金蝉脱殻《きんせんだっかく》 …その場に留まっているかのように見せかけて逃げ出します(後)
そこでターニアが、僕を抱えるようにして馬から飛び降りた。
「行きなさい!」
馬は命じられるままに、凄まじい速さで走り去っていく。
それを見送っていると、ターニアは僕を鋭く叱り飛ばす。
「逃げて!」
そう言うときは、たいてい僕を守ろうとしているときだ。
僕は腰の剣を引き抜いて、ターニアの前に飛び出す。
バイコーンは、エルフが真っすぐに見据える先にいるはずだ……と思ったが、いかに夜目遠目が利くとはいえ、姿を消したものが見えるとは限らない。
そこで横から聞こえたのは、離れたところにいたロレンの叫び声だった。
「違いますぞ、カリヤ殿!」
僕が剣を持つ右手の側から、レシアスも叫ぶ。
「左だ!」
一瞬遅れてそっちを見た僕は、二本の角に挟まれるようにして吹っ飛ばされてから、ようやく気付いた。
バイコーン!
レシアスの頭上をふわりと飛び越えることができたのは、落下や衝突のダメージを和らげる「
だが、地面に横たわる僕の前でレシアスがみせた狂乱ぶりは、とどまることがなかった。
「来たな……来たな来たな来たな! 邪悪の権化! 負の力の顕現!」
突進してくるバイコーンの前には、
それを高々と跳躍して越えてくる目の前に「
レシアスは高笑いする。
「これでその脚も役には立つまい!」
だが、バイコーンは二本の角をひと振りするだけで、脚の自由を奪いにかかる網を斬り刻むと、揃えた蹄でレシアスの腹をえぐった。
それでも、苦しい息の下で唱えた呪文で生じた魔法の「
バイコーンとほとんど同時に着地したレシアスは、がっくりと膝を突いた。
このままでは、バイコーンの突進で鋭い角に身体を貫かれるのは目に見えている。
そこで聞こえたのは、信じられないほど色っぽい声だった。
「来て……」
それは、豊かな胸の谷間を晒して地面に横たわる、エルフのターニアだった。
バイコーンが、荒い息をついて反転する。
それをなだめようというのか、ターニアは甘い吐息と共に囁いた。
「落ち着いて……」
目の前に迫ったバイコーンの胴体にするりと絡みつくや、その背中にまたがる。
しなやかな腕が伸ばされたかと思うと、バイコーンの二つの角が、柔らかそうな両の手で掴まれた。
その脚がたちまちのうちに疾走する勢いを失ったのを見ると、どうやら、ここがバイコーンの急所らしい。
だが、バイコーンが両の後ろ脚を跳ね上げると、ターニアはその目の前の地面へ大の字になって叩きつけられた。
大きな身体が豊かな胸の上をまたぎ、長い顔の先が、大きく開かれた脚の間へ向かう。
僕は今まで生き物を斬ったこともない剣を抜いて、バイコーンの後ろから襲いかかった。
邪魔するなとばかりに振り向いたその目を怒りに燃やして、バイコーンは、まっすぐに突進してくる。
その邪悪な念に満ちた二本の角は、僕の腹を深くえぐった。
「ここは……」
ひんやりとした空気とぼんやりした光の中で、仰向けに寝かされていた僕が初めて見たのはロレンの顔だった。
「しゃべってはいけません……本当なら死んでいるんですよ。傷が深かっただけではありません。ユニコーンの角に治癒力を持っているのと正反対に、バイコーンは角に毒を持っているんですから」
それで助かったのは多分、ロレンがとっさに「
だが、僕が心配したのは自分のことではなかった。
「……レシアスは? ターニアは?」
ここだ、と答えたのはレシアスのほうだった。
もとの陰鬱な声が忌々しげな口調で、自分自身へのしなくてもいい弁解をする。
「バイコーンは、邪悪な精神の権化だ。それに呑み込まれた者は、己の心の中で抑え込まれている感情にとらわれてしまう。私は……」
するとターニアへの劣情に燃えた僕は、いわゆるムッツリスケベだということになる。
どうでもいいことを考えたところで、僕の問いに答えてくれた声があった。
「さらわれたとよ……バイコーンに」
僕を見下ろしているのは、ドワーフのドウニだった。
天井が低いから、ここはたぶん第1層だろう。
部屋の隅に立つ警護の騎士が、僕を心配そうに見ている。
こんなところでも、入り口は狭いからバイコーンは下りてこられるわけがない。
だが、レシアスはつぶやいた。
「扉が開いたのだ……幻のように。バイコーンは、そこへ飛び込んだ……気を失ったエルフを乗せて」
間違いない。
それは闇エルフのエドマが開く、「闇の通い路」だ。
僕は、苦しい息をつきながらつぶやいた。
「行こう……バイコーンがさらっていったんなら、ターニアも、西北の国の使者も、たぶん同じところにいる」
僕のダメージは、ロレンとドウニに抱えられてダンジョンを何層降りても、なかなか回復はしなかった。
第21層に下りても、どこまでも続くかのように思われる洞窟をレシアスの杖が魔法で放つ光を頼りに進んでいく間、僕は壁に手をついて立ち上がるのがやっとだったのだ。
だが、相手はそんなこと構ってはくれない。
前から後ろから現れるのは、あのオークやゴブリンやオーガーの「合成された
ロレンの祈りに守られながら、ドウニのハンマーやレシアスの魔法が、怪物たちを片端から追い払う。
何もできない自分が情けなかった。
「すみません……」
誰にというわけでもなく謝ると、ドウニが答えてくれた。
「このダンジョン破るには、異世界からやってきたお前が必要らしいな」
「この世の者ではできないそうなので」
聞いた話を正直に告げると、目の前を歩くドウニは振り向きもせずに言った。
「……だったら、ここを突破できるのはお前のおかげだ。何の負い目も感じることはなかろうよ」
その励ましが、腹積もりしか取り柄のない僕に勇気を与えてくれた。
なぜならば、シンセティックたちを倒しながらたどり着いた先の空洞には、ターニアと、西北の国の使者が予想通りに捕らわれていたからだ。
だが、助けに来た僕たちは、ふたりの女の声に叱り飛ばされた。
「何でここに来たの!」
「愚か者めが!」
先のひとりは、ターニアだと分かった。
もうひとりはというと、小柄な身体に厳めしい礼服をまとった幼い少女だ。
まさか……この子が西北の国の使者?
それはそうとして、助けにきた僕たちに、美女と美少女にステレオで罵られるいわれはない。
たとえ、既に「合成された
これもまた、予想どおりだったのだ。
レシアスが呪文を唱えると、辺りは魔法の「
大混乱に陥ったシンセティックたちは、喚き散らす僕たちの声だけを頼りにするしかない。
だが、それはターニアが
これも、「
さらに、暗闇の中に響き渡ったのは高らかな蹄の音だった。
忘れていた。
バイコーンは、姿を消すことができるのだ。
たちまち、シンセティックたちの絶叫が洞窟の中にこだまする。
バイコーンは僕たちがやってきたのを見て、二本の角を向けて突進しようとしたのだろう。
そこで、慌てふためくシンセティックたちに行く手を阻まれ、毒のある角で片端から蹴散らしにかかったのだ。
僕たちはその隙に、魔法の暗闇の中、ロレンの「
その後ろからは、バイコーンの蹄の音と、シンセティックたちが発する断末魔の絶叫が、途切れることなく聞こえていた。
さて、街中で足止めを食っていたディリアはどうなったかというと。
僕たちが小柄な使者と共にダンジョンを出て、徒歩で街へと向かっていると、昼下がりの柔らかい光を浴びて遠くからやってくる、端正な馬上の影が見えた。
ディリアだった。
ひらりと馬から下りたディリアは、悠然と一礼する。
「供もなく、私ひとりでお出迎えする非礼、お許しください」
幼い使者は、それを気にした様子もない。
「それはこちらも同じこと。獣に使者がさらわれたくらいで、助けにも来ずに国元へと注進に走る愚かな供を恥ずかしく思います」
そう言いながら、僕の傍らに寄ると、いきなり腕を絡めてくる。
「これは異世界召喚者殿とお見受けいたします。疲れておられるようなので、私が支えてまいりましょう」
まだ体力の回復しない身体に、ディリアとターニアの冷たい視線が突き刺さる。
僕は慌ててディリアに尋ねた。
「騎士団長殿は……」
使者はオズワルの馬に乗せてもらえばいいと思ったのだ。
すると、ディリアは苦笑した。
「実は……」
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