第32話 診療所の初代師長Iさんと娘さん

 源先生のかかりつけ患者さんの中に、診療所の初代看護師長のIさんがおられた。Iさんは診療所の始まりとともに診療所に勤務されており、上野先生が来られて診療所が安定するまでの間の診療所を支えていた、本当の意味での草創期を支えた方である。もちろん上野先生を所長に迎えてからも支えてこられたのだが、定年退職後、メンタル不調を起こされ、年齢的なこともあり、だんだんと弱ってきておられた。最初に私が入院を担当したときは、どのような症状で入院され、どう対応されたのか、もう覚えていない。


 娘さんはかつて診療所で医療事務の仕事をされており、その当時を知る人は、

 「厳しい人だった」

とのこと。私がIさんを担当するようになった頃は、他の病院の医療事務をされていたと記憶している。歯に衣着せぬ方で、お母さんをすごく大切にしていたので、Iさんの対応については少しでも不手際があると、医師であれ、看護師であれ、事務スタッフであれ、入所中の施設のスタッフであれ、激しい口調で叱責されていた。そんなわけで、娘さんは、半分クレーマーのように考えられていた。


 そんなこんなで、入院中は私が主治医として対応していたのだが、ありがたいというか、ラッキーというか、私がIさんの治療をしていても、あまり娘さんの気に障ることがなかったのか、私が厳しく叱責されることはなかった。


 ある日、出勤するとIさんが入院していた。当直の看護師さんに話を聞くと、夜に高熱が出て、施設より深夜帯に連絡があり、当直医の源先生が対応。その時のおむつに下痢便が出ており、便の検査でロタウイルスが弱陽性の反応が出たので、

 「ロタウイルスによるウイルス性腸炎」

 の診断で未明に入院になった、とのことであった。朝の時点でのバイタルは、体温39.6度、BP 74/48、PR 124、SPO2 95%、前日から点滴は500ml入っているが尿は出ておらず、その後下痢もない、とのことであった。


 「おかしいがな!」

 と思わず叫んでしまった。ロタウイルスは主症状が下痢、嘔吐という消化器症状のはずなのだが、嘔吐もなく、入院してから排便もないとのことで、本当にロタウイルス胃腸炎で診断は正しいのか?と強く疑問に思った。さらに、輸液負荷にもかかわらず尿が出ておらず、バイタルはショックバイタル。高熱も出ており、focusは不明だが敗血症性ショックではないのか??と考えた。


 すぐに輸液量を増やし、血液検査を緊急で施行。院内緊急検査では、WBC 18000、Plt 5万、CRP>7.0と著明な炎症反応の高値が見られた。血小板も減っている。やはり敗血症性ショックだと考えた。ロタウイルスでは普通こんなに炎症反応は上昇しない。


 命にかかわる病態と考え、近隣の救命救急センターにすぐ連絡。同院も7:30頃に電話がかかってきて困ったと思う(たぶん医師や看護師の引継ぎがその時間帯だろうと思う)が、時間は一刻を争う。Focus不明の敗血症性ショックとして転送依頼をかけ、受け入れOKとのこと。娘さんにもすぐ電話をかけ、

 「昨日はロタウイルス胃腸炎ということで入院になっていましたが、本日私が診察し、部位は不明ですが、身体のどこかに強い細菌感染症があり、敗血症性ショックという命にかかわる病態と判断しました。救命救急センターに今から転送しますので、直接そちらに向かってもらえますか」

 と連絡。患者さんを転送し、娘さんには直接向かってもらった。


 同院で精査を行ない、尿路系に結石と水腎症があり、おそらくそこをfocusとする、複雑性尿路感染症に伴う敗血症性ショックと診断、尿路閉塞に対してD-Jカテーテルでドレナージを行ない、抗生剤と輸液管理を行ないます、との連絡が届いた。とりあえず、私が早く気づいて、大変なことにならず済んでよかった、とほっとした。


 そういったことで、Iさんの入院時に、何度か、適切に診断、治療や転送を行なったことが積み重なり、信頼してくださったのか、私と娘さんの関係性は悪くはなかった。ただ、入所されている施設では、施設スタッフが娘さんの叱責で心を病み、数人退職されていたようである。


 その後も、挿入されていたD-Jカテーテルを抜いたら、その当日にurosepsisとなり、再度同院に再入院となったりして、Iさんはだんだん衰弱していかれた。入所されていた施設も上記のことがあるので、

 「当施設では受け入れ困難です」

と、施設での療養も断られてしまった。


 Iさんは、診療所の草創期を支えた、診療所の大恩人の一人と言って過言ではない人であった。なので、理事長である上野先生と相談。もちろん上野先生も長い間Iさんと一緒に働き、その仕事を理解されていたので、本来はよろしくないのだが、「特例」として、二人部屋の室料を負担(健康保険からの支払いは、一定の期間を過ぎて入院を継続すると減額されるが、室料は保険診療に含まれないので、入院期間にかかわらず、同じ金額となる)していただくことに同意していただいて、診療所での長期入院を可とした。


 それほど長期の入院にはならないだろう、と思っていたのだが、人の命はわからないもので、お元気だった上野先生が先に亡くなられてしまった。Iさんには、上野先生が亡くなったことは伝えないでおこう、とスタッフ、娘さんと申し合わせ、Iさんには何も伝えなかった。


 娘さんは、Iさんの介護と、年齢のため仕事を退職され、娘さんの生活はIさん一色になっていた。傍で見ていて、

 「この方、Iさんが亡くなられたらどうするのだろうか?」

と心配になるほどだった。


 上野先生が旅立たれて半年ほど、当診に入院してから3年半ほど経ち、老衰の経過でIさんは衰弱していった。娘さんにも繰り返し病状をお話しし、お別れの時が近いことを伝えた。


 そして、Iさんは旅立たれた。娘さんは覚悟していたのだろう。ひどく取り乱したり、騒いだりすることなく、

 「長い間、ありがとうございました」

とおっしゃって、Iさんと一緒に帰って行かれた。


 娘さんは、その後、私の外来に継続通院された。お母さんを守らなければ、という強い使命感から解放され、時にメンタル不調を訴えたりされていたが、Iさんの思い出話などをしながら、followしていった。お母さんを守らなければ、という強い使命感がなくなったからか、性格も少し穏やかになられたようであった。


 もともと診療所に勤務しておられた方なので、しばらくして、診療所に古くからおられる北村先生の外来に通うようになられ、昔話に花を咲かせておられたようである。



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