慣性法則を無視した青春の自由落下

夏鎖芽羽

慣性法則を無視した青春の自由落下

「ゴンゴンピーガシャンダンダンダダ」

ゴンゴンピーガシャンダンダンダダ。


 エレベーターに乗るときすっかり口癖になってしまった呪文を唱えて宙へ向かう。乗客は僕一人で、周りには大量の医療物資。地上四百kmに向かって上昇。どんどん小さくなっていく東京メガフロートは五秒もしない間に見えなくなり、雲は後方へ、成層圏を抜け、推進力が消え、音もなくドッキングが完了する。一分四十七秒。地上から第五宇宙ステーションまでの道のりだ。


 軌道エレベーターの扉が開くと機械的な窓のない廊下に待ち構えていた荷運び用のタンクみたいなロボットが次々と物資を下ろして円弧上に続く道を時速二十kmで駆け抜けていく。そのロボットたちの群れに紛れて、僕は五階にある医療ユニットへと向かう。地上からここまでくる間に起こる宇宙酔いにはすっかり慣れたが、それでも耳の奥で鳴るキーンとした甲高い音には煩わしさを覚える。

 幾人かの研究者たちとすれ違い昇降機を使って五階へ。何万光年先の星々が見える吹き抜けの回廊を進み、軌道エレベーターに乗っている時間の三倍の時間をかけて早川医師の研究室にたどり着いた。虹彩を使用し鍵を開け、中に入ると雑然と置かれたタブレットの山の下でキーボード上に指を躍らせる早川医師がいた。


「お疲れ様です」

「おー……お疲れ……」


 早川医師は口だけで返事をした。どうやら彼女の作業にキリがつくまで待つ必要があるらしい。僕は八畳の部屋に埋もれた椅子を探し出し腰掛ける。身長百八十七センチ体重七十九キロの僕にとってその椅子はひどく小さい。

 待ち時間の間にLINEを開くと、葵からメッセージが来ていた。


<仕事、終わったらきて>


 どこに、とも、何時に、とも書かれていないメッセージはいつも通りで、僕はそれに<了解>と手短に返信をする。すると葵からよくわからないヘンテコファンシーなスタンプが送り返される。日本人が七十年も続けているこの奇妙なコミュニケーションツールは、現代になってもアップデートされていないらしい。


「終わった」


 早川医師がエンターキーを叩くと同時に僕に振り返る。皺ひとつないその綺麗な顔は葵が歳を取ったらきっとこうなるだろうという美しい顔そのものだった。


「いつも通り物資は倉庫に運んで置きました」

「助かるよ。……バイト代は今振り込んだ」

「ありがとうございます」


 二万円という高校生がもらうにしては少し多いバイト代が電子マネーで振り込まれたことを確認する。これで僕の仕事は終わりなのだが、いつも通り雑談が始まる。


「地上は変わりないか?」

「えぇ。オホーツク海のメガフロートの建設も順調らしいですよ」

「北海道の土地はまだ余っているのにどうしてやたらメガフロートを作ろうとするんだろうね。政府は」

「さぁ。まあ日本のメガフロート技術は世界一らしいですし」

「ふーん」


 興味なさそうな反応を見せると、タブレットの山の中から疑似フルーツジュースのボトルを二本投げてよこした。


「ありがとうございます」

「わかっているとは思うけど、一本は娘のな」

「わかってますよ」


 僕は席を立ち、研究室を出る。


「あっ、葵から聞いた」

「何をですか?」

「わかっているだろう?」

「……えぇ、まぁ」

「なら後悔しないように」


 早川医師の言葉が終わると同時に研究室の扉が閉まる。

 僕は、あぁ面倒くさいなんて感情を抱いて天井の先にある無数の星を見つめた。


×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×


 葵が地球には帰らずに、つい五年前に火星にできた大学に進学すると聞いたのはつい一週間前のことだ。それはLINEで唐突に知らされた。


<地球の大学にはいかない>


 はじめは日本の大学にはいかない、という意味かと思った。彼女は優秀で、アメリカでもイギリスでもフランスでもドイツでも……きっと好きな大学に進学して宇宙工学なんて僕の知らない分野で成功することができるのだから。


<火星にできた大学?>

<そう>

<そうなんだ>

<何かないの?>


 何か、というのはわかっていた。行かないでとか、ここにいてとか、僕も一緒に火星に行きたいとか……でも僕は咄嗟にそんな言葉を返すこともできず、既読から五分も経って


<応援してる>


 なんて彼女が一番期待していない言葉を送ってしまう。


<ばか>


 それ以降、つい先ほど<仕事、終わったらきて>というメッセージが来るまで僕たちは一週間の冷戦をしていた。


 葵が生活しているのは第四宇宙ステーションと呼ばれる宇宙で生活する人々の住宅街だ。第五宇宙ステーションからはバスで一時間。往復で五千円もかかる。それでも葵が遠慮なく僕を呼び出し、僕はお金なんて気にせずに彼女のいる場所まで行く。

 デブリをはじき返す巨大な防壁が付いた白い船体に乗る。第五宇宙ステーションと第四宇宙ステーションをつなぐバスは常に空いている。第五宇宙ステーションにいる医師たちは主に自家用船で行き来するからだ。

 バスに乗ったところで、それを見計らったように葵からコールされる。本当はバス内での通話はマナー違反だが周りに誰もいないことを確認してから応答する。


『お仕事お疲れ』

「ありがとう。調子はどう?」

『別に』

「そう」


 画面に映る葵は僅かに化粧をしていて、それじゃ第四宇宙ステーションについたら買物にでもいくのかなんて考えてしまう。


『ねぇ、この前のことだけど――ごめん。やっぱりなんでもない。会ってから』

「うん」

『それより聞いて。昨日学校でね――』


 彼女の高校での様子を聞きながら、僕は色んなことに思いを巡らせていた。


×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×


 僕が持つ一番古い記憶は天井に叩きつけられるものだった。何百人という人間が、軌道エレベーターの天板にたたきつけられて、それでも僕は早川医師のおかげで助かって、メガフロートで普通に学生として過ごした。

 でも普通になるには長い時間を必要とした。そしてそんな長い時間を、僕の隣/画面越しで過ごしてきたのが葵だった。

 第四宇宙ステーションに着くと、すでにそこに葵はいて人工物のような植物が並木を作る先でひざ丈のスカートを人口風に揺らしていた。


「久しぶり」

「うん。二週間ぶり」

「元気だった?」

「それなりに」


 葵が手を上げるとレールを滑って二人乗りのカートがやってくる。電子マネーで会計をしてセントラルタワーと告げると、滑らかにカートは滑りだした。

 二人乗りのカートは横幅二メートル程度と狭い。僕が肘掛けに右手を置くと、葵の左手が触れる。地球に降り注ぐ紫外線なんて知らない白磁のような肌が、心なしか赤く染まる。


「女の子への返答としては最低」


 唐突に葵が切り出す。



「うん」

「わかってるならさ……」


 葵の言葉は口先で弱々しく消える。

 僕は黙って早川医師からもらった疑似フルーツジュースを渡す。


「お母さんから?」


 僕は黙って頷く。ほぼ同時にキャップを外し人工のジュースをのどに流し込む。地上で飲む天然のものとの違いはわからない。

 キャップを閉めて、空っぽになった手で葵の小さく指の長い手を探す。体温を感じて、優しく包み込む。ちょっと前までは握り返してくれた。でも今は僕に握られるまま。どうするか決めないのだから当たり前だ。


「地上はさ」

「うん」

「夏休みになるとみんなで海に行ったり、山でバーベキューをしたり、花火を見たりする」

「知ってるよ」

「ここではどう?」

「そもそも”夏”休みがないよ」

「そうだね」

「いつも星空が真上にあって、義則にとっての地上は私にとっての地下で」

「うん」

「海も山も川も、季節も空も天然ものもないのが普通」

「うん」

「そういうのが当たり前だからさ、義則がどうしてそれを捨てられないのかわからない」


 きっと葵にとって僕は宇宙人なのだろう。地上の人々がメガフロートに住んでいても当たり前に享受する自然や季節や必ずやってくる夜明けと夕暮れは理解できないものだ。

 そして僕にとっては葵が宇宙人で、作られた空気と水でいつも満点の星空の下で暮らし人工物しか口にせず地上を地下だなんて表現することを理解できない。

 たった四百キロ。東京から神戸くらいしか離れていないのにそれがXかYかZの違いかで、未来を変えてしまうほど変わってしまう。

「葵が地上に住んでいればよかった」

「義則が宇宙に住んでいればよかったんだよ」

「アメリカでもイギリスでも地球にいればもう少し気軽に会える」

「第三宇宙ステーションでも、第二宇宙ステーションでも気軽に会えた」

「遠くに行くって言ってもついて行けた」

「火星へ一緒にいけた」


 僕たちはようやくまともにお互いの顔を見て、中学生の頃のように笑えた。


「なんで好きになったんだろうね」

「そうだね」

「お母さんのせいかな。同い年の子がいるから仲良くして、なんて言うから」

「そうかもね」


 ようやく握り返された手で、僕たちは恋人なんだなんて再認識させられる。


「デート、楽しもう」

「そうだね」


 僕たちは第四宇宙ステーションの真ん中へ向かう。


×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×


 地上でも宇宙でも学生がするデートは大して買わない。カラオケ、ショッピング、映画館、色々なスポーツができる施設、VRゲーム、プール――付き合い始めてから今まで、二週間に一度欠かさずデートを繰り返した。

 そしてそれは今日も同じで、セントラルという第四宇宙ステーションの中心にある商業施設で遊んだ。


「そういえば入学式っていつなの?」

「十月」

「……早いね」

「日本だと入学式は四月なんだっけ?」

「そうだね。アメリカとかだと秋って聞いたことあるけど」

「そっか」


 秋、がよくわからない葵は不思議な顔をして、手に持つアイスをかじった。


「あと二か月だよ。どうするの?」

「どうしよっか」


 入学式が十月といっても、実際は火星にはもう少し早くつかなければならないのでもしかするとあと一か月もないのかもしれない。


「……時々会いにこれたりしない?」

「行こうとしても簡単には行けないんだよ」


 地球に住む人が宇宙に行く方法はいくつかある。軌道エレベーターに乗って宇宙ステーションに行くか、飛行機に乗り宇宙ステーションや月や火星に行く方法だ。

 しかし前者は十五年前の有人軌道エレベーター事故から一般人は乗ることができない。軌道エレベーターは宇宙では作れない特別な物資を届けるときにだけ使われるのだ。後者は金持ちが道楽として多くのお金を払って旅行に行くか、地上の研究者が研究目的で行く場合に限られる。当然気軽に、なんてわけにはいかない。

僕がこうして普通の高校三年生にもかかわらず地上と宇宙ステーションを二週間に一度往復できるのは早川医師がバイトという大義名分を与えてくれているからだ。


「宇宙ステーションとか月に住むのは? 大学はこっちにもあるよ」

「宇宙開発がやりたいわけじゃないからな……」


 地上で生まれた人間が宇宙ステーションに住むには、宇宙開発になんらかの形で携わりさらには永住する必要がある。宇宙で暮らすことで人間はサンプリングされ、そのデータを元に宇宙開発が前に進む。


「じゃあどうすればいいの?」


 葵の真剣な眼差しに何かもぶつけてしまいたくなった。

 葵が地上に来ればいい。火星の大学なんて意味の分からないところにいく必要なんてない。僕とずっと一緒にいてほしい。地上の大学でさ、一緒に普通に大学生やろうよ。葵が望むなら海外の大学だっていい。英語は得意ではないけれど、父親の生まれ故郷であるスペインに少しいたことがあるからスペイン語は話せる。スペイン語圏ならなんとかやっていけるだろう。そうして大学生活を終えたあとは、葵は大学院に進んで僕はどこか民間企業に就職する。葵が大学院を卒業したら結婚して、子どもができて毎日幸せに……


「どうしよっか」


 そんなこと言えるわけも言える覚悟もなくて言葉は言葉にならないで消えてしまう。


「地上大学に行くの?」


 再び葵から真剣な目を向けられる。

 彼女はなんでもはっきりしたがる。いや、葵でなくてもこの状況ははっきりしたがるだろう。


「…………」


 僕は言えない。もし仮に、一生を宇宙で過ごすとして四季のない暗い世界で、地球産のものをほとんど接種せずに人類の未来のためとかそんな希望を抱きながら一生を終える。僕の体も僕の子どもも全ては宇宙開発のためのデータで――そんなこと、想像もしたくなかった。

 どれくらいの時間が経っただろう。下を向く僕に葵はため息を一つついて、強引に手を握った。


「いこ」


 葵に引っ張られるままセントラルタワーから出る。カートに乗らず、昼も夜もない世界を引っ張られるままに歩く。葵は何も言わず、僕も言葉はかけられない。つながれた、というよりは掴まれた手に葵の汗と体温を感じる。

 数キロ歩いてたどり着いたのは小型飛行機のレンタルショップだった。地上で言うところのレンタカーのようなもので、免許があれば運転して宇宙ステーションの周囲をドライブできる。

 葵は口を一文字に結んだまま、電子通貨で会計を済ませタイトな宇宙服とヘルメットを被った。僕も葵に倣うまま宇宙服とヘルメットを身に着ける。


「乗って」


 ようやく彼女が発したのは愛想のない一言だった。僕は頷いて後部座席に座る。二人乗りの飛行機は屋根のあるバイクのようなもので、お互いに密着しないと乗ることはできない。シートベルトを締めて葵が運転席に備え付けられたいくつかのコンソールを操作し、ハンドルを握ると飛行機は無音で浮かび上がった。

 飛行機はそのまま宇宙ステーションの天井に向かった。宇宙ステーションから外に出られる場所はいくつかあるが小型の飛行機は主にここを使う。

 宙に浮かぶドローンの光に導かれていくつかの飛行機が行き来する中、僕らは縦に空いたトンネルのような場所から宇宙に飛び出した。

 宇宙には何度か行ったことがあるが決して安全な場所ではない。特に地球の周囲は無数のデブリが飛び交うし、時折地球に引きよされる隕石にぶつかることさえある。だから無音の宇宙でガツガツと色んなものが船体にぶつかる音が聞こえる。


「どこ行くの?」

「もう少し静かな場所」


 宇宙デブリ帯から離れるために宇宙ステーションに背を向けて飛行機は推進する。しばらくして音が消えると葵は飛行機をゆっくり止めた。


「降りよう」

「外に出るってこと? 危なくない?」

「ここまでデブリはとんでこないよ。隕石はわかんないけど」


 葵がハッチを開けて外に出る。僕もそれに続いて外に出る。安全に出られる装置がついているとはいえ、空気のある船内から宇宙へ出るのはかなりドキドキする。一歩外に出ると空気のない耳が痛くなるほどの無音と宇宙服越しに感じる冷気が世界を支配した。

 飛行機に腰かけた葵が僕を手招きする。僕は差し出された葵の手を握って隣に座る。

 二人で宇宙を眺めた。どこを見つめても輝く星。地上と違い何もさえぎるものがない視界でどこまでも見渡せる。

 葵がこつんとヘルメットを突き合せた。


『綺麗だよね』

『うん』

『地上とは違って何もさえぎるものがない』

『うん』

『私はこの世界をもっと知りたい』

『うん』

『ねぇ、好きだよ』

『うん』


 僕も。好きだよ。

 伝える前に、会話をするために突き合せていたヘルメットが静かに離れる。

 葵が飛行機の中に戻る。僕も葵を追って中へ。

 飛行機はこの後宇宙ステーションに戻るだろう。そしたら葵とまた二週間後と別れて、バスを使って第五宇宙ステーションに戻る。そしたら軌道エレベーターを使って地上へ。そのころには地上も真夜中だろう。一人暮らしをしているアパートでカップラーメンでも食べてお腹を満たそう。そうしたら受験なんていう向き合いたくもない現実に向き合って、これからのことを考えよう。大学は近場にしよう。学部は大学を決めてからにしよう。


「ゴンゴンピーガシャンダンダンダダ」


 僕にしか聞こえない二時間後に乗る軌道エレベーターの駆動音を口ずさみながら、僕は葵のいる飛行機に戻った。

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