡を覗き込んだ。今、本当なら描き出されるはずのものは、骨髄組織だ。どうみても赤いゴミの集合体にしか見えないけれど。
レンズの奥に見えるよく分からない赤いものの姿を目に焼き付けて、私は改めて色鉛筆を握ったところで、教室に誰かが入ってきたことに気づいた。
入り口は暗く、私からはそれが誰なのかよく分からない。少なくとも、私に好意的な人物である可能性は限りなくゼロに近い。それとも私とは無関係の人か。同じ二年生のほとんどがそれにあたる。つまり、いちいち声をかけたりかけられたりするはずがない、ってこと。
「やっぱり、あゆだった。外に停めてある自転車があゆのにそっくりだったから」
入り口から躊躇いなく私の元まで歩いてきたその人物を確認して、私は完全フリーズした。さっちゃん……。まさか、なんで、ここに?
「あゆの自転車、わかりやすくて良かった。あんなピンクの自転車に乗っている大学生は他にいないだろうし」
思わず、カッとなった。私が好きでピンクを選んだとでも? 母親が選んだに決まってる。だから嫌だったんだ、あんなパステルピンクの自転車! どうせ、キャラじゃないわよ!
あ、いや……そうじゃない。そうではなくて。
「なぜ、さっちゃんがここにいるの?」
「え? だから、あゆの自転車があったから」
「そうじゃなくて。四年は今、テスト期間中じゃないの? ……OSCEだかCBTだかの……」
「そうだけど、あんなもん、勉強するようなものじゃないよ。普通に身につくものじゃん」
他の人が言ったら、とんでもなく厭味な人だと思うだろう。でも相手はさっちゃんで、聞いているのは私だ。彼女は本当にそう思っているのだろうし、私は彼女が努力せずして何でも出来る人であることを知っている。結果、私は何も言い返せずに黙り込む。
さっちゃんはいいとも言っていないのに勝手に私の手元を覗き込んだ。
「ねえ、あゆのそれさ、何? 何書いてるの?」
「……」
さすがに頭にきた。人の弱点を何の躊躇いもなく指摘するなんて。何て人だろう。
「うるさい、あっち行ってよ、なんでそんなイヤなこと言うわけ? どうせ下手だよ、分かってんだよ、だからこんな時間にコソコソチマチマ描いてんだよ、ホント、なんでそんなイヤなことわざわざ言いに来たのよ、サイテーだよっ」
「……あゆ、超元気そうじゃん」
「元気だよ、だからなんだ」
私の感情は他人に殆ど伝わらないから、精一杯出来る限りの怒りを表現してみたが、果たして伝わっているのかどうか分からない。
「そんな怒らないで。別に嫌がらせしようと言ったわけじゃないから」
怒っていることは伝わったらしい。良かった。
「あゆ、苦労してるなって思っただけだよ。イヤな言い方してごめん。それでさ……また怒らせるかもしれないけど……」
「何?」
可能な限り不機嫌そうに返事する。
「あゆさぁ、顕微鏡見て、スケッチして、って、それが苦手なんじゃない?」
「そもそも絵を描くのが苦手だよ」
「スケッチ描いてあげようか?」
「はぁ? ダメに決まってるでしょ」
そうだよねぇ、と言って彼女は肩を落とした。まさか、本気で言っていたの?
「……描いてもらっちゃダメだと思うけど、お手本があればいいなって思うんだよ」
「お手本?」
「そう。さっちゃんが言った通り、顕微鏡見るじゃん? そんでスケブ見ると、もう元の形がよく分からなくなってくるんだよねぇ。だからさ、誰かのスケッチを写せたらラクなのになって思ってる」
「じゃあ、貸すよ」
パッと表情を明るくして、さっちゃんは部屋を飛び出して行こうとする。
「どこいくの?」
「スケッチブック、ロッカーに入れっぱなし。取ってくるよ」
あゆに貸そうと思ってたからさ、と言ったように聞こえたが、気のせいだったんだろう、多分。
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