16話 色彩
久しぶりに雨が降っていた。湿気を含んだ暑さと、どんよりと重たく垂れる空がうっとうしい。
ヒデは自室の縁側に胡坐をかき、空の色とは対照的に青々と茂る庭を見ていた。この季節にしては珍しく、絹糸のような雨が静かに生垣の葉を揺らす。
誰かの赤い唐傘が緑の向こう側を通って視界から消えた。まもなく玄関の引き戸をガラガラと開ける音が聞こえて来た。鍵など存在しないこの村では他人の
玄関へ行くと、ぼさぼさの髪に色褪せてくたくたになった綿麻の上下を着たケイが気だるそうに立っていた。目の下には相変わらず隈を常駐させている。傘から滴る雨水がコンクリートの土間を徐々に黒く濡らしていく。
「久しぶりの任務だぞ」
「あれ? 会議開かないんですね」
「ヒデは強制参加だからな。俺が直々に任命に来るんだ」
「そうなんですね」
「というのは建前で、イチに座ってばっかりじゃなくてたまには歩けって言われたからなんだけど。過保護な奴だよな」
ケイがケラケラ笑うと、二人の無線から『全部聞こえてますよ!』とイチの声がした。
「ほら、こういうところとか」
どこか嬉しそうな声色で目を細めた。しかし、すぐに「今回は護衛だ」と情報統括官としての仕事を始めた。
「集合は今日の日没後から日の出までの間にルキの事務所だ。この前はお前が初めてだったから村から揃っていくようにヤンに言ったんだけど、基本的には個人で事務所に集合だ。遅刻しないように行ってくれ。もう行けるよな?」
「はい、多分大丈夫です」
「詳細は向こうでルキに聞いてくれ。じゃあ、頼んだぞ」
「期待に添えるかどうかわかりませんけど」
ヒデはうつむき加減で答える。
「何事も場数だ、場数。失敗と成功を繰り返して人間は成長するんだぞ」
励ますようにケイはヒデの肩を叩く。ヒデはぱっと顔を明るくした。「ありがとうございます」と言うより早く、ケイが言葉を付け足した。
「まぁ、失敗したら死ぬんだけどな」
再び落胆の表情を見せたヒデを残し、ケイは玄関を出た。雨は来た時よりも激しさを増し、ザアザアと音を立てて降っている。傘を開き、ぬかるんだ道を歩き始める。泥まみれの草履など脱ぎ捨ててしまった方が幾らか歩きやすいかもしれないと足元を見る。この汚れはいつかきちんと落ち切るのだろうか。
「なぁ、イチ。俺は死神じゃないよな」
『何言ってるんですか。全然違いますよ。自信持ってください』
ケイは「そうだよな」と自分に言い聞かせでもするようにこぼした。
果ての見えない曇天はさらに激しく雨を降らせる。服まで濡らしたケイが
[ケイさんは、死神なんかよりもっと残酷な存在です]
口元をフェイスマスクで覆ったその表情は読み取ることができない。しかし、ケイにはかすかに笑っているように見えた。
雨は夜更けになっても激しいまま降り続いていた。ヒデは肌に張り付く不快な服と格闘しながら薄暗い階段を上る。入り口でできる限り服やズボンを絞りはしたものの、ずぶ濡れだったせいで真夏だというのに寒気がした。いつも通り三階へ上がり、ルキの事務所をノックする。部屋に入ると、以前と同じようにルキが来客用のテーブルに足を掛けて座っていた。手が届く範囲にクリップで止められた資料や、雑誌、新聞などが散乱している。探偵事務所として営業しているとは思えないほど雑然とした室内だ。ルキは資料をめくる手を止め、ヒデに同情する。
「うわぁ~かわいそ~。雨降ってる時に任務なんてハズレくじだねぇ~。二階に今日の服とタオルあるから着替えて来なよ~」
ヒデは素直にうなずき、再び階段を降りる。どうやら一番乗りだったようで事務所も二階もがらんとしていた。段ボールに入っていたのは白いシャツに紺色のズボンだった。どこかの学校の夏服らしく、胸ポケットには校章が青い糸で刺繍されている。護衛という割には意外と普通の服なんだなと、パリッと乾いた服に袖を通す。終ぞ着る機会は訪れなかったが、自分の高校も夏はこんな制服だったなと別世界に住んでいた自分を思い返した。
事務所のソファーでうとうとしている内にジュダイ、ヤン、シドが集まった。シド以外は部屋に入るなり大雨に対する愚痴をこぼしていたようだ。
全員がそろったところでルキが自分のデスクにつく。
「聞いてると思うけど、今回は久し振りに護衛だよ~」
四人は思い思いの場所で話を聞いている。言わずもがなヤンはルキから一番離れた壁にもたれかかっている。
「護衛対象は
のらりくらりした簡易的な説明に四人はそれぞれ了解したと反応返す。しかしながら、ジュダイは「軍人なのに」と悔しそうに顔を曇らせる。ルキは胸ポケットから煙草を取り出して火をつけると、「そうだね~」と煙を吐き出した。
「本来なら軍人としてあるまじき
たまに見せる真剣な表情でルキは紫煙をくゆらせる。ジュダイはそんなことは頭では理解しているとでも言うようにわずかに首を縦に振った。それぞれが帝国に対して複雑な感情を抱いているのを見透かすように、ルキは「世知辛いよね~」とふにゃっと笑った。
「そうそう、ヒデは護衛初めてだよね~。任務中は偽名使うことが多いんだけど、ルキさんが考えといてあげたからこれ使ってね~」
ルキは得意げにヒデに折りたたんだメモを渡した。ヒデは「ありがとうございます」と受け取ると、中を見ることなくポケットに突っ込んだ。
「それと、何かお出迎えしてくれるんだってさ~。車乗れるなんてラッキーじゃん~。今日は三一八〇一三にレッツゴー!」
やる気があるのかないのかはっきりしない掛け声とともにルキは一人拳を突き上げた。
四人は一階から地下に降り、電車のような「移動器」と呼ばれる車両に乗り込む。ヤンが正面に備え付けられている操作盤に先ほどの数字を入力すると、ゆっくりと動き出した。
座席に座ったヒデはルキから手渡された偽名のメモを開いた。そこには走り書きで「
ヒデは二人の反応に顔をしかめながら頭を悩ます。下弦に名前を付けるのもほとほと参ったが、今回は自分が名乗る名前だ。できるだけ普通の名前を考えたが、そう易々と出て来るものでもない。参考にしようと三人が名乗っている偽名を聞くことにした。
「みんなはなんて名前?」
「偽名はみんないくつか持ってるけど、俺は基本的に
ヤンは流れるようにシドの分まで教える。シドが答えないのは目に見えているからだろう。当の本人は会話に興味がなさそうに代り映えのしない車窓を眺めている。
「俺は
「う~んと」
「苗字はもうそのままでいいだろ。適当につけろよ適当に」
いろいろと考えてはみたが、ルキと思考回路が同じなのかセンスのない名前しか浮かんでこなかった。うんうんと唸っていると、「お前、
会話もなくなり、それぞれが夢と現実の境を彷徨い出したころ、やっと移動器が止まった。降りたところには今までとは違い、頑丈な鉄の扉があった。その扉を見てヤンが何か思い出したように手を叩く。
「そういえば三一八〇一三ってミヤの部屋だったよな」
ミヤと共に住んでいるシドが珍しく「
「いらっしゃい。迎えは一時間ぐらいでここに来るみたいだから、それまで自由に待っときな」
ミヤは顔も上げずにそう言った。
ヒデはゆっくりと部屋を見渡す。壁一面が天井まで本で埋め尽くされた部屋だった。家具は中心に置かれたソファーとテーブルだけで、窓すらない。ここはまだ地下なのだろう。暖色系の明かりが落ち着いた部屋の雰囲気によく合っている。
ヒデは本棚から適当な本を手に取ってみた。ペラペラと数ページめくったところで「この世界には言語なのかもわからない字もあるのだ」とそっと戻した。隣ではジュダイが同じように記号と化した字が羅列された本を見ていた。
「ミヤさんはこれ読めるのかな?」
「読めるから持ってるんだろ」
「それもそうか。頭いいんだね」
「そりゃ、
「この組織を作った人が
「そうだ。だから俺達の中では
ジュダイは口元だけで笑った。
「俺は好きだぜ、
どこからかかすかに車のエンジン音が聞こえてくる。ようやく迎えが来たようだと思っていると、すぐに呼び出しのベルが鳴った。ミヤの後についてさらに階段を上がると、殺風景な部屋に出た。さっきまでの地下室は隠し部屋らしく、扉だと思っていたものは立派な本棚だった。一度閉めてしまうと、そこは一見どこにでもありそうな普通の事務所だ。しかし地下道にも続いている隠し部屋があるからには、おそらくルキの探偵事務所と同様にビルそのものが
「俺もこれから別の仕事でこの事務所には帰らない。任務の帰りは適当にどっかの地下道から帰ってくれ。この扉は向こう側からしか開かないからな。それじゃ、気をつけて行ってこい」
ミヤは隣に立っていたシドの頭を幼い子どもでも撫でるように少し乱暴に撫でた。しかしその手はうっとうしそうな表情と共に払いのけられた。
「ミヤはいつも心配しすぎだ」
「親は子供を心配するもんなんだよ」
シドはそんな言葉を鼻であしらい、ビルの出口へと繋がる階段に向かって歩き始めた。三人もそのあとに続く。
「行ってらっしゃい」
ミヤは笑顔で手を振り、四人を見送った。全員が外へ出たところできっちりと軍帽をかぶり直し、窓にもたれかかる。雨はとうの昔にやんでいたが、空はいまだ灰色の厚い雲で覆われている。道路には所々水たまりができていた。
ビルの入り口にはきれいに磨かれた黒い高級車が停まっている。ドアの前には運転手らしき初老の男性が立っていた。車は四人を乗せるとすぐに発車し、やがて見えなくなった。
そんな一連の光景を見てミヤはため息混じりに呟いた。
「親と子供って、一体何だろうな。なぁ、シド。お前はどう思う」
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