三四.捕食者
軽く人の背丈ほどもあろうかというその大蜘蛛は、全身が黒い細かな毛で覆われ、八つの艶やかな目は霧の中で不気味に光る。その風貌は特に虫嫌いでもない俺でもぞっとしてしまう。
「なるほど、ここはこいつの巣ってわけだ」
「これは鬼蜘蛛と呼ばれる種。虫だけでなく大型の動物も捕食対象とし、積極的に狩りをする習性も確認されている」
「いやあぁ! 無理! ほんと無理!」
蜘蛛は長い足を動かしてかなりの速さで距離を詰めてくる。あまり機敏な印象のある生き物ではないが、サイズが大きい分移動距離もそれに比例して大きくなる。
「来いよ虫けら!」
こちらに向かってくる蜘蛛に怯むことなく飛び出したフェルだったが、蜘蛛はその巨体からは想像もできない軽やかさで上空へ飛び上がる。
「雷よ——」
すかさずラヴも魔法を放とうとするが、飛び上がった蜘蛛の体は空中で急に向きを変え、大木の陰へと姿を消した。
「なんだあれ!?」
「おそらく糸を使って移動してる。森の中では分が悪い」
「そうはいってもここでやるしかないだろ!」
視覚では確認できないがその気配はかすかに感じられる。やるなら今の内だ。バックパックから小瓶を取り出し、中の赤い塊を口に放り込む。微かな血の味と共に全身に力がみなぎっていくのがわかる。それと同時にこちらへ近づいてくる気配もはっきりと感じられる。
「クロ! そっち行ったぞ!」
「ああ、わかってる!」
その直後、霧の中から音もなく飛び出した蜘蛛が体ごと押しつぶすようにぶつかってくる。とっさに両腕で受け止めたが、そのあまりの重さに体が地面へと沈みこむ。全身がきしむような痛みはあるが、どうにか骨は無傷のようだ。しかし蜘蛛の下敷きになって身動きが取れない。
「雷よ、空を駆け、地を焦がし、彼の者を撃て」
鋭い閃光が霧の中をほとばしり、蜘蛛の足に直撃する。ギュゥ、という気味の悪い鳴き声をあげた蜘蛛だったが、再び飛び上がって霧の中へ消えていく。
「クロ、大丈夫か!?」
「ああ、なんとか。それよりどうするんだ? 結構厄介だぞこいつ」
「うーん、いっそ逃げた方がいいかもな」
「それは得策じゃない。ここはあいつの巣、無暗に動けばさっきみたいに糸で身動きが取れなくなる」
「じゃあどうすんだよ?」
「物理攻撃は避けられる。僕の魔法もあまり効いていない。そうなると——」
「っ! 気を付けろ、何か来る!」
かすかな気配がこちらへかなりの速度で向かってくる。そう思った次の瞬間、体に何かが纏わりつくような不快な感触を覚える。払いのけようとするが何かに縛られたかのように体が動かない。
「これ……糸か!?」
「くそっ、ラヴ、さっきみたいに——」
今度はより強い気配、おそらく蜘蛛の本体が近づいてくる。この速さでは詠唱は間に合いそうにない。霧の中から八つの目、そして剝き出しになった蜘蛛の顎が現れる。このままではまずい……!
「こっち来ないでーっ!!!」
絶叫と共に放たれた紅い魔力の塊が、蜘蛛の巨体を押し返し、森の木々をへし折りながら霧の彼方へと吹き飛ばす。やや涙目になっているリタからは、今まで感じた事がないほど強烈な魔力を感じる。今のが吸血鬼の使う血統術というやつなんだろうか。
「おお、さすがだな」
「リタ、糸切って」
リタが軽く腕を振ると周りで何かが焦げるような音がして自由に動けるようになった。どうやら一瞬で糸を焼き切ったらしい。
「すごいな……これが吸血鬼の力か」
「もう無理……! ほんと無理……!」
「リタ、あいつを倒すにはリタの力がいる。頑張って戦って」
「ムリムリムリ、絶対無理!」
今にも泣きだしそうな顔でリタは叫ぶ。蜘蛛の気配はまだ確かに感じられる。さっきのでは仕留めきれなかったようだ。こちらを警戒しているのかすぐには近づいてくる様子はない。しかしこうなるといよいよリタに頼るしか道がない。
「なあリタ、俺からも頼むよ」
「うぅ……でもやっぱ無理……! クモは無理……!」
あのリタがこんな風になるなんて想像していなかったので、正直言ってこちらもやや反応に困る。しかしなんというか、これはこれでありかもしれない。
「まったく……。クモの何がそんなに嫌なんだよ」
「すべて! 全部! 存在そのもの!」
「結局は見た目だろ? 虫なんて全部一緒じゃないか」
「……あ、だったら見えなければいいんじゃないか?」
「はぁ? 見えなきゃ戦えない……ってわけでもないな、確かに」
この霧の中ではほとんど視覚は役に立たない。実際今までの戦いでも索敵はフェルの耳や魔力感知に頼っている。そうであれば蜘蛛の姿を直接見ることなく戦うことも不可能ではないはずだ。
「リタ、目を閉じたまま戦える?」
「それは……まあ、できなくはない、かな。ただ感知をしながら攻撃するのは難しい。一瞬でいいから敵の動きを止めてもらう必要がある」
「わかった。なんとかやってみよう」
「……そろそろ来るぞ。皆、構えろ!」
蜘蛛の気配が霧の中を縦横無尽に動き回っているのがわかる。その変則的な動きはまったく予測できない。不意に上空に飛び上がったかと思えば、突如急降下してこちらに向かってきた。
「そこか!」
俺たちが反応するよりも早く動き出したフェルが、落下してくる蜘蛛をアッパーで迎え撃つ。宙に浮きあがった蜘蛛だったが、すぐに糸を使って軌道を変え的を絞らせない。
「くそっ、まずはあの糸をどうにかしないとダメか……!」
「問題ない。挙動から逆算すれば糸がどこにあるかはわかる」
今度は何かに弾かれたかのように猛スピードで蜘蛛が突っ込んでくる。あの巨体にこの速度でぶつかられたら無傷というわけにはいかないだろう。横っ飛びで避けようとするが、ラヴはそこに立ったままだ。わずかに気配が強まるのを感じる。
「雷よ、焼き焦がせ」
放たれた閃光は蜘蛛ではなく、ラヴの背後の空間を切り裂く。その時、バチッという何かが切れるような音が確かに聞こえた。すると蜘蛛の勢いが急に失われ、落ち葉を巻き上げながら地面へ滑り込む。
「よっしゃ、もらった!」
すかさず蜘蛛に飛び掛かったフェルがその太い脚を強引に叩き折る。しかし鳴き声を上げならもがく蜘蛛はまだ動きを止める様子はない。フェルが蜘蛛の脚を掴みながら叫んだ。
「クロ、やれ!」
その言葉と共に、思い切り地面を蹴って一気に距離を詰める。拳を握りしめるとうっすらとあの黒いオーラが揺らめいている。渾身の力を込め、それをのたうち回る蜘蛛の胸部へと叩き込んだ。すると今まで確かに感じていた蜘蛛の気配がどんどん薄まっていき、それに呼応するように蜘蛛の動きも鈍っていく。
「リタ、今だ!」
ずっと目を閉じていたリタから強烈な魔力が放たれる。
「皆、離れて!」
とっさに後ろに飛びのくと同時に、紅い魔力の刃が蜘蛛の体を真っ二つに切断した。それでもなおもがき続ける蜘蛛は何度か痙攣するように脚をひくつかせた後ようやく動かなくなった。
「……仕留めたかい?」
「あ、ああ」
「まあ死んだだろうな、これは……」
勝ったのはいいが目の前の光景がグロすぎてあまり喜ぶ気にはなれない。リタが見たら卒倒してもおかしくないレベルだ。
「……死体の匂いを嗅ぎつけて他の魔物が来るかもしれない。とっととここを離れよう」
言われるがままフェルの後に続いた。
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