第103話 低血糖の謎解き

 古くからのかかりつけであるRさん。70代後半の女性で20年前に胃がんで胃全摘術を受けられている方で、上野先生⇒保谷の外来に通院されるようになった方である。おそらく胃全摘術を受けられているのでRoux-en-Y吻合で再建されているのだろうと推測している(経過の長い方なので、古いカルテは分冊され、倉庫に片付けられているのでわからない)。


 上野先生の頃から、かつて急性膵炎を起こされたことがあるのだろうか、フォイパンとビオフェルミン、ガスター(何で?)が定期処方されていた。明文化されていないが、内科医の言い伝えで

「多少理に合わないところがあっても、うまくいってる時には薬を変えない」

というものがある。明文化されていないのだが、結構大切で、うかつに薬を止めたり変えたりすると、思わぬ不調を訴えられたり、予想もしないトラブルが起きることがしばしばなので、処方は上野先生の時から変更せずに継続していた。


 お元気な方だが、週に1回、デイサービスにも行かれている、と伺っていた。


 ある日、定期受診ではない日に私の外来に受診された。Rさん曰く、

 「先日、デイサービスが始まってしばらくしたら、急に冷や汗が出て、手が震えてきたんです。意識もぼーっとしてきて、デイサービスの看護師さんが急いで血糖値を測ってくれたのです。そしたら、血糖値が35,と言われ、砂糖を飲みました。そしたら気分が悪いのはすぐに楽になったのですが、その看護師さんから『糖尿病だから内科の先生に診てもらいなさい』と言われたので、今日は受診したのです」

 とのこと。


 デイサービスの看護師さん、対応はすごく適切だが、診断は適切ではない(Rさんの症状は糖尿病の症状ではない)。と同時に、Rさんは私にとても難しい問題を持ってこられた。


 「糖尿病」はインスリンの働きが落ちる、あるいは分泌量が低下することによって、高血糖の状態になる疾患である。おそらく、看護師さんは、糖尿病の方の低血糖発作をよくご存じだから、スムーズに低血糖発作の対応をすることができたのだと思うのだが、糖尿病の本質は高血糖で、糖尿病の方が低血糖発作を起こすのは、インスリンやSU剤など、血糖降下作用の強い薬で強力に血糖を下げる力が働いたときに起きる現象である。


 私たちが3食満足に食事ができるようになったのは、この数十年のことであり、人間の身体は長い歴史の中では、常に飢餓の状態で生きてきた。古代の人たちは、狩りをしてうまく獲物が取れたり、うまく木の実を見つけたりして、それを糧としていたので、中々満腹になることはなく、時には数日間、食べ物が見つからないことも珍しくはなかったであろう。


 数万年、そのような状態で人間は生きてきたので、身体のメカニズムとしては、血糖を下げる作用を持つホルモンは「インスリン」のみであるが、血糖値を上昇するホルモンは「グルカゴン」「コルチゾール」「成長ホルモン」「カテコラミン」など、複数存在する。糖尿病の方で低血糖になる場合は、糖尿病の薬が、これらのホルモンの働き以上に強く血糖値を下げる方向に働いた場合である。


 また、それだけたくさんのホルモンが、低血糖にならないように身体を守っているので、本来なら、餓死寸前の状態でもない限り、意識を失うような低血糖にはならないはずなのである(ちなみに、神経性食思不振症(いわゆる拒食症)の患者さんで、心肺停止状態で運ばれた方の血糖値が5mg/dl(正常は70~100mg/dl)だったことを経験したことがある)。


 Rさんは、定期的な血液検査では、糖尿病を疑うような高血糖を呈したことはなく、血糖値を下げる薬も飲んでいなかった。ということは、

 「身体を低血糖から守るホルモンに問題がある」のか、

 「インスリンが過剰に分泌されている」のか、

 「そのほかになにか問題がある」のか、

 いずれにせよ、一筋縄ではいかない問題であった。


 「Rさん、低血糖になるのは、ほとんどの場合、糖尿病で薬を飲んでいたり、インスリンを注射したりしている人で、それが効きすぎの時なのです。でもRさんは、これまでの血液検査でも糖尿病を疑う所見はなかったですし、糖尿病の薬を飲んでいるわけでもありません。なので、Rさんの低血糖はとても難しい問題なのです」

 とお話しした。上記に記したことを説明し、血液検査を行なった。血糖値、HbA1c、インスリン、グルカゴン、ACTH(副腎皮質刺激ホルモン)、コルチゾール、成長ホルモンを提出した。


 2週間後、定期受診にRさんが来られた。その時に血液検査を確認した。食後2時間で採血していたのだが、血糖値は48,HbA1cは4.9%と、継続的に血糖値が低いことが分かった。インスリンは測定限界以下だった。この結果は重要で、身体は、低血糖に反応して、インスリンの分泌を止めていることを意味しているのだ。なので、インスリンが低血糖にもかかわらず無秩序に分泌される、インスリン分泌細胞の悪性腫瘍である「インスリノーマ」は否定的であることを意味している。ただし、インスリノーマは年間新規発生数が50人前後と極めて稀な疾患なので、もともとその可能性は低いと考えていた。

 グルカゴン、成長ホルモンは基準値内だが上限に近い値、ACTH、コルチゾールも基準値内で上限よりの値であった。ホルモンについては本来は負荷試験を行なわなければ正確に診断できないのだが、スクリーニング的には、ホルモン異常の可能性は低いと思われた。


 「胃」の働きにはいろいろあるが、その大事な働きの一つは、食べ物を一時的にストックし、徐々に腸管に送り出す、ということである。手術で胃を取ってしまうと、食べたものは直接小腸に入ってしまう。小腸は各種栄養素を吸収する場所なので、一度にたくさんのものが入ってくると、たくさんのものを一度に吸収してしまう。その刺激によって、一つは、一時的に血糖値が急上昇することと、小腸から「インクレチン」と呼ばれる、インスリン分泌を促すホルモンが膵臓に働きかけ、たくさんのインスリンが分泌されることになる。身体の方では、そのようなたくさんの栄養が持続的に送られてくるつもりでインスリンを分泌するのだが、実際は、食べ物が一時的に入ってきただけなので、必要量よりも多くインスリンが分泌されることになる。なので、過度に分泌されたインスリンの影響で低血糖を起こすことがある。この病態を「ダンピング症候群(dumping syndrome)」という。ちなみに”dump”は、「ドサッと落とす」というニュアンスのある単語である。


 Rさんは、ダンピング症候群による低血糖だと診断した。下垂体ホルモンの負荷試験をすれば、軽度のホルモン分泌異常が隠れているのかもしれない(高名な内分泌内科医から教えていただいたが、「ダンピング症候群の背景には軽度の副腎不全が隠れていることが多い」らしい)が、おそらくダンピング症候群が最も適切な診断だと考えた。Rさんには、食事はゆっくりとること、小分けにして摂ることを勧めた。


 その後は低血糖発作を起こすことはなくなったが、定期の採血ではやはり血糖値は60程度、HbA1cは4%後半と、低めの血糖で推移されていた。

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