第1章 1話



「はじめまして、桜庭愛那さくらばあいなちゃん。あたしはプリメール。あなたの恋を心から応援し、祝福するために使わされた妖精です」

半開きの窓から机へと降り立つと、名前を呼ばれた彼女は目をぱちくりさせて固まった。

……ここまでは想定内ね。問題は次のアクションだわ。

あたしは頭の中で『契約妖精マニュアル』のページをめくる。「初めて妖精を見たヒトの代表的な反応」は……。

パターンA、驚くあまり暴れ出す。

パターンB、倒れて気を失う。

パターンC、無視する。

どれにも対応できるよう構えていると、彼女は机を両手でバン!と叩いた。

パターンAかな?と思ったのも束の間、

「写真とってもいい!?」

……キラキラした目に見つめられ、あたしはマニュアルの更新を妖精女王様に要請することを固く決めた。



ヒト──人間と妖精は古くから深いつながりを持つ種族同士だった。

お互いが生きやすい世界になるよう、人間はその逞しい肉体を以って妖精を外敵から守り、妖精はその慈悲深い精神を以って人間の願いを叶えてきた。

そのつながりは妖精の存在が御伽噺おとぎばなしとされる今でもひっそりと続いており、妖精は願いを持つ選ばれた人間のもとへ現れる。

その人間にしか見えない姿で、彼等の願いを叶えるために──



「……とまあ、ちょっと難しく言ったけど、要するにあなたは妖精が願いを叶えるにふさわしい人間ってわけ。どう?嬉しい?」

「嬉しい!!でもやっぱり写真には写らないんだね。本で読んだ通りだなあ。鏡にも映らないってほんと?」

スマートフォンの画面とあたしを交互に見比べながら、愛那はおだやかに笑っている。

……適応力高いなあ、今の子は。この子が特殊なだけかしら。

研修で「妖精が迫害されてきた時代がある」なんて教わったのが信じられないくらいだ。

「それで、あなたの好きな人は?」

ずばっと聞く。

愛那は頬を赤らめて、スマートフォンのアルバム画像を無言で差し出してきた。

大きな口を開けて笑っている男の子。画質が粗いのは拡大したからだろう。

「へえ。かっこいいじゃない」

「ねえプリメール。本当に私の恋を叶えてくれるの?」

打って変わってしおらしくなる愛那。

「100%約束はできないわよ?あたしがするのはあくまで応援。それでも普通の人間にできないようなサポートはできるからね。頼りにして頂戴」

肩に止まってウインクしてみせる。

愛那はしばらく何かを言いたそうにまごついていたけれど、意を決したように口を開いた。

「あの、私──」

「ただいまー」

部屋の外、廊下からタイミング悪く声が聞こえてきた。

続いて玄関のドアを閉じる音と、重い荷物をドサッと置く音。

「お、おかえりー!……おじさんが帰ってきちゃった」

愛那が小声でささやく。基本的に妖精の身体は人間の10分の1くらいしかないから、耳元で囁かれると小声でもかなりむず痒い。

「どうしよう。とりあえず隠れて」

「大丈夫よ。あたしの姿はあなたにしか視えないわ」

精一杯胸を張る。

「本当?」

「確かめたいならついてくわよ」

部屋のドアを開ける愛那の背中を追って、あたしたちはリビングに出た。

「レンくん、今日のお土産は?」

何でもない風を装って愛那が聞く。

問いかけられた背中がくるりと振り向いた。

ちょっとボサついた肩までの髪。髭はない。そこそこ整った顔立ちだけど、わずかにくたびれて見える。

切れ長の瞳だけが愛那と似ていた。

「今日はグリーンカレーの素だ」

「みどりカレー?」

「野菜がいっぱい入った外国のカレーだ。一緒に作るか?」

さらに目を細めて笑う姿を、あたしは隠れることなく観察する。

桜庭蓮二さくらばれんじ

契約相手の家族構成は事前に通知されているから、愛那が今この叔父さんと二人で暮らしていることは知っていた。両親は海外出張で家を開けることが多くて、近くに住んでるこの人がよく面倒を見に訪ねてくるのだと。

「作る作る!」

愛那は彼を「レンくん」と呼んでかなり慕っているようだ。

エプロンの紐を結びながら愛那はあたしにそっと目配せした。その視線だけで「ほんとに大丈夫?」と言いたいことが伝わってくる。

あたしは小さな手でグーサインを出し、蓮二の観察を続けた。

誰がライバルか、誰を味方につけられるか、誰を利用できるか。それら全てを頭に入れて愛那をサポートするために、周りの人たちについての情報はしっかりと集めなきゃならない。

手始めがこの叔父さんだ。身内があんまり過保護だと動きづらいし、人となりをチェックしとかないとね。

「ナスとパプリカ切ったよー」

「よし、もう少しで肉が焼けるからな。一気に入れるぞ」

「いい匂いしてきたね!」

二人は並んでキッチンに立ち、カレーの下ごしらえをしている。和やかな光景だ。

火元は叔父さんが管理しつつ、野菜の準備を愛那に任せている。何度もこうやって一緒に料理をしてきたんだろう。

そのうち具材が煮え、良い香りが漂ってきた。

「ねえ、レンくん」

「なんだ?」

「妖精ってご飯食べるのかな」

ちょっと、何聞いてるの!

あたしが愛那のもとへ飛ぶ前に、叔父さんが口を開いた。

「そうだなー。普段何食べてるかは知らないけど、妖精が人間の家畜やパンを盗んでいくなんて話は昔から伝わってるし、人間と同じものも食べるんじゃないか?」

叔父さんが盛り付けをしてる間に愛那がテーブルで食器を揃える。あたしは彼女のそばに寄った。

「もう、びっくりしたわよ。いきなりあんな質問するんだから」

「ごめんごめん。でもレンくんはいつもああだよ。面白い話いっぱい教えてくれるの」

愛那は小声で答える。

……なるほど、あたしみたいな未知の存在をやけにすんなり受け入れたのはあの叔父さんの影響か。

「それで本当はどうなの?」

「え?」

「カレー。食べる?」

ふと視線を下ろすと、花柄の小鉢が愛那のてのひらに乗っていた。

あたしは彼女の優しさに感動しながらも、首を横に振らざるを得なかった。

「任務中は人間界の食べ物を食べちゃいけない決まりなの」

「なんで?」

「美味しすぎるから。……昔、任務そっちのけでグルメに走って罰をくらった妖精がいたらしくてね……」

「ふふっ」

吹き出す愛那。

「アイ、何か言ったか?」

「なんでもなーい!」

……ま、ちょっと趣味が特殊なところ以外は普通にいい叔父さんっぽいし、警戒する必要もないか。

夕食の席は家族水入らずにさせてあげましょう。

愛那に一言断ってからあたしはリビングを離れて、夜の散歩に繰り出した。




「プリメールはどんなことができるの?」

部屋に戻ると、愛那はもうパジャマでベッドに寝ころんでいた。

「聞いてくれるのを待ってたわ」

背中の羽を二枚抜き取りペンとメモ帳に創り変える。箇条書きして愛那に見せた。

・空を飛ぶ

・姿を隠す、見えなくする

・姿を目立たせる、ムードを盛り上げる

「ムードを盛り上げるって?」

「こういう感じよ」

羽根を広げて息を吸う。

吐いた息が細かな無数のハートになって、ふわふわと部屋中に舞った。

「わぁ、すごい!」

「あとはヒトより耳がいい、くらいかしら。明日は学校までついていくわね。あなたの好きな人を直接見たいし」

愛那に囁きかけると、彼女はまた頬を赤らめた。

「……うん」

「そうだ。さっき何を言いかけたの?叔父さんが帰ってくる前」

気になっていたことを尋ねると、愛那の顔が一瞬だけ強張こわばった。

けれどすぐ元に戻る。

「あー……えっと、別に大したことじゃないよ。これからよろしくねって」

おやすみ、と布団を被る。

あたしもおやすみ、と返して、愛那の手の甲にキスをした。



寝息が規則的になったのを聴き届けてから、あたしはそっと愛那の部屋を出た。散歩のつづきをしようと思ったのだ。

玄関までの廊下を進むと、途中にある部屋から灯りが漏れているのが見えた。

叔父さんの部屋だ。

ドアの隙間から覗き込む。

叔父さんは机に向かっていた。何かを真剣に書いているようだ。

ふと好奇心が湧いて、ドアの隙間から部屋の中にそっと潜り込んだ。

机のそばまで寄ると、書き込んでいるのは何かのノートだとわかる。

しゃがみ込んでノートの中身をよく見ると、どうやら絵のスケッチみたいだった。手元は動いていて視認しづらいけど、隣ページの人物画は線は荒いものの正確にヒトの身体を捉えている。輝く瞳、艶めく唇、白い肌。

……いや、これはヒトじゃない。背には羽根が生えているし、耳の形が違う。

この特徴は妖精のものだ。それも──

「どのくらい当たってる?」

「んー、いいセンいってるけどやっぱり想像止まりね。第一、妖精女王ティターニア様はもっと気高くて美しくて……」

そこまで言って凍りついた。

どうにか首から上だけを動かして、あたしは問いの主の顔を見つめる。

三日月みたいに鋭い瞳で、口元をわざとらしく広げて、叔父さんは──『レンくん』は──言った。


「よう。俺の姪が世話になるみたいだな、プリメール……だっけ?」


こ、こいつ……!あたしのことが視えてるの!?

『レンくん』は椅子をくるりと回し、張り付いた笑みで畳みかけてくる。

「どう?あんたから見て愛那は。いい子だろ、可愛いだろ、是非とも恋叶えたくなるだろ」

「なんで恋愛相談って決めつけるのよ」

「身内に相談しにくい内容ナンバー1だろ。当たったみたいだな」

まずい、このままだと会話の主導権を握られる!

「いつからあたしが見えてたの。最初から?」

無理矢理話題を変えた。

「ああ。演技が上手かったろ?」

演技なんてレベルじゃない。夕飯のときの振る舞いはほぼ自然体だった。今までに似たような経験を何度もしてきたとか……?

いや、そんなこと考えてる場合じゃない。

「……あたしをどうするつもり」

「どうもしねえよ。言いふらしたって俺が頭おかしい奴認定されるだけだ。そんなことしたら愛那が泣くだろ。……あ、そうだ」

嫌な予感しかしない。

「俺と協力しないか?」

「はぁ!?」

思わず羽を広げる。

「あんたは俺じゃ聞けない愛那の悩みを聞き出せるし、俺はあんたが知らない愛那の情報を教えられる。WINWINだろ?」

「わ、笑わせないで。人間の手なんか借りなくたって愛那は私が幸せにする!」

強気な態度には出るものの頭の中はグチャグチャだ。

「妖精は契約した人間にしか見えない」という大前提が突然揺らいだのだ。今すぐ妖精界に戻って妖精女王様に相談しなくちゃならない。

なのに目の前の男は、

「冷たいなー。仲良くしようぜ」

……こいつ、素だとこんな砕けてるのか。愛那と話していたときの「穏やかで優しい叔父さん」の面影はどこいったわけ?

「い・や・よ!」

べーっと舌を出し、一目散に部屋を出た。

……なんかこう書くとあたしが捨て台詞だけ吐いて逃げたみたいじゃない。違うわよ、やらなきゃいけないことがあるの。

最後に一瞬だけ振り返ると、レンはまだこちらを向いていた。

微かに笑っている。

細い瞳はやっぱり愛那と似ていて、そのことが余計にあたしを苛立たせた。




──こうしてあたしの契約妖精としての生活は、大波乱から幕を開けたのだった。




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