第5話 真実との出会いへ、
タクシーは、大通りから駅前通りへ曲がり、西四丁目で電車通りに入り、そのまま軌道に沿って進んだ。
僕は、車窓から街並みをじっと見つめていた。
タクシーは、電車通りを南に十分程走った。
「ここです!ここで止めて下さい。」
「は、はい。」
タクシーは、少し強めのブレーキをかけて止まった。
僕は、タクシーを降りると、電車通りから一本中通りに入った。
この辺りは、閑静な住宅街であり、人通りもなく、静まり返っていた。
僕は、雪の積もった路地を進み、一軒の家の前で立ち止まった。
レンガ造りの小さな洋風の建物が、ひっそりと佇んでいた。
一階の窓に明かりが灯っていた。
僕は、玄関まで進み、呼鈴のボタンを押した。
家の中でチャイムが鳴り、そして玄関の灯りがついた。
住人が玄関のドアまで来た様だ。
こちらを伺っているのか、しばらくして、ゆっくりと玄関のドアが開いた。
「圭吾さん。」
現れたのは、秋絵だった。
「少し、自信は無かったけど、思い切ってベルを押してみたんだ。やっぱり、ここで良かったんだ。」
「思い出したの?」
秋絵は、困った様な表情で言った。
「大事な事は、まだほとんど思い出せていないよ。でも、僕が愛した人は、あなたではなく、そして、その人はこの家にいたと言うことはわかった。」
「そう・・・。」
「お願いだ。本当の事を教えて下さい。」
「今日は、寒いわね。入って。」
秋絵は、真っ暗な空を見上げながら言った。
僕は、言われたとおり、玄関に入り靴を脱いだ。
家の中は、人気がなく、とても静かだった。
廊下を通り、リビングに入ると直ぐに、書棚の上にある小さな仏壇が目に入った。
そこには、二人の女性の写真が飾られていた。
一人は、四十歳前後で、もう一人はもっと若い、十七、八位の少女だった。
僕は、その写真に釘付けになった。
少し笑みを浮かべた、とても綺麗な顔立ちの少女だ。
僕の心臓が、大きく高鳴った。
「私の妹よ。」
「もしかして、この人が、僕が愛した人で、しかも亡くなって・・、うう・・。」
いつもの激痛が頭を襲ってきた。
「大丈夫?」
「ええ、いつもの事なので、大丈夫です。」
「いつもの事?」
「夢の中の人を思い出そうとすると、いつも頭が痛くなるんです。」
「それは、きっとあなたの体が思いださない様にしているのよ。」
「そんな、どうして愛した人を思い出してはいけないんですか?僕には、わからない。」
「お願いだ、本当の事を教えて下さい。」
「困ったわね。私の一存では決められないわ、」
「他にも僕の過去を知っている人がいるんですか?」
「そう・・、私達の叔父よ。」
「叔父・・さん?」
「とにかく、ここまで来たら、あなたにちゃんと話さないとダメね。」
「ちょっと、待ってて。叔父に電話してみるわ。」
秋絵は、携帯電話を持って、リビングから出ていった。
僕は、リビングに一人残された。部屋の中は、外の音も届かず、掛け時計の音だけが聞こえる、とても静かな空間だった。
かつて、僕はこの部屋に来ていたのだろうか。
この家で一体、自分に何が起こったのか。ようやく、全てがわかるのだろうか。
僕の期待は高まっていた。
そして、しばらくして、秋絵が戻ってきた。
「叔父さんが、これから来てくれるって。」
秋絵が、ソファーに座りながら言った。
「その人も僕の記憶に関係があると言うこと?」
「そうよ、近くに住んでいるの。叔父さんが来るまで、少し時間があるから、それまで私から話すわね」
秋絵は、佇まいを直しながら言った。
僕も、いよいよと言う気持ちで、身構えた。
「あなたが愛したのは、私ではなく、私の妹の美冬よ。」
(やはり、この人が、)
遂に真実にたどり着いた。そんな気持ちで僕は、あらためて仏壇の写真を見直した。
夢の中の女性と写真の彼女が、僕の中で、今ひとつになった。
「彼女は、なぜ亡くなったの?」
「先天性多臓器不全症候群と言う珍しい難病で、十八歳で亡くなったわ。」
「どうして、僕は彼女のことを憶えていないの。やはり、ノイローゼで?」
「いいえ、違うわ。あなたの記憶を消したのよ。」
「き、記憶を!」
「そうよ。美冬に関する記憶をあなたから消したのよ。」
「どうして?」
「あなたは、美冬の死を受け入れることが出来ずに、後を追おうとしたのよ。」
「自殺を?」
「そう、あなたは精神的にかなり、やられていたわ。」
「美冬は、あなたがそうなる事を予期していたのね。」
「それで、私と叔父に、あなたの記憶を消すように頼んでいたのよ。」
「どうやって?そんな事が可能なの?」
「叔父は、大学で脳医学の研究をしているのよ。」
「僕の記憶に何かをした、と言うこと?」
「そう、一種のマインドコントロールを施したのよ。」
「そんなにうまく、特定の記憶だけ消す事が出来るの?」
「詳しい事はわからないけど、あなたが、それを強く望んだので、うまくいった様よ。」
「僕が?どうして、そんな事を望んだんだ!」
「多くの人達は、家族や恋人と死別しても、その悲しみは、ある程度、時が解決してくれるわ。」
「まあ、私も、母と妹を亡くして、今でも、とても辛いけど、なんとか、こうして生きているけど。」
「でも、あなた達二人は違っていた。とても強い絆で繋がっていたのよ。」
「あなたは、別れの辛さに耐えられず、放っておいたら、間違いなく自殺をしていたわ。」
「僕は、その辛さから逃げるために、記憶を消す事を選んだ?」
「そうよ。」
「愛した人の記憶を捨てて辛さから逃げ出すなんて。僕は、何て情けない男だったんだ!」
「違うわ。私と叔父が、あなたを守るために、強く勧めたのよ。あなたの方から言い出した事ではないわ。」
「それにしても・・・。」
「突然の話しで、驚いたでしょ?」
僕は、思いもよらない自分の過去を聞いて、頭が少し混乱した状態で、頷くしかなかった。
「紅茶を入れてくるわね。」
秋絵は、席を立ってキッチンへ向かった。
まるで他人の話しを聞いているようだが、これは、紛れもなく自分の事なのだ。
とても不思議な感覚だった。
静かな空間の中で、お湯の沸く音が、妙に響いていた。
「どうぞ。」
秋絵が、紅茶の入ったカップをテーブルに置いた。
「ありがとう。」
僕は、礼を言って、熱い紅茶を一口飲んだ。
「この十年間、あなたから何も連絡が無かったから、うまくいっていると思っていたわ。」
秋絵も紅茶を一口飲んだ後に言った。
「この前、偶然あなたを見た時は、本当にびっくりしたわ。記憶が戻ったのかと思ったわ。」
「でも、私の事を知らなかったし、私も突然の事で、どうしていいかわからず、とりあえず、知らない振りをしたのよ。」
「そのあと会った時、どうして嘘を言ったの?」
「あなたの事が気になって、毎日見ていたのは、本当よ。」
「近くのビルから、同じ様な時間にあそこを見張っていたら、あなた、毎日いるじゃない。」
「私、あなたの様子を見ていて、心配になって、叔父に相談したのよ。」
「そして、二人で話し合った結果、美冬の願いを大事にするため、あなたに嘘を言って、納得してもらおうと言う事になったのよ。」
「結婚している、と言うのは?」
「それも嘘よ。見てのとおり、一人暮らしよ。」
確かに、来た時から、家の中は、一人でひっそりと暮らしている、という感じがしていた。
その時、玄関の呼び鈴が鳴った。
「来た見たいね。」
秋絵が玄関に迎えに行った。
玄関のドアが開く音に続いて、何か、話し声が聞こえた。
僕は、ソファーから立ち上がり、二人が来るのを待った。
「やあ、久しぶりだね。と言っても、私の事を憶えていないか?」
紺色のコートに大きなカバンを持った初老の男性が、僕に話し掛けながらリビングに入って来た。
「はい、残念ながら。」
僕は、軽く会釈をしながら、答えた。
この品の良い、いかにも大学の研究者といった感じの男性の記憶は無かった。
「どこまで、話しをしたのかな?」
叔父は、秋絵に聞いた。
「美冬が、恋人だった事と、叔父に記憶を消してもらった事までは話したわ。」
「そうか。」
「僕の記憶は、もう戻らないのですか?」
「その前に先ずは、私が君に何をしたか、きちんと説明しなければならないね。」
「お願いします。」
「美冬が亡くなった時、君の精神状態は非常に不安定で、発作的に自殺してしまう可能性が非常に高かったんだ。」
「そんなに、ひどかったんですか。」
「うむ、私は脳医学を研究しているが、精神科医でもあるのでわかるが、当時の君は非常に危険な状態だった。」
「僕を守るために?」
「そうなんだが、医学界では認められていない治療法を用いたんだ。」
「そして、それはかつて、美冬にも施したことがあるんだ。」
「それは、どの様な方法なのですか?」
「うむ、美冬が九歳の時に、母親を病気で亡くしてね。両親は美冬が赤ちゃんの時に離婚していて、母親に対する愛情が、ひときわ強かったんだ。」
秋絵が、悲しそうな顔で聞いていた。
「当時、美冬の心の傷は、とても深く、精神的に支障をきたしかねない状態だったんだ。」
「そこで、私は、かねてから研究していた、記憶を脳の奥に閉じ込める治療法を試みたんだ。」
「記憶を閉じ込める?」
「そう、記憶を完全に消し去る事は不可能だが、記憶を呼び起こさない様に、脳をコントロールする事は、ある程度可能性なんだよ。」
「どういう方法なのですか?」
「これは、私がPTSDと言って、心的外傷後ストレス障害の治療法の研究から発見した方法なのだが、その人にとって、とても嫌な記憶を思いださい様に、マインドコントロール、いわゆる洗脳するのだが、催眠術と組み合わせることで、その効果を長期間に亘って継続させる方法なのだよ。」
「洗脳?」
「うむ、普通洗脳と聞くと、あまり良いイメージではないが、自分を守るためにも有効な方法でもあるんだ。」
「美冬の場合、母親の死という悲しい記憶を完全に封じ込める事は出来なかったが、それを思い出さない様にマインドコントロールすることで、ある程度、悲しみを和らげることが出来たんだ。」
「同じ事を僕に?」
「そうなんだが、君の場合、更に新たな方法を試みたんだ。」
「それが、認められていない治療法なのですか?」
「うむ、実は、洗脳する際に、その効果をより強くするために、精神活性剤を直接血管に注射するんだ。これによって、脳が活性されて、コントロールされやすい状態になるのだが、その危険性も含めて、今でも認証されていないのだよ。」
「そうだったんですか。それで、他の記憶はあったが、彼女の記憶だけが無かったんですね。」
「そうなんだ。美冬の事を、思い出さない。更に、思い出そうとすると、肉体的苦痛を感じる様に脳をコントロールしたのだよ。」
「それで、思い出そうとすると頭痛がしたんだ。」
「その苦痛が身体にどの様な影響を及ぼすのか、また精神活性剤の使用も含めて、不明な点もあったが、苦しんでいる圭吾君を助けるために治療を行ったんだ。」
「治療には、三日間かかったが、その後、丁度良く、君が美冬との思い出が多い札幌を離れて、東京に戻った事も効果が続くのに良かったんだろうね。」
「東京に戻りたくなったのは、マインドコントロールのせいでは無かったのですか?」
「そうなんだよ。記憶の封印と関係があるかもしれないが、君の意志だったんだ。」
「それと、三日間であなたの部屋から、美冬に関する物は全て取り除いたのよ。」
秋絵が言った。
「そうだったんだですか。それで、何も記憶が無かったんですね。」
「今更ながら、申し訳無かった。」
叔父は、深々と頭を下げた。
「いいえ、それはいいんです。僕を助けるためにしてくれた事ですから。気にしないで下さい。」
「ありがとう。そう言ってもらえると、私としても助かるよ。」
「それより、僕の記憶は完全に消えていない、と言う事ですか?」
「うむ、美冬の記憶は、今も君の脳の中にある。」
「記憶を取り戻す事は、可能性なのですか?」
「可能かどうか、まずは今の君の状況について話してもらえるかね?」
「はい。」
「記憶が戻りはじめた経緯を聞かせてくれるかね。」
僕は、これまでの事を全て話した。
「なるほど。札幌への転勤がキッカケになったのは間違いないが、一年前からの夢が、今回の件の引き金になっている様だね。」
「なぜ、あの様な夢を見るようになったのか、僕には全くわからないのです。」
「夢を見始めた一年前頃に何か、生活面での変化は無かったかね?」
僕は、一年前のことを考えたが、特に思い当たる事は無かった。
「そう言えば、この前、今の彼女と付き合い始めた頃から夢を見るようになったと、言っていたわよね。」
叔父の横に座っていた秋絵が言った。
「確かに、そうですが。彼女と今回の事は、関係ないと思います。」
「彼女と美冬が似ているとかは、ないかね?」
「いいえ、似ていません。」
僕は、あらためて仏壇の写真を見ながら言った。
「彼女と付き合ったのと夢を見始めたのが、同じ時期だったのは、たまたまの偶然だと思います。」
「そうか、夢のキッカケが、何かあるはずだが、今となってはわからないね。」
「それがわからないと、記憶を取り戻す事が出来ないのですか?」
「うむ、やはり状況がわかった方が、対処する上で、より安全なのだが、」
「多少危険でも構いません。記憶を戻して下さい。」
「まあ、記憶を戻す事は、可能ではあるが・・。」
「本当ですか。是非お願いします。」
「しかし、君の記憶を封印することは美冬の願いでもあったからね。その気持ちを考えると・・。」
伯父は、困った様な顔をして、秋絵の方を向いた。
秋絵も困った顔をして黙っていた。
「僕なら、大丈夫です。自殺なんて、もう考えません。」
「しかしね、記憶を取り戻すと言うことは、耐え難い苦しみも再び、よみがえるということなんだよ。」
伯父は、僕の目をじっと見詰めながら言った。
「お願いします。僕は、彼女のことを思い出したいんです。」
「苦しい記憶に耐えられるかね。」
「札幌に来て、わかったんです。彼女は、僕にとって、とても大切な人だと言うことを。そんな大切な人を記憶から追い出して、自分だけ普通に生きていたなんて、自分は、なんて情けない人間なんだと。」
「僕は思うんです。彼女が、僕の記憶の中に戻りたがっているのではないかと。」
「どうか、二人の為にも、僕に記憶を戻して下さい。」
「そうか、君の意志がそこまで強いとはね。この十年間で、随分と強くなった様だね。」
「秋絵、どうだろう、美冬との約束を破る事ことにはなるが、圭吾君の記憶を戻してあげてもいいと思うが。」
「そうね。今の圭吾さんなら、大丈夫だと思うわ。美冬もきっと、それを望んでいると思うし。」
秋絵は、しばらく考えた後に言った。
「わかった、やってみよう。しかし、うまく記憶が戻るとは限らないよ。」
「はい、よろしくお願いします。」
「今から、始めるの?」
秋絵が驚いた様に言った。
「うむ、記憶を取り戻したいという気持ちが強いうちの方が、効果は大きいだろう。それに、この家の方が、圭吾君が何度も訪れているので、良いかもしれない。」
「さあ、あちらの椅子に座って。」
僕は、指示に従って、窓際にある大きな1人掛けの椅子に座った。
革貼りのゆったりとした椅子は、とても座り心地が良く、心が落ち着いた。
叔父は、部屋の電気を消して、持ってきた小さなランプに火を灯した。
「洗脳の解除には、薬剤の注射は必要ないから、安心しなさい。」
「はい。」
いよいよ、僕の洗脳の解除が始まろうとしていた。
「まずは、催眠術を掛けるからね。」
「お願いします。」
「さあ、何も考えずに、この炎に集中して。」
叔父は、ランプを僕の前に、かざしながら言った。
「ゆっくりと、目を閉じて・・・」
僕は、徐々に意識が薄れていくのを感じた。
「さあ、君の知りたい過去へ行きなさい、そして・・・・・」
叔父の声が、遠退き、僕は深い眠りに落ちた。
まるで、深い沼の底に居るような、真っ暗で物音ひとつしない、静かな眠りだった。
そんな真っ黒な暗闇に、一本のろうそくが、灯る様に、小さな記憶の炎が点火され、それが、ゆっくりと、大きくなってきた・・・・。
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