第20話 ソフィの助言(アニエス)

 さんざん世の女性たちを翻弄し、数々の浮名を流してきた元伝説の色男ベルナールがソフィの私室を去ると、入れ替わるように最高の聖女アニエスがドアをノックした。


「ソフィさん、ただいまです」

「おかえり。旅はいかがでしたか、アニエス」


 とても楽しかったです、とアニエスは顔いっぱいを笑顔にして答えた。


「閣下は馬を操るのが上手ですね」

「閣下からもらったお弁当が美味しかったです」

「閣下と一緒に宿で食べたお肉とスープとお芋が……」

「閣下が廊下の寝椅子で……」

「閣下は、私の話を……」

「閣下が……」


 茶色の大きな目をキラキラさせて話し続けるアニエスに、ソフィは微笑む。


「アニエス、さっきから、閣下ばかりですねぇ。そんなにベルナールといるのは、楽しかった?」

「はい。閣下とご一緒できてよかったです」


「アニエスは、ベルナールが好き?」

「はい。とても好きです」


 屈託のない返事に、ソフィは苦笑してしまった。

 おそらくアニエスは、自分自身でもまだ気づいていないのだ。


「アニエス、最初にここに来た時に、あなたは泣いてしまったでしょう?」

「あー……。あの時は、気が緩んでしまって……」


 確かにそれもあるだろう。


 ベルナールも言っていたように、アニエスにとって王宮を出されてからフォール城に着くまでの日々は、決して楽なものではなかったはずだ。

 十八になったばかりの少女が、たった一人で、少ない退職金だけを手に、どこへ行くともなしに旅をする。

 自分の技術だけをよりどころに、常に明日の心配をしながら生きていくということが、楽であるはずがない。


 アニエスはどんな気持ちであののぼりを作り、背負ってきたのだろうと思うと、ソフィは鼻の奥がじんと痺れて泣きそうになる。


 国を追われ、着の身着のままフォールに逃げてきた日のことをソフィは思い出していた。

 ソフィには夫がくれた宝石があった。

 フォールに着けば両親やベルナールが待っていると信じられた。

 それでも、旅は辛く苦しいものだった。


 アニエスにはそれすらなかったのだ。

 自分にできることを一生懸命にやって、やっと安心できる場所にたどりついて、そこでふいに言われた言葉に傷ついて泣いてしまったというのは、わかる。


 けれど、やはりソフィには、理由はそれだけではないように思えてならない。


 どんな状況にあっても明るく元気に笑えるアニエスの心は、とても強くてしなやかだ。

 簡単には折れない。


 旅の汚れや汗臭さは、自分でも気にしていた。

 それを誰かに指摘されても、アニエスなら「ごめんなさい」と笑えたのではないか。

 かたまり肉にガブリと噛みつくのと同様に、自分にとって必要なこと、その時その時にできることをした上で笑われるなら、それはそれで構わないと、納得して笑顔で生きてきたのではないか。


 自分の心に気づいてしまったら、この子はただの女の子になってしまうだろうかと、かすかな躊躇が胸をよぎる。


 強くて優しい最高の聖女。


(それでも、アニエスは、ただの女の子になっていいんだわ……)


「アニエス、あなたが泣いてしまったのは、ベルナールに言われたからではないの?」

「閣下に、ですか?」

「例えば、ポールやドミニクに言われたのなら、どうだったか想像してみて」


 兵士たちから、音痴だねぇと言われて笑っていたアニエス。

 嬢ちゃん、案外可愛かったんだなと言われているのも聞いた。褒めているのだが、よくよく考えると若干ビミョーな言い回しだ。


 驚いたようにソフィを見つめ返す小柄な少女に、春の目覚めを促す言葉を口にする。


「ベルナールを、男性として意識していたから、汚れていることや匂いがあることを、恥ずかしく感じたのではないの?」

「か、かかか……? 閣下を? だだだだ……?」

「ええ。あなたは閣下を、男の人だと意識したことはない? 一緒に馬に乗って、背中から抱かれて、ドキドキしなかった?」

「うま……」


 アニエスの顔が、カーッとわかりやすく火照っていった。

 今、まさにドキドキしていると教えるように両手を胸に押し当てる。


 ソフィはにっこり笑って畳みかける。


「その上で、ベルナールのことをどう思う? 好き?」


 真っ赤になったアニエスは、今度は口をぱくぱくさせるだけで、はっきりと答えることができなかった。

 答えは明確だ。


(世話の焼けること。どっちもどっちで、こうなんだから、ほんとに、もう……)


 二言三言、挨拶を交わしてアニエスが退出する。

 いつになくよろよろとぎこちない動きを見て、ソフィは満足の笑みを浮かべた。



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