思惑の底
■side:隊長
だいたい自分のせいであった。
もともと学があったわけではない。集落に学校など無かったし、読み書きができる必要も一部の人たちができていればそれで充分だ。長く生きているつもりはなかった自分が、まさか必要になるとは思いもしない。
だから、未だに読み書き…… 書類というのは食事よりも苦手な気持ちでいる。
というのは、まったく言い訳にもならないとは、分かっているのだが……
隊の装備品関連で本隊へ提出するはずの書類について、提出期限を大幅に間違えていたのだ。
棚卸しが必要だった。
大きな隊ではないが、(誰の趣味か、)いやに銃火器の類が豊富であった。最新銃火器の情報をどこからともなく仕入れてくる奴がいるし、それを難なく扱う奴もいるのだ。そのおかげもあり、そして勘違いしていた期間の間違いもあり、とにかく提出期限までの時間が無かった。
この提出が遅れると、参加する作戦前に逐一同等レベルの書類提出が必要になる。そんな無駄なことはしたくない。
だが、だからと言って目の前の男のオーバーワークを看過することはできない。
「何をしている」
『ナックブンター』が借りている武器庫の中で、タブレットを片手にパイプ椅子に座っていた副隊長へ戸惑い気味に声を掛けた。
彼は、耳に掛けていたイヤホンを外して、俺を振り返って少し呆れたように返した。
「お前こそ、まだ寝ている時間じゃないのか。
ずいぶん早く起きたと思ったが、やはり来たか」
あのイヤホン、たぶん部屋に仕掛けられたマイクに繋がってるのか。こんなところに来てまで何を聴いてるんだお前は……
足元に並べた銃弾ケースに張り付けられたコードを専用のモバイル端末で読み取ると、副隊長は椅子から立ち上がって俺の方へと歩いてきた。
そうして、俺の肩を掴んで倉庫の外へ出そうとする。
「ほら、まだ早い。戻って寝ていろ」
「冗談だろ、自分の不手際を部下に押し付けて寝ていられるか」
「お前が押し付けたわけじゃない。俺が勝手にやっていることだ」
「なおさら承諾できない。あとは俺がやる。もともと俺の仕事だったんだ。お前は戻って寝てくれ」
肩を掴んでいる手を掴んで放すと、今度こそ明らかに副隊長は困ったような顔をした。聞き分けの無い子どもを前にする顔だ。
俺の言葉を受け取るつもりが無いようだったので、俺は彼の傍らをすり抜けて奥へ入ろうとした。の、だが。
苛立ったようにもう一度、彼の手が俺の方へ伸びた。ほとんど反射だ、俺はその手を掴み、関節の逆へ返した。人体の構造上、この方向へ返されると倒れ込む(というか、痛みからの回避でその体勢を取ろうとする)しかない。
まさか俺がそこまで抵抗するとは思わなかったか、副隊長の空色の双眸が驚いたように見開いたのが見えた。うつ伏せに倒れた副隊長の上に跨り、掴んだ腕を背中の方へ寄せる。
「こんなことで命令なんてしたくないんだ。頼むから戻ってくれ」
横に倒された副隊長の片方の水色が、冷めた温度で俺を見上げていた。そうして、一度、深く嘆息する。
彼の薄い唇が開き、
「いったい、何をそんなに」
と、彼の声を聴こうとしてしまったのが間違いだった。
突然、重力とは逆に身体が浮く。跨っていた背中が盛り上がり、いや、副隊長の上体が俺ごと持ち上がったのだ。
驚く間もない、信じられないくらいの力で掴んでいた腕とは逆側に肩を引っ張られ、強制的に視界が傾き、床に叩きつけられるように引きずり降ろされる。
咄嗟に受け身を取ったものの、次の手から逃れる前に肩を掴んでいた腕が、胸の上に重く圧しかかった。そうして左腕も床に縫い留められれば、もう空いた右手で何をする気にもなれない。
というか、あの体勢から腹筋と腕一本で自分ごと持ち上げられたのがじわじわとキていた。
浮いた…… そりゃこの男とは体格差が随分とあるけれどさ……
完全な力業で、言葉通りにねじ伏せられている。
生き物として、完膚なきまでに劣勢であることを突き付けられたのだ。
俺はどんな顔をしていたのだろう。
彼が、ふ、と笑ったのだ。
それはいつもの優しい微笑みではなく、しょうもない遊びに付き合うときの微苦笑でもなく。
─── 一抹の嗜虐心を乗せた微笑だった。
自分でも分かるほど、彼の顔を凝視してしまった。胸の上に置かれた副隊長の腕が、俺の肩から腕へ這うように伝って右手を抑える。
得体の知れない笑みを浮かべた頭が、ゆっくりと近づいた。
■side:副隊長
張りつめていた風船が萎むように、彼の身体から力が抜けるのが分かった。
倒していた上体を起こすと、視界に入った黒い双眸がぽかんと自分を見上げていた。この隊長は、よくこういう表情をする。なぜ、自分にそんなことをするのか理解ができないと、その顔は如実に語っていた。
だが、その理由が理解できなくとも今起きたことは疑いようもない。
少しでも手を放したら飛び起きるのではないかとずっと彼の身体を抑えていたが、さすがにもうおかしな抵抗はしないだろうと彼の身体から退く。
すると、隊長がくしゃくしゃと顔を歪めるのだ。
こちらがびっくりした。
それは、悔しさや痛みに耐える表情ではない。おそらくは、悶えたのだ。
そんな顔は初めて見るし、そんな顔をされるとは思いもしなかった。
なんてことはない。
──── 耳元で囁いただけだ。「では、手伝ってくれないか」
「普通に言えよお…… くそぉいい声しやがってぇ……」
「そこまでか」
囁かれた側の耳を両手で押さえて、隊長は小さな体を更に小さく丸めて呻いた。別にやましいことをしたわけでもないのに、その小ささに反射的に罪悪感を覚えてしまいそうになる。
多少、たしかに耳に息を吹きかけてくすぐってやろうという意識はあった。だがそれよりかは、以前に彼が自分の声をして「心地よくてずっと聞いていたくなる」と言っていたことを思い出していたのだ。
あのときは寝惚けて半分夢でも見ていたのかと思ったのだが…… この反応を見ると、本当にそう思っているのだろう。
俺が口元を手で覆うと、下から「笑いやがって」と悔し気な声が聞こえた。そういう笑いではなかったのだが、わざわざ正さなくてもいいかと思い、彼の肩を宥めるように叩いた。
「了承してくれるなら無理に部屋に帰そうともしないから。食堂が開くまで十分時間がある。
二人なら間に合うだろう」
そう言って、肩を叩いていた手を差し伸べた。
隊長は、じっと俺を見上げたものの、なんの躊躇いもなくその手を取って起き上がった。
押し倒し返したときの俺の顔を、彼は確かに見ていたはずなのに。
無条件で手放しの信頼を、この小柄な青年は自分に寄せてくれる。
よもや俺に傷つけられるとは微塵も考えてはいないのだろう。呆然と俺を見上げる表情に驚きはあっても、恐怖や警戒は欠片もない。
非常に危ういこの信頼は、しかし、一度受け取ってしまうとその透明さに迂闊に触れられない。綺麗なままにしておかねばならないと思ってしまうのだ。
もちろん、いたずらに傷つけたいわけじゃない。
だから、─── うっかりと顔を出しそうになる棘は、もっと別の方向に転換しなければと戒めている。
たとえばそれが、彼への行き過ぎた善意であったとしても。
この傷だらけの手を、ずっと握りしめていられるならば。
(思惑の底 了)
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