異変 part1



 大勢の人が、足早に街を行き交っている。



まだ夜も始まったばかりのこの時間、食事の調達や人との約束で、街は当然、賑わうだろう。



 だが、今日はどこか様子が違う。



 人々の顔はどれもが蒼白で、話し声に賑やかさはない。空気はざわざわと不安な囁き声で揺れている。



 そして――異臭。



錆びた鉄のような臭いが、街全体に満ちているのだった。



 どうやらその発生源は、街の至る所を流れる川の水らしい。見ると、街灯の光に照らされるそれは、毒々しいまでの鉄錆色をしている。



それを橋の上から覗き込んでいるララに俺は尋ねる。



「どうしたんだ? 一体、何が……?」


「解らない。でも、もしかしたら、精霊があの土地からいなくなったことと関係があるのかも……」


「でも、森の泉は綺麗だったぞ?」


「たぶんだけど……あそこはここよりもエルフの里に近いから、精霊の力の影響がまだ残ってたんじゃないかしら」


「つまり、あそこから離れている場所から順に力が失われていっている、と……?」



 不意に、背後でドサリという音がした。



 見ると、そこには一人の小柄なおばあさんが倒れている。



「だ、大丈夫?」



 ララはそうすぐに駆け寄ったが、おばあさんは返事をすることもなく蹲り、腹を押さえて呻き声を上げている。



 もしかして――



 予感して、俺はおばあさんに解毒の白魔法、《キュア・ライト》をかける。



「ララ、近くに医者の家はあるか? あるなら早くそこへ」


「解ってる」



 ララはおばあさんを気遣いながら背負い、医者の家があるらしいほうへと急いだ。そしてやがて、はたと足を止める。



 視線の先を見ると、とある住宅の前に人が列をなしていた。



 その数は、数人というレベルではない。まるで王の馬車を見送る民衆のように、区画のずっと向こうまで行列が続いている。



 もはや訊かなくても解るが、



「……あそこが医者の家か?」


「ええ……」



 察するに、水に異変が生じ始めた時に、気づかずに飲んでしまった人がこれだけ――いや、おそらくはこの数倍はいるのだろう。



 そう気づいた瞬間、ハッと、とある人の顔が思い浮かぶ。それはララも同じだったらしい。



「セリア姉……!」


「ああ。だけどララ、今は落ち着いて、あの行列の横をゆっくり歩いてくれ」


「行列の横を……?」


「ああ。俺の《キュア・ライト》の効果範囲内に入れることで、ほんの多少だが、ここにいる人たちの症状を軽くすることができるはずだ。俺もセリアさんのことが気になる。だから……今はこれで我慢してもらおう」



『見ただろう。『守る』ってのは簡単に言えはするが……修羅の道だぜ。少しでも迷いを見せたら、こうやって滑り落ちる』



 ブレイクが遺した言葉が頭をよぎる。



 自分にとって大切なものを守らねばならないことは解っている。だけど、俺はやはり修羅にはなりきれない。赤の他人だったとしても、その苦しみを見過ごせない。



 そうね、とララは辛そうながらも頷いて、行列のすぐ横を歩いていく。



 呻く人、嘔吐する人、泣き喚く子どもの傍を、ゆっくりと踏みしめるような足取りで歩いていく。



そして、ようやく列の最後尾に辿り着くと、どうやらだいぶ症状が軽くなったらしいおばあさんをそこに残して、自宅へと駆け出した。



「ララ、《テレポート》を使うぞ」



 俺はそう告げてから魔法を発動させ、ダイレクトにセリアさんの家の中へと飛ぶ。



「セリア姉……?」



リビングにその姿はない。



テーブルの上には、食べかけで放置されたようなシチューがある。



 が、それは川と同じ色――オレンジに近いような鉄の色をして、その脇に置いてあるコップの水もまた同じく変色している。



セリアさんは、これを口にしてしまった可能性が高い。



 ララは駆け出し、キッチン、風呂場にその姿がないことを確認してから、二階の寝室へ飛び込んだ。



 すると、そこにはベッドに横たわるセリアさんの姿。



「セリア姉!」



 俺はすぐに《キュア・ライト》を発動、治療に取りかかる。



 セリアさんは薄く目を開いてララを見て、ふわりと微笑む。



「ララちゃん……おかえりなさい。今日は、遅かったわね……」


「こんな時に何言ってんのよ! ぐ、具合は? 大丈夫?」


「ええ……少し気持ち悪いだけだから……。でも、どうしたのかしら……? さっき食事をしていたら、急に……」



マズい。目の焦点が合っていない。それに平衡感覚を失っているように瞳孔がゆらゆら揺れている。肌は汗でじっとりと濡れ、呼吸は息が切れているように速く浅い。



 素人でも解る。こんなの、状態が悪いなんてもんじゃない。『少し気持ち悪いだけ』なんて、間違いなく嘘だ。



 その手を取って握りしめるララに、セリアさんは譫言のように言う。



「ねえ、ララちゃん……」


「う、うん、何?」


「一つだけ、お願い……。もし……私が死んだら、この店を……」


「な、何言ってるのよ……? 店はセリア姉がまだ継いだばかりでしょ? まだまだこれからじゃない」



 ララはそう言ったが、それに対する返事はなかった。



――眠っただけ、か……。



 一瞬ヒヤリとしたが、まだ呼吸はある。治療が辛うじて間に合って、本当によかった。このままいくらか治療すれば、命を落とすということはないだろう。



「ハルト、だ、大丈夫よね? セリア姉は、いなくなったりしないわよね?」


「ああ、たぶん大丈夫だ。水が原因だろうけど、どうやら一瞬で人を殺すような毒物ではないみたいだし……」


「そ、そう。……よかった、本当に……」



 と、セリアさんの手を自らの額に寄せ、深く息をつく。



「でも、このままじゃ水分補給もできないな……。回復できても、その後が……」



 そしてこれはセリアさんだけに起きていることではない。街中で起きていることなのだ。もしこの状態が続けば、想像もしたくないことが起きるだろう。それも、決して遠くない未来に……。



慄然としていると、外から物々しい金属音が聞こえてきた。



「この音は……? ララ、ちょっと外を見せてくれ」

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