14話 魚(うお)の目に水見えず

 気がつくと、もうすっかり蝉が鳴く季節になっていた。街に住んでいた時、蝉の鳴き声はただ暑さを増幅させるだけの騒音にしか感じていなかったが、不思議と今はその鳴き声に涼しさと静寂を感じる。

 そうして初任務から何日かが過ぎたある日の昼時だった。料理を作りながらアレンがヒデを振り返る。

「ヒデ君は釣りってできますか?」

「え?」

 何の脈絡もないアレンの言葉にヒデは驚きの声をあげる。

「ここには娯楽もないでしょう? もし時間があるなら釣りでもどうかと思いまして」

 確かにこの村には暇つぶしらしい暇つぶしもない。アレンは他の宿家親オヤと囲碁や将棋をして日々を過ごしているが、ルールを教えてもらってもいまいち面白さの見いだせないヒデは暇さえあれば一人で弓術の向上に努めていた。

「でも釣りって、どこでするんですか?」

「滝壺がいいですね。後で行ってみたらどうでしょうか。私は下手なので教えられませんが」

 アレンがすすめるならとヒデは素直に「わかりました」とうなずいた。その返事にアレンは嬉しそうな顔で「あと、できれば晩ごはんにしたいです」と付け足した。


 数時間後、ヒデは宿イエの奥にしまい込まれていた釣竿と古ぼけた魚籠びくを持ち滝壺に来ていた。思い返せば初めてシドに会った時、彼もここで釣りをしていた。あの時はリヤもいたんだなと、もう何ヶ月前の事かもわからない記憶を思い返す。今は周りを見回しても、太陽が照りつける日中、暑さのせいか他に人影はない。

「そう言えば、ここには用が無かったら来るなって言われたっけ」

 ぼんやりとリヤの忠告を思い出す。しかし他にいい釣り場もなさそうなので仕方無く日陰になっている淵に腰をおろした。

 竹に糸と針をつけただけの簡易な竿に、誰かが自作したであろう擬似餌を釣針に付けて糸を垂らす。初めての体験に胸が躍った。水面には気ままに泳ぐ魚の姿も見える。きっと簡単に釣れるだろうと鷹揚に構えていたが、釣竿は一向に動かない。高く昇った太陽はジリジリとヒデの肌を焼いた。

 いつの間にか夏になっていたんだなと、当然のときの流れについて思いを巡らせていると、いきなり背中を勢いよく押された。不意打ちを食らったヒデは状況も把握出来ないまま豪快な水音を立てた。もがくほどもない水深だったのが唯一の救いだ。驚きながら水面から顔を出すと、頭上から「魚、釣れたか?」と笑い声が聞こえた。

「気配で気付かないお前が悪いんだぞ」

「突き落とすヤンの方が悪いと思うよ!」

 ヒデはそう不満を叫びながらゲラゲラと笑うヤンを見上げる。

「そりゃこんなクソ暑い時間帯に釣りなんかしてる奴いたら、からかいたくもなるだろ」

 ヤンはシャツを脱ぎ捨て、自分も涼しげな音を立て滝壺に飛び込んだ。顔を出したヤンは前髪をかき上げ、いつも通り意地悪く笑う。この笑い方をするときは大概何か企んでいると言うことをヒデはもうわかっていた。

「ボウズが嫌なら朝か夕方が鉄則だ。でも俺もそんな詳しくねぇ。釣りならシドがいいな。手取り足取り教えてもらうか?」

「そこまでして釣りたいわけじゃないよ。シドに教えてもらうぐらいなら帰る」

「お前も言うねぇ。聞かれてたらどうするつもりだ?」

 そんな煽り文句にヒデは視線を上げたが、もちろんそんなに都合よくシドがいるはずはなかった。不安げな表情のヒデを見てヤンはまた笑った。

「お前、見てても飽きねぇな。からかい甲斐があるっていうか。初めて樹海行った時も思ったけど」

「あれ、僕は許してないからね」

 ヒデもつられて笑いながら冗談を返す。恐らく年もそれほど変わらないであろうヤンはヒデにとって数少ない話しやすい人間だった。そんなとき、またしても突然頭上から声が降り注ぐ。「何をしている」という不機嫌そうな声の主はシドだった。釣竿を持っているところを見ると、どうやらシドも釣りをしに来たらしい。

「邪魔だ」

「魚ならいないぜ! 俺達が飛び込んだから逃げちまった!」

「いや、俺達が、って僕は飛び込んでないから」

「ぼーっとしてたお前が悪いと思うがな」

「突き落とす方が悪いと思うよ」

 何度目かの言い合いをしながら二人は淵に向かって泳ぐ。何とか水から上がったヒデは服を脱ぎ近くの枝に干す。ある程度水気をきっておけば日差しで乾きそうなほどの暑さだった。

 ヒデとヤンは何をするでもなく、日陰でとりとめもない会話をする。ヤンは仰向けに寝転がり、時折眠そうにあくびをしている。任務では殺気を放っているヤンもここにいるときはただの少年のようだった。魚釣りに来たシドはと言えば、魚などいるはずも無いのに糸を垂らしていた。そんな姿を不思議そうに見ていると「魚を釣るのが好きなんじゃなくて、釣りが好きなんだよ」と、ヤンが耳打ちして教えてくれた。思い起こせば、初めてシドに会った時も魚籠びくは空だった。

 しばらくそんな喉かな時間を過ごしていると、キョウが釣竿を持ってやって来た。既死軍キシグン最年少を自称する可愛らしい顔をした小柄な少年だ。キョウはくりくりとした大きな目をぱちくりさせながら「あれ? なんだ、こんなにいたんだ」と驚いたように三人を見る。

「キョウも釣り?」

「ううん。散歩してたら釣竿が流れてたから誰のかなって。ヒデのかな?」

 ヒデはそう言えばヤンに突き落とされたときに手放したままになっていたと、釣竿の存在を思い出す。

「うん。ありがとう」

「糸が絡まってたんだけどほどけなくて。左目が視力落ちたみたいでさ」

「何だキョウ、またか?」

 日陰でまどろんでいたヤンがふいに起き上がり話に入ってきた。

「ヤヨイに診てもらった方が良いんじゃねぇの?」

「大丈夫だよ。まだ見えてるし」

「そっちまで見えなくなったらどうするつもりだ?」

「その時はその時だよ」

 キョウはヤンににっこり笑いかける。あまりキョウと話したことのないヒデは「そっちまでって?」と思わずこぼす。それに気づいたキョウが今度はヒデに笑顔を向ける。

「僕、右目が義眼なんだよ。本物みたいでしょ?」

 きょろきょろと左目と同じ動きをするそれは、義眼だと言われてもわからないほど精巧に造られていた。どうして義眼なのかきいてはいけない。それは十分わかっていた。しかしキョウが隠そうともしない義肢の左脚と右腕、足りない数本の左指も、ヒデにはまだ見慣れたものではなかった。それらはここに来るまでに失ったのか、来てから失ったのか。どちらにしても可哀相だと同情されるのは迷惑だろうか。そんなことを考えながら無意識にずっと義眼を見つめていたらしい。「そんなに珍しかった?」とキョウの顔は苦笑いに変わっていた。確かに珍しかったが、だからといって凝視するのは失礼だろう。ヒデは「何でもないよ」と出来るだけ自然に目をそらした。


 * * *


 高級な別荘が建ち並ぶ閑静な避暑地。そこから少し外れた林の中に一際大きな館がひっそりとたたずんでいた。晴れ渡る爽やかな天気とは裏腹に、迎賓館を思わせる荘厳な館の中は蝋燭だけと薄暗い。そんな館の前に、ちらほらと人が集まって来た。その数は十三人。

 しばらくすると、全員が集まったのを確認したかのように、重々しい扉が音を立てて開き、中から年老いた執事らしい風貌の男が出て来た。

「ようこそお出で下さいました。どうぞ、お入り下さい。ご主人様がお待ちです」

 年配の紳士は丁寧にお辞儀をして、十三人を招き入れた。


 * * *


「つーれたっ!」

 キョウが勢いよく竿を引き上げる。ヒデとヤンが飛び込んだせいで逃げてしまっていた魚もだんだんと滝壺に戻って来ていた。キョウとヤンもそれぞれの釣り道具を取りに帰り、釣り大会が始まっていた。シドは迷惑そうに、一人離れた場所に座りなおしている。

「三匹目だよー!」

 キョウは川魚から針を外しながら嬉しそうに数を数える。今のところ、シドを除けば釣った数はキョウが一番だった。

「僕まだ釣れないんだけど」

「釣り方が悪いんだろ?」

「ヤンだってゼロじゃないか!」

「俺はいいんだよ、別に。お前みたいに晩飯に頼まれてるわけじゃないし」

「ヒデ、僕のあげようか? 二匹以上あっても仕方ないし」

「ううん、自分で釣るから大丈夫。要らないなら放してあげたら?」

「そう? じゃあ放すよ」

 キョウは遠慮がちにたった今釣った魚を手から離す。水を得た魚は元気よく泳ぎ、やがて見えなくなった。

「よし、僕はそろそろ帰ろうかな。これ以上釣る必要もないし」

「じゃあ俺も。かなり暇潰せたしな。まぁせいぜい頑張れよ、ヒデ」

 意味ありげに笑うヤンと手を振るキョウを見送ると、賑やかだった滝壺もヒデとシドを残すだけになった。シドは黙々と釣りを続けている。この二人で話が弾むわけもなく、流石のヒデも沈黙に嫌気がさしていた。そんなとき、竿が微かに動いた。ヒデは慎重に糸を手繰る。全くの初心者ではあるが、シドやキョウの釣り方を真似てみると意外とあっさりと釣り上がった。

「やった! 釣れた!」

 初めての経験に思わず声を出して喜ぶ。いそいそと魚から針を外し魚籠びくに入れた。まだ活発に尾を動かす魚を少し可哀相に思ったが、それよりも嬉しさの方が先行して俄然やる気が出た。魚がかかるのを待っている時間は暇だったが、釣れる楽しさを覚えた今は、前よりも辛くなかった。


 辺りが夕日で赤く染まり始める。気付かないうちにシドも帰っていたらしい。ヒデは魚が二匹入った魚籠びくを手に帰路についた。

 人を何人殺そうが、何回返り血を浴びようが、この村にはただの少年に戻る時間もあるのだとぼんやり考えながら茜空を見上げる。かつて街に住んでいた時に見ていた空よりも広くて、赤い。

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