第36話 走為上《にぐるをじょうとなす》… 勝ち目がなかったら、戦わずに全力で逃げて損害を避けます。(前)

 リントス王国に火の雨を降らせた、レッドドラゴンはこれで倒した。

 これでダンジョンから生還すれば、僕は救国の士として、ディリアとの結婚の資格を得るはずだ。

 僕は破邪の剣を鞘に収め、洞窟に背を向ける。

 だが、背後からの声が僕の足を止めた。

「帰るなら、勝手に帰るがいい」

 その冷たい響きには、聞き覚えがあった。

 振り向くと、地獄門の向こうから、しなやかな身のこなしで歩いてくる者がある。

 闇エルフのエドマだった。

「まずは、おめでとうと申し上げる……ドラゴンスレイヤー龍殺しの勇者殿」

 皮肉たっぷりの言い方だったが、小馬鹿にされても仕方がない。

 レシアスも言っていた。


 ……本当に破邪の剣の持ち主としてふさわしい救国の士であれば、と。


 ドラゴンを倒すために王家から預かった破邪の剣が、僕を認めてくれたから勝てたにすぎない。

 ここでムキになるほど、僕は単純でも幼稚でもない。

 もしかすると、破邪の剣はエドマとの戦いを認めてくれないかもしれないのだ。

 そこで、頭の中に浮かんだ三十六枚のカードのうち、最後の1枚がくるりと回った。

 

 三十六計、その三十六。

 走為上にぐるをじょうとなす… 勝ち目がないならば、戦わずに全力で逃走して損害を避ける。


 逃げるしかない。

 エドマの高笑いが、地獄門の奥へと消えていくのが分かった。

 挑発のためと分かっている嘲笑には背を向けて、黙って地上への帰途に就くことにする。

 だが、そこで僕の前に現れたのは、怨念の精霊と戦っていたエルフのターニアだった。

 僕は安堵の息をつく。

「無事でよかった……」

 その言葉は、厳しい声で遮られた。

「帰っちゃダメよ。まだ、みんな戦ってるんだから……」

 普段のターニアだったら、引き返せと促すところだ。

 不審に思いながらも、なだめにかかる。

「だからこそ、いったん引き返そう。ドラゴンはほら、倒したんだし」

 ターニアは、その巨体をしばし眺めていたが、褒めてもくれなければ、ねぎらってもくれなかった。

「まだ終わりじゃない。火の雨は止んだけど、暗い雲は広がってるし、風は強くなるばかり。死んだ人はまだ、うろつき回ってる」

 地上のことまで分かるのは、ディリアの抱いているフェレットのマイオを通しているからだ。

待てよ、すると……。

「前の王様は?」

「上でにらめっこしてる」

 魔法解除ディスペルマジックの効果は切れているから、不死の王ノーライフキングとなった先王は、相当のことができるはずだ。

 それを敢えてしないのは、ロレンが辛抱強く、文字通り「向き合って」いるからなのだろう。

 だが、ドラゴンを倒しただけでは、リントス王国を覆いつくす災いを除くことができないのは間違いない。

「ターニア、今、僕ができることは何だろう?」

 自分でも情けないことを言ったものだと恥ずかしくなったが、ターニアはそれを察したのか、遠回しに答えた。

「エドマが挑発するのは、不利だからよ」

 それは、僕の手に破邪の剣があることを意味している。

 地獄門を開くことのできるエドマを倒すなら、今だということだ。

「行こう」

 今まで勝利への道を示してくれた三十六計のカードに、初めて背く。

 僕が地獄門へ向かって歩きだすと、ターニアは寄り添うように並んだ。


 地獄門の向こうでは、更なる地獄門が妖しげな光を放っていた。

 これまでのものよりも、ひと回り大きく、それだけに、禍々しい。

 その前で待ち構えていたのは、エドマだ。

「逃げずによく来たな、人間」

 口元を歪めて浮かべた笑いは、いかにも楽しそうだ。

 今度はターニアを見やって言った。

「ここが、ダンジョンの底だ。決着をつけるにはふさわしいと思わないか?」

 言うなり、その喉元へ、エドマが抜き放ったレイピアの先が飛んできた。

 いつものターニアなら、このくらいは軽くかわせるはずだ。

 だが、その足運びは信じられないくらい遅い。

 切っ先はなんとか避けたが、その刃は首筋を切り裂きそうになる。


 ……もしかして、怨念の精霊と戦ったせいか? 


 僕の身体は、自分でも信じられないくらい俊敏に動いた。

「逃げろ!」

 破邪の剣にレイピアを弾かれて、エドマは跳びすさった。

「なるほど、剣のおかげだな」

 自己肯定感の低さが、これほど役に立ったことはない。

 本当のことだから、悔しくも何ともないのだ。

 僕の頭の中には、ターニアを守ることしかない。

「それがどうした!」

 思い描いたとおりの奇跡を描いて、剣が縦横に閃く。

 最初は余裕の笑みを浮かべてかわしていたエドマの顔は、次第に強張っていった。

「調子に乗るなよ、人間の分際で!」

 紙一重のカウンタ―攻撃で、レイピアの先が僕の頬をかすめる。

 それでも、怯んだりはしない。

 目を凝らしてエドマの動きを追っているうちに、その剣先が止まって見えるようになってきた。

 素人目にも、足さばきが乱れている。

 だが、そこで僕の注意が逸れた。

 戦いの行方を見守っていたターニアが、その場に倒れ伏したのだ。


 ……気を失っている?


 エドマが、その隙を見逃すわけがない。

 僕の喉元めがけて、レイピアの先が飛んでくる。

 だが、その身体は大きく前へのめった。

 スネアつまずきだ!

 ターニアが、大地の精霊ノームの力を借りたのだった。 

 心配はいらない。

 なんとか踏みとどまったエドマのレイピアを、僕は力任せに破邪の剣で跳ね上げた。

 そのまま、振り下ろした刃を首筋で止める。

 エドマの顔が悪鬼の形相に歪んだ。

「なぜ……なぜ殺さん!」

「剣のおかげだからな……勝負にならない」

 エドマの皮肉を、そのまま返してやる。

 

 そのときだった。

 僕の足元が大きく揺れて、立っていることもできなくなった。

 こらえきれずに膝を突くと、エドマは僕を見下ろして高らかに笑った。

「ここを守るモンスターは何だと思う?」

 その問いに答えるように、最後の地獄門が開いた。

 あふれ出す禍々しい光が、耳を聾する雄叫びを上げる。

 エドマはそれにも増してけたたましい声で告げた。

「この荒れ狂うダンジョンそのものがモンスターなのだ……全てを呑みこむ混沌の力を今、全てをかけて、この私が解き放つ!」

 その表情は陶然として、完全に正気を失っている。

 僕も、あまりのことにどうしていいか分からない。

 ただ、倒れ伏したターニアだけが冷静だった。 

「エドマ、あなたは可愛そうなエルフ」

「私を憐れむな! 明るい森で笑って暮らすだけのお前たちとは違うのだから……混沌そのものとなって、世界の全てを手にしようとしているのだぞ、私は!」

 野獣の唸り声を放つエドマには、僕のほうが身体をすくめたくらいだ。

 それをなだめるようにして、ターニアは優しく、しかし強く言い切った。

「エドマの心を支配してる、この混沌そのものと戦ってみる」

 ダンジョンの揺れと衰弱でよろめきながらも、その姿は端正に立った。

 ターニアは、笑顔で囁く。

「大好きだったよ、カリヤ……あとは、お願い」

 その言葉を残して、美しく優しいエルフは、光の粒に変わって消えた。

「ターニア!」

 だが、泣いている暇などなかった。

 ダンジョンの震動……いや、胎動が止まった。

 僕は、我に返ったエドマの胸ぐらを掴む。

「何をしたんだかよく分からないけど……止めろ! 元に戻せ!」

 エドマはいつになく慌てて地獄門に駆け寄ったが、あの嘲笑を浮かべて振り向いた。

「全ての力を注いだが……さっさと逃げろ。このダンジョンに呑み込まれなかったのが唯一の救いだ」

 その姿は、ターニアとは真逆に、闇の中へと溶けていく。

 邪悪の化身だったエドマが、最後に見せた良心らしいものは、この助言だった。

「地獄門を閉じるには、この世界の者の犠牲が必要なのだから……」

 

 まだ、泣くことはできない。

 頭の中で、三十六枚のカードのうち、最後の1枚がしつこく回り続ける。


 走為上にぐるをじょうとなす… 勝ち目がないならば、戦わずに全力で逃走して損害を避ける。


 退くなら、今しかない。

 その場を離れようとした僕は、エドマがいた辺りに落ちていた封書に気付いた。

 拾い上げると、見覚えのある封蝋に、はたと思い当たったことがある。

「……遺言状?」

 

 ダンジョンに残っていた仲間たちを促して、僕は地上へと脱出した。

 先王の幽霊も、モンスターたちも消えていた。

 城へ戻る道中、空は真っ青に晴れ上がり、あちこちをうろついていたはずの亡者たちは姿を消していた。

 気が付いたときには、ドワーフのドウニもいなくなっていた。

 まるで、何も起こらなかったように。

 大広間で開かれていた、僕の身分についての評議は終わっていなかった。

 なぜか、そこで仁王立ちしていたディリアが振り向いて言った。

「帰りが遅いんじゃありませんこと?」

 なかなか僕が戻ってこないので、ディリアは評議の場に乗り込み、一昼夜に渡る大演説を続けていたのだ。

 僕は無言で、ダンジョンで見つけた封書を突きつける。

 ディリアはその署名を見て、言葉を失った。

 貴族たちや大貴族は、呆然とつぶやく。

「陛下……」

 それは、やはり、どこかにあるとされていた先王のものだったのだ。

 評議の場にいた者たちは、僕とディリアの前にひざまずく。

「ご結婚、おめでとうございます!」

 ディリアは、はじめて幸せそうに微笑んだ。

 しなだれかかってくるのを抱き留めるたら、僕の腕の中で安らかな寝息を立てていた。

 誰かに助けてほしくてあちこちを見渡したが、貴族たちも麻雀四家も、畏れ多いと尻込みする。

 そこで走ってきたものがあったが、フェレットのマイオではどうにもならない。

 いや、あながち、そうでもなかった。

 その澄んだ目は、こう言っているように聞こえたからだ。


 ……私がいなくても、大丈夫。信じていれば、やって来る人はちゃんといるから。

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