第23話 僕の、僕だけの大切な思い出
雨、大きな鳥籠のような塀、黒い木々、濡れて貼りつく服の感触。冷えたアスファルトが腰を冷やしていた。
何度も思い返した景色。僕だけの大切な思い出。
十五年前の梅雨。僕がまだ九歳だった頃、苦しくて仕方が無かった頃。
視線の先にあった裏口の門からあの人が出て来る。
黒い傘を差して、もう一つ似た傘を手にしていた。紺色のカーディガンを羽織っていた。
体が動く度に腰まである結われた黒髪が機敏に揺れた。すらりとした四肢は涙でぐちゃぐちゃになった視界の中でも美しかった。
その人は僕のもとまで来ると、腰を屈めて傘に入れてくれた。
長い睫毛に縁どられた、ジェットのような瞳が僕に向けられていた。肌は透けるように白くて、目鼻立ちははっきりしてるけど控えめに見えるバランスを保っていて、唇は触れたくなるくらい柔らかそうで、見惚れてしまった。
眉が下がり、儚げな微笑みが浮かんだ。
「どうしたの?」
鼓膜が蕩けるんじゃないかと思う程に甘い声が降ってきた。声変わり前だったから、今よりは高くてあっさりしていた。
僕は返事が出来なかった。彼は困ったように瞬いて、右手を伸ばした。
「歩ける? 此処にいては危ないの」
頷いて手を掴んだ。見た目から想像していたよりずっと温かった。
彼は僕を引き上げて立たせると、塀に背中を向ける方向に歩き出した。僕に合わせてゆっくり歩いてくれた。
「おうちは何処?」
僕はこの時家出をしていたので、おうちという単語に反応して機嫌が悪くなちゃった。
「帰りたくない」
彼が手を握り直して、首を傾げた。
「どうして?」
「どうしてって、皆、僕に」
酷いことをする、と言いたかったが、頑張って呑み込んだ。一度、同じことを言って嫌な目にあったのを思い出したからだ。どう返事すればいいのか悩んでいると、彼は察してくれた。でも、味方はしてくれなかった。
「……それでも、帰るしかないよ」
「何でそんな冷たいこと言うの?」
「どうしようもないもの」
「僕は苦しいの!」
そう、と彼は相槌を打った。それ以上の返事は無かった。歩みは緩められず、だんだんと景色は木々より家が多くなってきた。つまりは父がいる別荘が近くなった訳で、胸の下がぐるぐるしてきた。歩くのが嫌になって、思い切って座り込んだ。彼はしゃがんで、僕を覗き込んだ。暫く仏頂面の睨めっこをしていたが、堪えれなくたって喋ることにした。
「何か言ったらどうなの!」
彼は二回瞬いて、首をまた傾げた。そして、捻り出すように声を出した。
「原因があるのでしょう?」
「原因?」
「君が苦しい理由」
「……話したくない!」
「曖昧で良いの。体の何処かが悪いの?」
「悪くない」
僕がそう言うと、彼は一度目を伏せた。それから、良かったと呟いた。その言い方が優しくて、悲しくなって俯いた。彼は右手に傘を持ち直して、左手でぽんぽんと僕の肩を撫でた。
「何が悪いのかしら。勉強が嫌いなの?」
「嫌いじゃない。……バイオリンは嫌いよ」
「弾けるの? 素敵ね」
膝を抱えていた右手に左手が重ねられる。恥ずかしくなって頬が熱くなった。
「嫌いだけど、上手にできるよ」
そう言って顔を逸らすと、くすりと笑われた。頬の温度がまた上がった。
「それがね、苦しいんじゃないの!」
「何? 運動?」
「そういうコトというかモノというか、そんなのじゃないの」
我ながら何を言っているか分からなくなっていった。彼はそうではなかったらしく、平坦な声で言った。
「人?」
体を押さえつけてきた大人達の手の感触が蘇り、怖くなった。頷くことさえできないでいると、彼は僕の手を離した。
「誰かに嫌なことをされてるのね」
自分でも驚くほど肩が跳ねた。彼が目を丸くした。それから、大丈夫よ、と囁いた。
「……相手が人間なら、いつかは飽きてくれるもの」
僕がしたこともない発想だった。飽きる、と僕が繰り返すと、彼は頷いた。
彼の考えはきっと願いだった。彼もまた人から嫌なことを、父親から虐待を受けていた。生まれてから十三年以上も続く苦難がいつの日か気まぐれに終わることを待っていたに違いない。
そういう事情を僕は知らなかった。何かを期待していた訳じゃなかったけど、がっくりした。
「そうかなあ……」
「そうよ」
彼は断固として言い放った。じゃあ、信じてみようかな。そう思ってしまう程には力強かった。
飽きる、と何回か口に出してみた。
車の音が微かにして、彼が振り向いた。後ろ髪がするりと肩を滑り落ちた。面白く感じた。
「ねえ、髪、触って良い?」
彼がこちらを見て首を傾げた。
「……構わないよ」
彼が後ろ髪の下の方を持って僕に渡した。僕は飽きるとまた繰り返しながら、髪で遊んだ。振ってみたり、丸めてみたり、編んでみたり。艶の具合を観察していると、飽きるという言葉に飽きてきた。仕方がないから、練習している曲のメロディで飽きる飽きると歌ってみた。一曲終える頃に、頭の中で兄が飽きたと叫んで跳ねた。何で兄だったのかは未だ分からない。まあ、頑張り屋の兄が飽きることもあるなら他人も飽きるだろう。そう考えちゃって、明るい気分になった。
「飽きてくれるかもしれない!」
思った以上に大きな声が出ちゃった。彼が柔らかに目を細めた。更に綺麗に見えて恥ずかしくなってしまった。思わず俯いて、毛先をくるくる指に巻き付けることにした。四周したあたりで、彼が僕の両頬に触れた。
「君のこと、名前で呼んでみたくなった。教えてくれない?」
今にして思うと、彼は困っていたんだろう。でも、当時の僕にはそんなこと思いつかなかった。美しい彼が、僕に興味を持ってくれているとただ喜んで答えた。
「巳幸だよ!」
「綺麗ね。君に似合う」
心臓が飛び出そうになって髪を放して胸を抑えてたね。嫌いな名前だから猶更嬉しかったんだよ。彼の考えが予測できる今でさえはしゃげちゃう。この経験から僕は、「自分の名前は嫌いなので基本的に名字で呼んでもらいたいが、恋人には名前で呼んで可愛がって欲しい人」に成長することになった。
「ええー? そう? 由来が良くないよお?」
もじもじしちゃう僕に、彼は煽てるように頬を撫でた。
「そうなの? 響きは軽やかで美しいよ」
「そうかなあ!」
「きっと名字と合わせると、もっと魅力的なのでしょうね」
「榊巳幸だよ!」
「さかきみゆき」
「どうかな!」
「予想以上に魅力的ね」
さて、と彼は僕の手を引いて立ち上がった。もう一つの傘を開いた。それを立ち上がってしまった僕に渡しながら言った。
「行きましょう。榊の家は分かるよ。別荘よね」
「罠じゃん!」
「嘘は言ってないよ」
「ずるいよお!」
彼は軽やかで控えめな笑い声をあげて僕と手を繋いだ。僕は浮かれた気分で彼に引かれるまま歩いた。
「貴方のお名前、知りたいなあ」
「知らない方がいいよ」
「何で?」
「僕は悪い人なの」
後で調べたら、悪人だった。この時点で兄弟を含めた複数人を殺している。全てが父親に無理矢理させられたことだろうけど。
当時は当たり前に想像さえつかないことだった。
「意地悪言ってる!」
「本当のことよ。だからね、帰ったら忘れなさい」
彼は優しい調子でそう言った。反射的に苛立っちゃった。
「忘れちゃ駄目だよ! お礼をしなくちゃいけないもの!」
「いらない」
「僕の気がおさまらないの!」
困る、と彼は呟いた。
「僕は覚えていられないもの」
続きを思い描こうとすると、場面が切り替わった。
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