雨宿りのような人生に
鑑
プロローグ
──これは、短い、あまりにも短い、一人の少女の物語。
**
少女は一切の光が刺さってはいない暗闇の中にいた。少女の表情どころか姿さえも見えない。
「わ、た、し、は……」
少女が途切れ途切れに言葉を発した。続かない言葉は、繰り返しながら暗闇を突き進んでいく。
それが見えなくなる頃には、少女は顔を伏せてしまった。
「ぁ、ぁ」
少女は言葉にならないものを吐き出すと、不図、おもむろに右手を上げた。そして手を広げる。まるで、何かを探し求めるかのように。その時、上から薄い明かりが注がれた。少女の姿が徐々に映し出される。
「わたしの、なまえは……」
少女がしどろもどろに発する言葉は、少女自身を蝕んでいく。
「……」
言葉が切れた途端、少女の右手から力が抜ける。少女の頬に一筋の光が流れた。
「……ぁ」
少女は両手で頭を抱えた。「うっ……うっ」と嗚咽を吐きながら小刻みに揺れ出す。
少女は自分中の中にある今までの記憶を思い出していった。過去の出来事や知り合った人達、知っている知識までも、全て。
それは自分自身を苦しめるもので、終わりも、始まりも見えない迷宮に入るのと同然だというのに、少女は辞めない。
「うっ、うっ、」
「──らない。……知らない。こんなの、わたしは、」
そう。知らないのだ。彼女の中にある全ての情報は、どこから得られたものなのか分からないのだ。
この世界で初めて意識が覚醒した時からだ。自分が今どんな世界にいて、どんな人達がいて、
「この世界の常識をわたしは知っていた」
何もかも不自然だった。幼少期の記憶はなく、親の顔さえ分からず、気が付いたらこの世界にいた。
「わたしはいったい、誰なんだ……」
(──!?)
少女は気配を察知し、顔を上げた。そのまま横を向くと、
「あっ……」
三つの影が少女の元へ伸びる。
少女は口を開けて、呆然と動けなくなってしまった。目を疑った。もう一生会えないと思っていた人達に会えたのだ。
少女は彼らの顔を確認しようとするが、それは叶わない。彼らの姿から誰が誰なのかは分かるが、顔辺りがちょうど闇に覆われて、見ることが出来ないからだ。
相手の表情が分からないというのは、不安で、怖い。少女にとっては特にそうだろう。
何を伝えればいいのか。私は、彼らの前にいていいのだろうか。そんな資格はあるのだろうか。
(だって、わたしは、──わたしは!! )
彼らはなぜここに。彼らは私のことをどう思って──。
口に出そうとした言葉は全て喉まで迫ったと同時に止まり、唾と共に飲み込んでしまう。飲み込んだものはあまりにも、苦かった。
(私には、謝る資格さえもない)
(でも──それでも)
何を言おうなんて頭の中にはない。心の底からの言葉を拾って、言うのだ。
少女は大きく息を吸った。
そして声を出そうとしたその瞬間──彼らは少女に背を向け歩き出してしまった。
「──ぁ。──ま、まってッ! ──わたしはッ!!」
「もう遅いよ」
彼らの中の一人の女が少女へ振り返り、血も凍りそうな抑揚のない声で終わりを告げた。
「遅いんだよ」
続けて女の横にいた男が振り返り、少し怒気がこもった声と視線で少女の心を突き刺す。
「ぁ」
「──君はそうやってまた、見ているだけなんだね」
「ま、まってッ──」
少女の声は届かない。彼らを止めようと差し出した手は、すぐに萎んでいってしまう。彼らは後ろを振り返り、歩き始めてしまった。
「──わたしは、わたしはッ!! ──もうッ」
嗚咽を堪えながら少女は彼らを追いかけようとする。歯を食いしばり、全身の力を使って身体を動かそうとした。
(もう後悔は──したくないッ)
──しかし少女は、立ち上がることさえ出来なかった。出来たのは、彼らが去る姿を見続けるだけ。
「わたしは、また──」
少女の中には何が残っているのだろうか。記憶、服、金。
全て違う。
ただ一つ、後悔だけだ。
分かっている。後悔したって無駄であることを。何度も、何度も思い返して、胸の中に理想を、こうするべきだった、こうなるべきだった、こうあってほしかった幻想を描き続けたところで、時計の針は左には進まないと分かっている。分かっていながらも、だ。
少女の周りはまた闇に包まれる。
『あーあ。……また同じことの繰り返しだね』
嘲笑うかのような声で誰かが少女の耳元で囁いた。声だけからは女のように判断出来る。少女は耳を塞ぎ、顔を伏せるが、その抵抗は無駄である。
「だれ……。やめて……」
『全てあなたが悪いのよ』
急に声色が変わり、凍てついた氷のような声で誰かが囁いた。より力強く両手に力を入れ耳を押さえつけるが、誰かの声は少女に届く。まるで頭の中で反響しているようだった。
「あ、ああああああああああああああああああああああああああああああ!! ああ、ああ、ああああああああああああああ!!」
少女が断末魔のような悲鳴を上げたと同時に目を開けると、
「──ぁ、はぁ、はぁ、ここは……」
身体の上には薄い毛布。視界の端まで色が薄くなった木面が広がっている。一つだけある大きめの窓からは、歪んだ平たい板のような光が差し込んでおり、この暗い空間をぼんやりと照らしていた。
「夢……か……」
少女は額を右手で抑える。乱れた髪、腕、背筋を伝って汗が玉をなして滴り落ちてくる。
「久しぶりに寝れたら……これ……か」
首筋に一筋の雫が垂れ、喉の窪みに留まった所を指で抑えると、
(シャワー浴びようか……な)
少女は一つ一つ、ゆっくりと身体を動かし床に足を下ろした。
********************
(──?! なにが起きているの?)
ガヤガヤと建物の外がやけに騒がしい。まるで祭りのようだ。
(様子を見にいこうか……)
少女は部屋に掛けてあった黒色のフード付きのマントを手に取り身に纏った。フードを頭に被せると少女の顔は完全に覆われる。
ドアの前まで近づき、ドアノブを握ると、
「──ッ」
自分でもよく分からない窒息感があり、呼吸が不規則に荒れる。同時に胸の動悸がみるみる大きくなっていく。手の中のドアノブはカタカタと音を出し始めた。
「うっ……。くっ……」
少女は目を瞑り、唇を強く噛むと、ドアノブを回し、巣立ちの雛のような勢いで部屋から飛び出た。
二階建て、木造建築の家の二階。飛び出た先には見慣れた街の風景が広がっていた。大半がレンガ造りや木造建築の家(二階建てが最大)で、それらが道を境にずらりと並んでいる。
(大丈夫、大丈夫。落ち着いて、落ち着いて)
少女は勢いのまま格子にもたれかかり、息を整えようとする。
すると、
「大事件だッー! 掲示板を見てみろッー!!」
「どうしたどうした?!」
「なにごとだ!?」
どうやら掲示板に報せが張り出されているらしい。この場所から右方向に少し進んだ所に広場があり、そこにある掲示板に何か重大な報せが張り出されいるのだろう。
国からの報せか、いやもしくは、
(……とりあえず行ってみよう。……どうせ関係のないことだろうけど)
少女は階段から下に降り、広場へと進んでいく。
「──ぅっ」
少女と同じように広場に見に来た人達が次々と前を過ぎ去っていく。
少女はその度にフードを深く被り、なるべく下を向いていた。
(怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い)
聞こえる声が、視線が、もしかしたら自分に向けられているのではないか。
ただの自意識過剰であると否定を繰り返しながらもよく聞いたら全然違うことなのに、自分に向けての罵声に聞こえてしまい、体がビクッと反応してしまう。
また動悸が速まるのを感じる。息が詰まる。
──怖い。そう思う一方で、
(当然……だ。わたしはそれくらいのことを──)
胸にあるペンダントを強く握り締める。強く強く、縋るように。
外へ出たのだから目的は果たさねばと、壁側の端で出来るだけ目立たないようにし名前まら少しずつ前へと進んで行った。
広場に着くと、とてつもない人数の人が掲示板に群がっていた。街の全員が見に来ているのではないかというくらいである。
そうなると、少女の身長では掲示板の端さえも見ることさえ出来ない。
──どうしよう……と思ったその時、
「お待たせしました!! 今紙が刷り終わりましたッ!!」
と中央の方から広場中に響き渡るほどの大きい声がした。
それを聞いた広場に人々は一斉に空を見上げる。
──瞬間、何百枚という数の紙が一度にばら撒かれた。不規則に動く数百枚の紙はまるで吹雪のよう。
舞っている一枚の紙が、ゆったりゆったりと導きかれるように少女の手の元へ運ばれていった。
少女はそれを受け取る。
少女は誰にも聞こえないような小さな声で記された内容を読み上げ始めた。
「『ホコの国からの便りで発覚! 勇者が現れた!!』……勇者、か」
──紙からくしゃりと音が鳴る。と、少女は周りを見渡し、自分に視線が集まっていないか確認する。
少女は紙に視線を戻すと、
「『ホコの国も同様に勇者が現れた様だ。2ヶ月ぶりの連絡で同時期に両国から勇者が現れたということは──』」
こんなこと、どうだっていい。私には……関係ない。無駄足だった。部屋にいれば良かった。
そう思いながら視線を下に落としていくと、
「『ホコの国の勇者は【最攻の勇者】と呼ばれており、名前は──』」
──突然、少女の手から紙が落ちた。空いた口は塞がらず、言葉になり得ていないものが漏れ出ている。ぐるぐる、ぐるぐると渦のように回る。回る。加速する。──世界が止まる。
「ル……イ……ト?」
──その瞬間、少女の頭の中に落雷のような衝撃が突き刺さった。膝から崩れ落ち、頭を抱えると、
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!! ああ、あぁ、……ぁぁぁ……ぁぁ……ぁッ」
狂いだしたような、耐えきれず『何か』が弾けたような叫び声が止まった時。
少女、いや「アイカ」という名の一人の少女が今ここで──『死んだ』。
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