屍蝋葬
あだち
序章
第1話 俺の患者
空色の傘が高く舞い上がる。
さっきまでうるさかった車の騒音も、すれ違う人の話し声も、雨音も、聞こえない。
前を歩いていた
乃亜は空からゆっくりと降ってきた。俺をここに置き去りにして、どうしてあんなに遠くへ行ってしまったのだろう。
すぐそばで傘の落ちる音がした。
遠くで、アスファルトの濃い灰色を、赤い色が塗りつぶしていくのに、すぐに水で薄められる。
あそこに行かなければ。乃亜のところに早く行かないと。
頭が重い。体が重い。前髪から水が滴り落ちて、視界を邪魔する。乃亜のとなりに行きたいのに、前に立つ人が邪魔だ。だから、人をかき分けて、乃亜が見えるところまで走る。
急がないと、広がるあの赤が、乃亜を連れて行ってしまう。そんなのは、嫌だ。
ここが寒いから、雨がこんなにも重いから、乃亜は動けないんだ。きっとそうだ。この雨が止めば、乃亜は起き上がって笑ってくれる。
一緒に帰ろう、乃亜。
伸ばした右手が、冷たい乃亜の頬に触れた。
束の間、居眠りをしていたようだ。
頬に冷気を感じる。防寒はしているから、寒さはそれほど感じない。
真四角の白い部屋は、外の世界から遮断されたように窓がない。あるのは、二つの戸といくつかの家具、壁紙と同じ顔色の患者だけだ。二つの戸のうち一つは、一階のリビングへと上る階段で、もう一つの戸は薬品庫のものだ。
階段の方の戸が開く。
「
助手の
「恋、グリセリン」
「はい。すぐにお持ちします」
薬品庫に向かう恋の軽い足音に耳をすませる。それが聴こえなくなってから口を開く。
「乾燥気味だな」
患者の眠るように静かな白い頬に、手のひらを当てる。人の肌とは少し違う、より滑らかでやや硬質な感触が手に伝わる。まだ小学生くらいのこの患者は、どこの誰だかまったくわからない。どうしたものか悩みながらも、とりあえず処置を施し続けている。
身元不明の患者は一人ではない。壁際の椅子に座る少年もそうだ。身元がわかるのなら、保護者の元に返したいと思う。ただし、保護者がいるのなら、だ。俺のように両親も兄弟もなく一人きりの可能性だってある。
隅のベッドには細く小さな少女が横たわる。同じベッドに腰を下ろしているのは緩いウェーブが綺麗な髪の長い女性だ。少年はおとなしく椅子に座り、目の前の処置台には乾燥気味の少女が寝そべっている。ソファに座ってずっとこちらを見ている愛しい少女に微笑む。五人は俺の患者だ。
患者達を眺めているうちに、恋が薬品庫から戻ってきた。
「少し湿度が低いように思うのですが」
恋から差し出された瓶を受け取りながら、壁に掛けてある湿度計に目を移す。
「…………」
確かに、いつもの設定よりも少し低い。どおりで患者の肌が乾燥気味なわけだ。
壁に掛けてあるリモコンを操作し、設定湿度を高くした。
なにがそんなに楽しいのか、さっきからずっと微笑んでいる恋が話しかけてくる。
「古賀先生は明日の
月映祭……そういえば、そんな秋祭りもあった。まだ一度も行ったことはないが。
「特にないな」
「私と行きませんか?」
「お前と?」
「ええ。私と、です」
恋が祭りに関心を持つような奴だとは思っていなかった。
そうか。恋はそういうのに興味があるのか。
「……何があるんだ?」
「飲食や遊戯関係の屋台です」
「それ……具体的には何なんだ……?」
「普通のお祭りの屋台ですね。焼き鳥とか綿飴とか、金魚すくいとか射的とか」
「お前の目的はどれなんだ?」
「屋台はわりとどうでもいいのですが、古賀先生と一緒に、お祭りの会場を歩きたいんです」
「別に構わないが……俺と一緒だとなにかあるのか?」
俺は自分でもつまらない人間だと思う。祭りだとか大勢が賑やかに集まるような場所には適していないだろうに。
「色々ありましたから……息抜きも必要かと思いまして」
恋は、きっと俺の心配をしてくれているんだろう。
こいつがそういう奴だということは、ずっと知っている。
「そうだな……お前にはいつも世話になっているから、断る理由はないよ」
穏やかな恋の微笑みが深くなった。
「決まりですね。では、明日の放課後、会場でお待ちしています」
「ああ」
お先に失礼します、と一礼して部屋を出て行く恋の後ろ姿を黙って見送る。
グリセリンの塗布を終えた患者から離れて、ソファに座っている声を失った少女のとなりに腰を下ろす。
「乃亜、そういえば、お前とは行ったことがなかったな」
彼女は俺の恋人で、告白をされて交際したのは三年前の四月だ。
乃亜が交通事故に遭って命を落としたのは、その翌年だった。
「乃亜……お前で成功しなかったら、俺は屍蝋職人になってはいなかったよ」
乃亜の若干色あせたぱさぱさの髪を撫でる。壊れないように、そっと、ここにいる乃亜の体を確かめる。
「俺の患者、いつの間にかこんなに増えたんだ。これ以上部屋が狭くなったら、どうしようか?」
先ほど処置を施した屍蝋達を、ひとりひとり、目に焼き付けるように眺める。
ベッドに横たわる少女と目が合う。瞬きを忘れた彼女は、いつも何かを言いたそうに俺と目を合わせている。
「なんだか懐かしいな。半年前、
あれは、俺にとって忘れられない依頼のひとつだった。
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