第14話 依依のため息
杏玄流でぬくぬく暮らしていた依依が中凰で新たな生活を始め悟ったこと。
それは――。
(生きていくためにはお金。そしてそれを得るための仕事と、時間の確保がなによりも大事なのだと、私は思います)
そこに記された残高は言うなれば、日照りが続き干上がった川といったところ。
(このままでは、あと数日で生活費が尽きる……)
依依は眺めていた所で増えもしない出納帳をパタンと閉じる。
そして、目の前に並べられた自慢の商品に視線を送った。
現在依依は
(開店閉業状態ではあるけど)
いつ何時訪れるかわからないお客を一人残らず逃すまいという意思を持ち、一向に訪れる気配のない客を首を長くし待ち続けているのである。
そんな依依の目の前には、健康祈願や悪霊退散、はたまた学業成就の効果などを
因みにどこの道士隊でもこういった開運商品の展開は行っており、道士隊にとって貴重な収入源となっている。
「でも実際問題こういうのって、いくつもいるもんじゃないし、飛ぶようには売れないよね。やっぱりここは、兄様にさりげなく朝廷内で宣伝してもらうしかない……ってそれは駄目か」
依依はついうかり
(とは言え、
依依は棚に肘を付き、手のひらに顔を乗せる。
現在
満月も重なり、毎晩あちこちでキョンシーの出現が報告されている。そして次々と現れるキョンシーから国民を守るため、天楼国の道士達はフル稼働中という現状。
そんな中、キョンシー討伐任務中にうっかりぎっくり腰になり戦線離脱を余儀なくされたのが、劉帆である。
(今が一番稼ぎ時なのになぁ)
依依はつい残念な気持になってしまう。
「やっぱりどんなに優れた道士でも越えられない年齢の壁ってのはあるよね。早く生きのいい仲間が欲しいところだけど、そっちも
依依は自分に降りかかる全く上手く行かない現状に、大きくため息をついたのであった。
★★★
「先生、具合はどうですか?って、何かお酒臭くないですか、この部屋?」
ぎっくり腰により寝たきりになった劉帆の部屋を訪れた依依。
部屋に侵入した途端、仄かに漂う薬草が混じったような甘い香りに即座に気付く。
「この香りは
依依は鼻をくんくんさせながら、絶対に台所からくすねたに違いないという確信を持った。しかし証拠もなしに憶測で決めつけるのは悪い気もしたので、形ばかり確認する言葉を劉帆にかける。
「一刻も早くこの腰を治すために渋々とまぁ、その、色々あるしな」
「…………飲んだのですね?」
「仕方なくじゃ。酒は
依依が料理に使う為にとわけておいた酒に手をつけたと白状し、更には開き直るという暴挙に出る劉帆。
「確かに
依依は呆れ果てたといった顔を劉帆に向け、ふと違和感を覚える。
(というか歩けないはずだよね?)
依依はぎっくり腰により歩けない。だから身の回りの世話と頼むと依依に病状を自己申告した劉帆を根本から疑う気持を抱く。
「先生、まさかとは思うけど、仮病じゃないですよね?」
「ばかもん、腰を痛めたのは事実じゃ。
強引に話を逸らす劉帆。
(つまり、既に歩けると)
依依は心配し、甲斐甲斐しく世話をして損をしたと一気に気が抜ける。
「じゃ、今日の夜からキョンシーの討伐任務に参加が出来ますね」
「それは無理じゃ。十年前ならまだしも、どんなに優れた道士である儂も歳には勝てんからな。非常に残念ではあるが、もうしばらく療養が必要じゃろうな」
「こういう時だけ老人ぶって、全く先生は調子がいいんだから」
通常劉帆の年齢からすると、たった数日でぎっくり腰が完治するとは思えない。
しかし劉帆は本人が口にした通り、気功を極めた老師である。見た目通りの老人ではない。
(これでも天楼国で仙人に最も近いと言われる道士なんだよねぇ)
依依は世も末だと思いかけ、しかしその実力は認める所であると思い直す。
そして何はともあれ、ぎっくり腰が快方に向かっているのならばそれでいいかと、素直に膏薬の入った小瓶の蓋を開けた。
「そう言えば、新しい道士の求人は出しておるのか?」
「勿論です。でも現在の所、応募者はいません。では劉帆先生、行きますよ」
依依は合図の言葉と共にベタリと膏薬を劉帆の腰に落とす。
「ひぃ、冷たいのう」
「効いてる証拠です」
依依は一日でも早く完治し稼いで欲しいという切実な願いを込め、膏薬を優しく患部に塗りたくる。
「それにしても新たな道士を雇えないとなると、これ以上仕事を増やすわけにはいかん。やはりしばらくはこれまで通り燈依からおこぼれの仕事をもらうしかないだろうな」
「また兄様頼りですか……」
「今どきの若い者が猫も杓子もといったように、みな科挙試験にばかり夢中なのが悪いのじゃ」
劉帆がどこか寂しそうな声を出した。
「まぁ科挙に受かれば
(ありがとう、兄様)
依依は自分より遥かに優秀な六つほど年上の兄、燈依に心から感謝した。
「確かに燈依には頭があがらん。しかし儂ら道士隊がいなければここ、
「まぁ、大国はどうかわかりませんけど、キョンシー小国くらいにはなっているかも。というか、そもそも私達がいなくても
劉帆の冗談地味た言葉に半分ほど同意しつつ、依依は小声で今となっては商売敵である古巣の名を口にする。
(今思えば、あっちはお給金が良かったし)
そりゃみんなあっちに行くよね。というのが依依の正直な感想だ。
「聞こえておるぞ、お前の心の呟きが」
「やだなぁ、何のことでしょう?」
依依は慌てて誤魔化し、劉帆がさらけだすシワシワの肌に膏薬を塗り込む作業に打ち込むフリをする。
現在劉帆と依依は『
何故桃玄と名付けたか。その理由は簡単だ。
義荘の庭に植えられた一本の立派な木。それが桃の木だったからである。
そもそも桃の木は
(それに桃には天下無敵って花言葉もあるしね)
そんな縁起の良い木から名前をつけたのだから、きっと新たな仲間も加わり杏玄道士隊と肩を並べる日も近いかもなどと、依依は呑気に構えていた。
けれど現実は非情であり、新参者である桃玄道士隊に入隊したいと名乗りを上げる物好きな道士など一人もいなかったのである。その結果、桃玄道士隊は現在のところ劉帆と依依のみ。非常にこじんまりとした中、輝かしい一歩をひっそりと踏み出した。
(稼ぐ為には道士の数も多いほうがいいのは確実なんだけどな)
募集をかけても入隊したいと願う道士が一向に現れないという現状。
劉帆の腰に膏薬を塗り込みながら、依依はその原因を分析する。
(やっぱりキョンシーが怖いのかなぁ)
日夜キョンシーと対峙しお金が欲しいと心底願う依依からすると、キョンシーは正直金塊にも等しい存在である。何故ならキョンシーを討伐すると、政府より定められた報奨金が出る事になっているからだ。
(でもまぁ、見た目はあんまりいいとは言えないもんね)
依依は血の気が引いたキョンシーの青白い顔を思い出し、思わず人々が避けたくなる気持がわかると納得する。
そもそもキョンシーとは死体妖怪の一種である。
天楼国では通常死人が出た場合、死体を正しい場所に埋葬する事により、精神を支える陽の精気である
しかし様々な事情により地に返すべき、魄が現世で彷徨う事がある。
つまり死体が魄のみになった状態、それがキョンシーなのである。
そして人々がキョンシーを恐れる最大の理由として挙げられるのは、キョンシーにより傷つけられた人間やキョンシーにより殺された人間もまた、キョンシーになってしまうからだ。
つまり先程、劉帆が冗談交じりに「キョンシー大国になっとるわい」と発言した事はあながち間違ってはいない。何故ならキョンシーを放置しておくと、ねずみ算式にキョンシーがこの世に増殖してしまう恐れがあるからだ。
現在依依の住む、
その中でも最大派閥で名門と呼ばれているのが、依依が縁切りをした杏玄道士隊の
(個人における武術や法術の技量では引けを取らないつもりなんだけど)
なんせあちらは商売上手でなおかつイメージ戦略に長けているのである。
道士隊が相手にするキョンシーは、キョンシーと可愛らしい名前こそつけられてはいるが、一言で言えば死体である。顔色は万年顔面蒼白であるし、足首のみを利用し跳ねるように移動する姿は正直恐怖でしかない。しかも噛まれたら最後、自分もキョンシー化してしまうという有り難くないおまけつき。
(誰も好き好んで道士になんて、なりたくはないよね)
気持はわかると依依は頷く。
それにそもそも道士となるには最低でも七歳から十六歳まで師の教えの元、厳しい修行をこなす必要がある。それだけ習得に時間のかかる道術をもってして、初めてキョンシーに立ち向かう事が出来るのである。
(危険と隣り合わせな上にそこまで努力したのだから、それなりに報酬は欲しいところ)
しかし、皇帝からの報奨金は出来高制。
凶暴だろうと、温厚だろうと、キョンシーはキョンシー。よって討伐する労力に関係なく、一体につきいくらと一律できっちり報酬額が定められているのである。
(だからこそ、科挙試験が行われる今がまさに、道士にとってはキョンシーの書き入れ時なんだけど)
そもそも科挙試験が行われるということは、それだけ多くの人間が中凰に集結するという事を意味する。
しかも科挙試験を前にピリピリとした状態で集い、そのまま人生を賭けた科挙試験に望む。となると些細な事で揉め事に発展しやすい上に、試験の出来に一喜一憂したり、科挙絡みで恨みつらみの感情を抱えたまま自殺する者も多く出る事になる。
(つまりキョンシー化に最適な状況が揃っているということ)
そして科挙絡みでキョンシー化した者が生身の人間を襲う事で仲間をつくる。そしてその溢れんばかりのキョンシーを道士が討伐し治安を守る。
というわけで、大変不謹慎ではあるが道士にとっては、この時期はとても大事。何故ならキョンシー討伐の収入により、一攫千金の可能性を秘めていると言えるからである。
(あぁ、やっぱり稼ぎ時でしかない)
依依は戦線離脱せざるを得ない劉帆の腰を恨めしそうな顔で眺める。
キョンシー討伐が完全出来高制である以上、キョンシーを相手にする道士として今働かずしていつ働くのだろうかという時期のぎっくり腰。
つい恨みがましい気持ちにもなるというものである。
(キツイ、(主にキョンシーが)キモイ、キケンとは良く言ったものだわ)
依依は巷で道士という職業を
人々がそう皮肉るように、正直道士という職業は不人気職である事は間違いない。
現にそのイメージを払拭しようと杏玄道士隊は何年も前から行動していた。
まず勤務年数による固定給制度を導入。さらに年に二回、道士の働きぶりによって各々に賞与を与える事にしたのである。
そして杏玄道士隊を示す真っ白で神々しくも格好良い
その結果、道士市場を独占しているのはもはや杏玄流ただ一つという状況。
(中にいた時は全然そんな事考えもしなかったけど)
天楼国の道士と言えば杏玄流を指すというくらいに、杏玄流が幅を利かせているのである。
しかも杏玄流の中で生まれ育った生粋の道士達はそれぞれ細かく別れた班の長につき、雑務に追われる事無く修行や仕事に専念出来る環境を整えられている。
(それに比べてこっちは実働部隊も私、雑務も事務も私、家事も私……やはり切実に人手が足りていないと言わざるを得ない)
現在の桃幻道士隊の圧倒的人員不足に依依はつい重いため息を漏らす。
「ま、しばらく儂は働けぬ。しかし案ずるな。我らには出世に期待が出来る燈依がいるからな」
「兄様は道士じゃないですけどね。それに兄様は科挙登第組みですよ?」
今どきの若いもんは科挙に夢中などとつい先程まで愚痴っていた劉帆。その変わり身の速さに依依は苦り切った顔を劉帆に向ける。
「何のことやら」
調子よくとぼける劉帆に依依はくたりと体の力が抜ける。
「さ、先生、これでおしまいです。私が作った特性の
依依はぺたりと劉帆の腰に黄色い霊符を貼った。
霊符にはこう書かれている。
『
依依の願望までもが込められた、実に欲張りな霊符である。
「うむ、依依、すまぬな。では、今日はもう店じまいとするかのう」
「えっ、先生。今日もまたお休みするつもりですか?キョンシー討伐は?」
「影玄部の奴らが片っ端から何とかするだろう。何だか急に眠気が……」
そう口にするや否や劉帆は目を閉じ、わざとらしくいびきをかき始めてしまった。
(先生……)
依依は頭の中で出納帳に記載された残高を思い浮かべ、ひたすら大きなため息をついたのであった。
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