デジャヴの領域 〜天使のレクイエムAnother Story〜

愛野ニナ

第1話


 立ち入り禁止の屋上で、私は天使を待っていたのだろうか。

 コンクリートには白いスプレーで描かれたらくがき。

「HEAVEN」

 かろうじて判別できるアルファベットの文字と、その先に延びた矢印が一箇所だけ破れた金網のフェンスを指し示している。

 私はその矢印に従って進み、破れたフェンスをくぐり抜ける。

 フェンスと宙の間の数十センチの地面は、たぶん生と死の境界線だ。

 ここから飛び立てば、私も天使になれるかもしれないと、

 そんなふうに思っていた頃があったような気がした。

 刹那のデジャヴ。

 これをどこかで見た。




 それはいつの日の記憶なのか、そう遠い昔のことでないことだけは確かなのに、今の私には起き抜けに見る夢のように儚く掴めなかった。

 この雑居ビルの屋上では、目下に広がる景色もあの頃の私が見ていたものとはまったく違っている。

 いつのまにか見慣れてしまった夜の街、薄汚い欲望にまみれた虚飾のイルミネーション。

 この、境界線を一歩踏み出せば、別の世界へと行けるのかもしれない。

 だけどその世界が、私の望む世界と繋がるとは限らない。

 あの日、ナユタはこの場所から飛んで、何処へ行ってしまったのか。

 ナユタが消えたしばらく後には、少女達が何人か、彼に続くようにこの場所から飛びおりて、小さな事件にもなった。

 少女達はここから別の世界へと、彼を追いかけて探しに行ったのだろうか。

 でも、翼の無い彼女達の体はただ地上へと落ちて、無残な死体をさらしてしまっただけであった。

 誰も、天使になんてなれなかった。

 そしてそれは、私がしてもきっと同じ結果になるだろう。

 同じ世界にいた時だって、私はナユタにとって特別な存在でも何でもなかったのだから。

 複雑に分岐した世界で、ナユタの行ってしまった世界と交わる可能性など虚数的な確率でしかない。

 もう二度と会えないという現実。

 声を聴くことも触れることも叶わない。

 とにかく私のいるこのセカイから、

 ナユタはいなくなった。




 思い出は時間が過ぎるにつれて美化されてゆく。

 実際は、本当にささやかな、なんでもないことだった。

 私がナユタに抱かれたのは、彼のバンドのツアーが私の住んでいた地方都市に来ていた時だった。

 ライブの打ち上げの後、彼が泊まっていたビジネスホテルの部屋に呼ばれた。

 ナユタのバンドは一応メジャーレーベルからCDも出していて、バンド好きの女の子の間ではそれなりに有名ではあったが、全国的な知名度には程遠く、東京以外の地方ツアーではライブハウス程度の動員がせいぜいの規模。他に数多あるインディーズバンドとさほど活動に違いはなかった。

 それでも、地方に住む凡庸な中学生の私にとって、音楽雑誌にも載っている東京のバンドは、別次元の世界にいる人のように遠い存在であった。

 私は中学生に見えないようにと大人っぽいメイクをして、自分にできる限りのおしゃれをして着飾り、ライブハウスへ出かけて行った。

 私は独特の熱気に酔った。鼓膜を破る様な爆音が大砲のように胸を貫く。

 嗚呼、そして、私にとっては特別な、神にも等しいナユタがいる。

 真近に聴く低く囁くようなヴォーカルと少し荒々しく奏でるギター、この現実にナユタが存在しているというだけで感動だった。

 自分より少しだけ年長に見える他のファンの女の子達に付いていって打ち上げにも侍り、慣れないお酒も少しのんでせいいっぱい大人のようにふるまった。

 だから、ナユタに部屋に呼ばれた時は天にも登るような気持ちだった。

 私はナユタのファンだったから。

 いつもCDを聴いて音楽雑誌を眺めながら、狂おしい想いで憧れていたナユタ。

 抱かれてみてわかった。

 細いと思っていたミュージシャンの腕は、私よりはるかに逞しかった。

 私はこのとき処女だったが、こんなことなんでもないというように演じてみせた。

 どう繕ったところで私は田舎の中学生でしかなく処女だったことも見抜かれていただろうが、その時は必死で、子供に見えないようにと、二十歳には見えなくともせめて十七か十八くらいに見えるように演じきれたと思っていた。

 今にして思えば、私が中学生だろうと高校生だろうと二十歳の女だろうと、ナユタにとってはどうでもいいことだったとわかるのだが。

 処女だった私にもたらされたのはいくばくかの苦痛と、快楽にはほど遠い生理的な生々しさと、軽い失望、行為の後のただ空虚なだけの時間だった。

 田舎で夢見ていた妄想のロマンスとはぜんぜん違ってはいたが。

 それでも、あこがれていた世界がわずかに近くなった気がした。

 ただそれだけのことなのに、もう自分は夢見ているだけの田舎娘ではなくなった気がして、まったく愚かな考え方ではあったけど、

 そんな特別な世界を垣間見た自分が少しだけ誇らしかった。




 私がナユタと特別な時間を過ごしたのはこの一度きりであった。

 ナユタはきっと覚えてもいないと思う。そんな女の子は私の他にもたくさんいたから。

 それを遊ばれたなんてありきたりなことを言って怒ったり悲しんだりするほどには子供ではない。あの日だって部屋に呼ばれた時から、こんなことくらいは承知していた。

 彼の音楽を聴いてもライブに行っても、その身体に触れても抱かれても、私はナユタのことを理解できなかった。

 ナユタのほうだって私とわかりあおうなんて思ってもいなかったはずだ。

 ナユタと私だからでは無い。

 どのような関係性においても、自分以外の他者の心に触れることなんてできやしない。

 身体で繋がる方がずっとたやすいから、その関係を愛とか恋とかロマンティックな言葉で飾るのだ。

 ナユタの追悼に私はここに来て、この場所に立つ。

 そしてこの感覚を思い出した。

 ナユタに出会う前の私の、あの秘密の「儀式」のことを。

 屋上の境界線に立ち、死を思う。

 ここは、天使のライン。

 かつての私はそうやって毎日、自分が生きているということを確認していた。

 でも私はもう、あの時とは違う。

 当時の苦しみは、いつしか時折思い出すだけの鈍い痛みに変わり、今ではそのせつなさを懐かしむ余裕すらあった。

 私は、天使になれなくていい。

 さよならの花束をここに飾ろう。

 この、天使の境界線に。

 私は自分の足で地上に降りて、煌く街の中へと歩き出した。


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