あの日の夜は泣いた気がする

咲川音

ずっと一緒に

――いいか、誰にも言うんじゃねえぞ。お前にだけ見せるんだからな。

 そう言って同僚の本田が取り出したのは、絵に描いたようなプッシュボタンだった。

「なんだこれ」

「リサイクルショップで買ったんだ。実はこれ」

 そこで言葉を切って、ぐっと顔を近づけると、

「――時を止めるボタンなんだよ」

 大真面目に囁いた。

 僕は無表情で彼を見つめ返した。この程度の冗談で笑えるほどもう若くはないのだ。

「俺だって最初は信じてなかったさ。それで昨日、試しに使ってみたら本当に止まって……あっ、おい、触るな触るな! 一度しか使えないって言われてるんだから」

 本田はどう見てもクイズ番組の小道具なそれを箱に収めると、慎重な手つきで鞄の奥にしまい込んだ。

「で、何の時間を止めたんだ」

 僕はこの作り話に乗ってやることにした。

「それは言えない」

「なんだそりゃ」

「お前は無理やり奪ってでもボタンを押しそうだからな。だから、言えない」

 酒の肴にしては幼稚すぎる。けれど普段快活な彼がこの時見せた目が、やけに暗いことがいつまでも気にかかった。


 それから人事異動などもあって本田とは疎遠になっていったのだが、三年後のある晩、彼の訃報が飛び込んできた。事故で即死だったそうだ。ふと、例のボタンを思い出した僕は、馬鹿馬鹿しいと思いつつも彼の家を訪ねてみることにした。確か奥さんがいたはずだ。

 けれど呼び鈴を鳴らしても誰も出てこない。帰ろうとしたその時、玄関の鍵が開いたままになっていることに気がついた。

「あのー、すみません、どなたかいらっしゃいませんかー……鍵、開いてますよー……」

 それでも返事はない。

 恐る恐る廊下を歩いて、リビングをのぞき――ソファーには一人の女性が石像のように座っていた。

 声をかけても肩を揺らしてもピクリとも動かない。そういえば本田は幼い頃に両親を亡くしていて、結婚式ではやっと家族ができたと涙ぐんでいたことを思い出した。

 本田はこの固められた笑みを毎日愛でていたのだろうか。大切な人を失う恐怖から解放されて、この部屋に一人で……


 どこかやるせない気持ちのまま、僕はテーブルの上のボタンに手を伸ばした。

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