第51話 人魚の襲撃

「いたあっ!」

「だ、大丈夫ですかクロノさん!?」

「う、っ……大丈夫、痛いけど……」


 背中を強かに打ち付けた。アスカが駆け寄って顔を覗き込んでくる。


 甲板に海水が流れ込んできて、俺の背中を濡らした。どうやらアズも転んだらしく、ニアの隣に横たわっていた。


 アスカが不安定な足場の上を駆けて、一段高い操舵室の方へと引きずってくれた。甲板の浸水は幸いそこまで酷いことにならなかったが、ずっと浸かっていると風邪をひきそうだったからありがたい。


 壁に寄りかかって窓の外を眺める。嵐が来ているわけではない。この揺れが何で起きたのか、俺にはわからなかった。


 ……不意に、アスカが眉間に皺を寄せた。外に顔を出して鼻を鳴らし、耳と尻尾が警戒するように立っている。


 何かあったのか。そう聞く前に、彼女が振り返った。そして、


「なんとなく、嫌な匂いがします」


 そう告げた直後、海の方から綺麗な歌声が聞こえてきた。


 若い女性のソプラノだ。複数人で奏でられるそれは波の音の中でやけに鮮明に聞こえた。


「な、なんですか、これ……」


 さっきとはうってかわって、アスカが耳をぺたんと倒して床にしゃがみ込む。どうやらこの歌声はアスカにとってかなり不快なものらしい。


 確かに、綺麗なはずなのに聞いていると不思議と不安な気分になる。この状況が怖い、と言うだけではない。何か自分の知らないものに対しての恐怖心を植え付けられているような……。


「どうして、こんな時に人魚が……」


 つぶやき声が聞こえた。アズだ。彼はこの歌声の主人を知っているのか。


「この海域には、人魚が住んでいるんです。普段は海の底で暮らしていて、夜中に船が通りかかると、歌で人を魅了し海底に引き摺り込む野蛮な奴らです。日中はほぼ確実に人前に出てこないのですが……」


 それが、どうしてこんな早朝に、と歯噛みする。対処法は何かと聞いてみたが、そんなものはないという。基本的に出会わないようにして、出会ってしまったらとにかく逃げるしかないらしい。


 最悪だ。そんな危険なやつらに襲われるとは。ニアが元気だったらまだ勝機があったのだろうが、今は船酔いで絶賛ダウン中。どうしようもない。


「とりあえず、海面から離れてください。それが現状一番の対処法です」


 アズがよろよろと立ち上がって、窓の近くにいるアスカを引っ張ってきた。船の揺れは次第に落ち着いてきて、俺でも踏ん張れば何とか立っていられるといった感じ。


 窓の外を覗ったが、人魚らしき影は見えなかった。船の下にいるのか。このまま立ち去ってくれたりはしないかな……と思ったが。


「あれー? もしかして死んじまった?」


 ひょいっと甲板に乗り込んでくる存在を見て、思わず目を見開いた。


 ──人魚、と呼ばれるその存在は、上半身が人間の女性、下半身が魚の尾部のようになっていた。赤色の鱗に覆われた下半身は太陽の光を受けて輝き、上半身は豊満な肉体を惜しげもなく曝け出している。


 が、首から上はその美しさとは正反対だった。乱れた赤の長髪を伸ばしっぱなしにしており、その奥に見える目はひどく充血している。口は耳元まで裂けており、鋭い牙と長い舌が見え隠れしていた。


「──ッ、まずい……」


 あわてて身を隠す。目は合わなかったが、バレていないだろうか。しばら甲板を移動しているような音が外から聞こえて、俺は息を顰めた。


 ……ドアが、勢いよく蹴破られる。


「おーおー、いるじゃん。そんな怯えんなって」


 禍々しい口を開いて、人魚が俺たちを見下ろしてくる。いつの間にか下半身は人間の女性と同じ形になっていた。


 ギロリと睨まれて、まるで体が医師になったように動かなく──いや、これは。


「とりあえず、動くなよ? まあ、動けるわけもないだろうがな」


 人魚は俺たちの様子を見て満足そうにひとつ頷く。そして、俺の方に近寄って、しゃがみ込む。


 息がかかるほど近い距離に顔を寄せられる。人魚の口の中からはどことなく生臭いにおいがした。


「……お前か、噂の“勇者”とやらは」


 しばらく俺の瞳を見つめてきたこいつは、ふとそんなことを口走った。目つきが険しくなって、口が忌々しげに歪む。


 勇者、とはどういうことだ? それを聞く前に、俺は首を刎ねられた。


     🐉


 ──ドクン!


 また、あの感覚で目を覚ました。目の前には相変わらずあの人魚がいる。俺と目が合うと、人魚は大きくため息を吐いた。


 首を刎ねられたはずがどうして生きているんだ? 俺は死んでしまったのではなかったか? 誰が生き返らせてくれたのだろう。


 アズも、アスカも、そしてニアさえも座り込んだまま虚空を見つめている。ちゃんと意識はあるように見えたが、ピクリとも動く様子はなかった。


「やっぱり、何度殺しても蘇るってーのは本当らしいな。ふざけた話だ」

「……」

「おい、お前。ボケっとしてんじゃねえ。こっちを見ろ」

「ッ」


 無理矢理に顔の向きを変えられて、人魚と目が合う。この顔はあまりに不気味なもんだからもう見たくないが、手を振り払うこともできなかった。


「質問に答えろ。嘘はつくなよ」

「は、はい」

「お前が勇者のそれを宿したのはいつだ?」


 聞かれた意味がわからなかった。いや、勇者というものがわからない、というのが本音だ。


 一度首を刎ねられる前にも人魚が口にしていた“勇者”という単語。物語なんかじゃよく見るものだが、なんだって俺がその勇者になっているみたいな言い方を……。


「おい、答えろっていってんだろーが」

「あ、わ、わからない、です」

「はあ?」

「ほ、本当に! どういうことなのかさっぱりで……」


 恐ろしい顔で睨まれ、叫ぶように答える。不満そうにしていた人魚だったが、やがて苛立たしげに唾を吐き捨てて離れた。


「まあ、いい。お前は最悪銅にだってなるんだ」


 そうこぼして、今度はアズの方へと近づく。彼はガタガタと震えて涙を流していた。


「若い人間のメスなんて、いつぶりだろうなあ? 最高のご馳走だ、今晩が楽しみだよ」


 人魚が舌なめずりをした。そして、アズの目の前にしゃがみ込むと彼の顎を指で引く。恐怖で歪み切った顔が、人魚の瞳に映った。


「ひ……ぃや……」

「いいねえ、その顔。そそるじゃねーか……」


 人魚はアズの胸ぐらを掴むと、ゆっくり立ち上がって引っ張り上げた。アズが抵抗する気配はない。暴れることができないのか、もしくはする気力がないのか。


 俺が助けなきゃ、と思ったが、俺も動けない。ただ黙ってみているしかできなかった。


 人魚の空いた片手が、アズの服にかかる。上半身からゆっくりと脱がしていき、華奢な胴があらわになる。そして、今度は下半身へと──


「……ん?」


 人魚の手が止まった。訝しげにアズの股ぐらをまさぐっていたが、次第に困惑の表情を浮かべる。


 そして人魚ズボンを引っ張って中を覗き込み、その直後アズを放りだして叫んだ。


「こいつオスじゃねーかよ!」


 お預けを食らった子供のような顔だった。

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