釣りの藪
あべせい
釣りの藪
「いいことなンか、何もなかった。私の20年を返して、ヨォ!」
それでも夫は、表情を変えない。この人、生きているのかしら。
夫は、20年近く勤めた会社を突然解雇され、先週から仕方なく、警備員のアルバイトを始めた。
職場としては4つ目の会社だが、それまでの会社は1年と続かず、解雇された会社が最も長く、勤続18年だった。よほど、夫の肌に合ったのだろう。
解雇はリストラではない。痴漢行為をして、逮捕されたのだ。
デパートの催事場で、人ごみにまぎれて、若い女の子の胸を触ったらしい。
本人はいまでも否定しているが、相手が警察の勧めで示談に応じると言いだしたことから、痴漢を認めてしまった。それが会社に知れた。
会社は、社員300人程度の中小企業。
社長が体面を重んじる人で、性的なスキャンダルを最も嫌う。
万引きは、捕まっても起訴されない限り不問だが、痴漢は発覚した段階で解雇が、会社の方針だった。
夫は、社長に弁解するのが面倒になったと言った。しかし、それは嘘だろう。懲戒解雇になったばかりか、900万円余りの退職金が消えたのだ。
吝嗇家の夫が、900万円をどぶに捨てるわけがない。やはり、痴漢は事実と考えるべきなのだろう。
私は、ここ1、2年、夫を拒否していた。性行為がわずらわしくて。友人は、更年期なのよというが、少し早すぎるのじゃないか。性行為は卒業してもいいと思っていた矢先、夫が痴漢事件を起こした。
私は、夫の事件は私に対する、面当てなのではないか、と疑った。
しかし、一浪して予備校に通っている娘は、父の冤罪を信じている。
娘はまだ、男の本質を知らないのだから仕方ないが、私は人生の選択を誤ったと考えている。
夫は、私の絶叫が終わると、すごすごと家を出て行った。玄関に立てかけてある釣り道具を持って。
いつものように自転車に乗って、池に貸しボートを浮かべている公園に行くのだ。池は周囲200メートル。
あァ、やりきれない。こんなひとではなかったのに。私が愛した夫は、大きな夢を持ち、眼は輝き、言葉はいつも熱かった。
いまは、休みの日になると、釣りに出かける。
釣り堀のときもあるが、警備員になってからは、専らお金のかからない公園の池だ。
釣れるのはフナ。けれど、持ち帰ったためしがない。もっとも、フナなんか持って帰って来られても、処置に困る。こどもの頃、隣の小父さんが近所のこどもが釣ったフナを器用にさばいて、刺し身にしてくれたことがあったが、わたしは気味が悪くて食べなかった。
夫の釣りは、釣れなくてもいいのだろう。釣り糸を垂らして時間が過ぎるのを待っている。それとも……。
痴漢のこともある。夫にはこれまで女の噂はなかった。浮気をしている気配すら感じさせなかった。
一度や二度、男は浮気をするものよ、とともだちは言っている。金のかからない女でも、いるのだろうか。秘密を守り、ひたすら耐える女が……。
私にだって、秘密はある。7年前、30代半ばを過ぎ、体の張りに自信が揺らぎだしていた頃だ。
夫と交際中、しつこく言い寄ってきた男と再会してしまった。名前は……、名前で呼ぶのはやめよう。いまはそんな気分ではない。
たった一度。高校時代の同級生に誘われたと夫に嘘をついて、その男と外泊した。
その夜は、娘が、インフルエンザで熱を出し、苦しんでいたのに。
わたしはダメな母親だ。あのときも、いまと同じように、わたしは人生がいやになっていた。
こんなはずじゃなかった。もっといい思いができたのに。このまま一生を終えるなンて。だから、つい、つい、男の誘いに乗った。
「きみが行きたいと言っていた沖縄に、すてきなホテルが出来たンだ」
それが男の誘い文句だった。
沖縄は夫との新婚旅行ですでに行っていたが、初めてのような顔をして、男と飛行機に乗った。
あんなに大胆になれたなんて。いまでも信じられない。
ホテルは、ムーンビーチに聳え、フロントロビーは最上階まで、吹き抜けだった。
男が予約した部屋からは、エメラルドグリーンの海に浮かぶヨットやクルーザ、白砂の浜を彩るビーチパラソル、椰子の木々が見下ろせた。
でも、私は感激しなかった。こんなことで、喜んではいけないのだという思いが、そのとき急に頭をもたげた。
あれは理性だったのか。まだ、罪の意識が残っていたのか。
そうだッ! いまから、夫を追いかけて、貸しボートがある公園に行ってみよう。
あのひとにだって、言い分があるに違いない。
水はぬるい。風は心地よい。青々とした欅の枝葉が、竿先の方まで上からかぶさり、水面に濃い影を落としている。
200メートルほどの池の周囲に、私を含め、20人はいるだろう。各自持参した小さな折りたたみ椅子に腰掛け、思い思い竿をのばし、水面に漂う浮きを見つめている。
いつも、ほぼ顔ぶれは決まっているが、私の興味を引く人物はいない。
私には、妻の怒りが理解できる。いや、わかりすぎるほどだ。
私だって、過ぎた時間が取り戻せるものなら、取り戻したい。
こんなことになるとわかっていたら、私も別の道を進んでいた。
別の道を選ぶ機会はいくらもあった。しかし、私は、方向を転じることに関心がなかった。
会社の仕事に満足し、家庭も平和だった。やはり、どの道、私はこうなる運命だったのだろう。私の思考は、いつもここで、停止する。
しかし、妻は違う。人生の不運を呪い、激しく私を責める。ほぼ7年おきだ。
狂気の嵐。3ヵ月は続く。やり過ごす以外、私には打つ手がない。結局、時間が解決してくれるのを待つ。
妻は、従順すぎる。
私は、人間関係が原因で、解雇された会社を含め、3度職場を変わったが、妻は、一度も非難めいたことを言ったことがない。
「給与が安くても、それだけ仕事がラクなのだからいいじゃない」
と、言う。
仕事の内容についても、危険でないか、犯罪ではないか、を問題にするだけだ。
だから、これまで、妻は、貧しくても、社会的な地位はなくても、無能な私に従ってくれると思っていた。それだけに、「私の20年を返して!」
は、衝撃だった。
私だって、言える相手がいれば、同じことを言ってみたい。こんな人生になるはずではなかった、と。
あのとき、あの女と逃げることもできた。
バス停一つ先の、古びたバッティングセンターで、出会った女だった。
長い髪に、薄手の紅いセーター、アイボリーのパンツ。豊かなバストラインとヒップラインが、欲情をかきたてた。
年齢は、私より10才若かった。彼女が独身であることは、しばらくわからなかった。
翌週の同じ曜日に行くと、同じ女が同じゲージでバットを振っていた。
私は彼女の隣のゲージに入り、軽く会釈した。女は、表情を変えずに会釈を返した。
女のスウィングはひどかった。高校時代、野球部にいた私には、彼女に野球の経験がないことが見て取れた。
「教えてください」
女が、ゲージの境のネットに顔を寄せてきて、私にそう言った。
そのとき私は、困った顔つきをした。
そのバッティングセンターには、12人分のゲージがあるが、午後2時という時刻のせいか、そのときゲージを使っていたのは、私と女だけだった。
私は、自分のゲージの中からネット越しに、隣の彼女に対して、高校時代、監督から教わったことを思い出しながら、型通りのことを話した。
すると女は、自分のゲージを出ると、いきなり私のゲージに入ってきた。そして、私がいた位置に立ち、私の代わりにボールを打ち出した。
スウィングは相変わらず、ひどい。スポーツのセンスが、元々ないのだ。私は、彼女のゲージに移った。
「帰ります」
女は急に用事を思い出したように、バットを置いた。
「すぐに上達しますよ」
私は、背中を向けた彼女に、挨拶代わりに言ったつもりだった。
「運転できます?」
女が、振り向いてそう言った。
「エッ?」
「こんなになったンです」
女が、私の前に、掌を広げて見せた。
手の平が真っ赤に腫れ、できた数個のマメが破れていた。
私は、思いがけない展開に、度を失っていた。
彼女の車は、小さかった。
彼女が助手席に座り、運転席の私に道を指示した。
5分だったか、それとも20分は走ったのだろうか。よく覚えていない。
新しいマンションの地下駐車場に入り、私は白線で仕切られたスペースに車を駐めた。
「私、このマンションに住んでいます。狭山と言います」
彼女はそう言って、車から降りた。
私は車から出ると、ドアにカギをかけ、キーを彼女に手渡した。
彼女は無言でキー受け取り、財布を開いた。
「すいません。これで、タクシーをつかまえてください」
5千円札が、目の前に差し出された。私は、ようやく納得した。
「いや、家が近いですから」
歩いて帰れる距離ではなかったが、私はウソをついた。
バッティングセンターに行けば、また会える。彼女の家にあがろうなんて考えていた自分が、愚かに見えた。
しかし、彼女とはそれっきり。
それから何度もバッティングセンターに行ったが、再び会うことはなかった。
彼女の住まいは知っているのだから、偶然を装って行くことも考えた。
しかし、人妻との不倫は危険が多すぎる。過去に一度、仕事先で知り合った家庭持ちの女と関係して、煮え湯を飲まされたことがあった。
ところが、狭山と名乗った女は未婚女性だった……。
妻の可奈子が公園に着いたとき、夫の康一はぽつねんと釣り糸を垂れていた。
退屈そうではなく、寂しそうに見えた。どうして、老人ばかりのこんな公園に。
釣り、ってそんなにおもしろいのか、と加奈子は思った。
康一は以前、可奈子に、
「釣りは、男の闘争本能を満たしてくれる。闘争本能は、男の原初の本能だから、闘争本能が充足することは、他のすべての快楽を押しのけても、余りある」
と、話したことがある。
可奈子はよく理解できなかったが、康一が釣りに対して、並々ならぬ意欲を燃やしていることは感じ取れた。
しかし、……。
可奈子は、康一のすぐ隣に腰掛けている、見かけない女性に気がついた。
可奈子の位置からは、30メートルほどの距離だから、見間違えるはずがない。偶然、隣り合わせているのでもない。
可奈子は、木の陰から出て、2人の後ろ姿がよく見える場所まで移動した。
康一と女の間は、10数センチ。
2人は、同じデザインのアウトドア用折りたたみ椅子に腰掛けている。可奈子の知らない椅子だ。
可奈子は、不思議と冷静だった。夫は誘惑されているのだ。夫は浮気のできる男ではない。
可奈子には強い確信があった。康一は、誘惑されても、寸前のところで、思いとどまる、と。
康一は、落ち着かなかった。
7年ぶりに再会した狭山晶子は、康一が釣りをしている所に不意に現れ、保温容器に入ったコーヒーを差し出した。
再会して、この日が3度目だ。康一がいつ公園に来るとも約束していないのに、である。
2人が再会したのは、一週間前。公園の入り口だった。
晶子の長かった髪は、アゴ辺りまでになり、化粧は以前より濃くなっている。
公園で釣りをしての帰り、道路を横断していた康一は、車に轢かれそうになった。
車は急停止した。その車を運転していたのが、晶子だった。
康一は、釣り道具を手に持ち、誘われるままに車に乗った。
車もマンションも、7年前とは違っていた。彼女のマンションは1LDK。リビングに男の気配はない。こどももいない。
康一は、出されたコーヒーを飲んだ。
「バッティングはなさっているンですか?」
康一は、リビングの中央を占めているソファに腰掛け、つまらないことを聞いた。
晶子は、床に腰をおろし、部屋に入るなりつけたテレビを、なんとなく見ている。
2人とも、間がもてないのだ。
康一は誘われた理由を考えた。
晶子は、誘ったときの気持ちを思い返した。
「バッティングセンターだったわね。初めてお会いしたの」
康一は、晶子の軽い口調に、失望した。
7年前、もう一度会いたくて、一日おきにバッティグセンターに通った。あのときの熱い想いを消したくなった。
「私、あの頃、ふさいでいて。体を無理やり動かさないと、気が変になりそうだった。でも、いまも、そう……」
康一は、2人の年齢と、育った環境の違いからくる、違和感を覚えた。
「公園で釣りをする時間がなくなる」
「エッ」
康一はなぜウソをついてまで、帰ろうとするのか。自分でもわからなかった。
「また、来るよ」
康一は勢いよく立ち上がった。
「送るわ」
「いいよ。きみは、独身なンだ。ぼくには家庭がある」
「知っているわ」
「じゃ……」
康一は、ドアを後ろ手に閉め、振り返らずにエレベータに乗った。
その翌日。
康一が公園で釣りをしていると、晶子が真っ赤なジャンパーに、黄色いパンツ、簡単な釣り道具を持って現れた。
「いいですか。お隣で釣っても」
「はい……」
康一は、晶子が来たのは偶然だと思った。
2時間ほど、釣り糸を垂らしながら、あたりさわりのない話をした。
晶子は、握り飯を差し出し、
「来る前。家で握ってきたンです」
と、言った。
康一は、晶子の作ったおにぎりを食べた。可奈子のより、はるかにうまいと思った。
そして、3日後のこの日。
康一は何の期待もせずに、釣りに来たが、10分ほどすると、晶子が同じ釣り道具と、真新しい折りたたみ椅子を持って現れた。
「この椅子、使ってください。昨日、ホームセンターで買ったンです」
康一は、浮きやテグスを入れる箱を椅子代わりに使っていたが、晶子の気遣いに甘えることにした。
このとき、康一は、晶子の言葉遣いが、再会した日と違っていることに気がついた。
「それと、また、同じおにぎりです。飽きました?」
晶子は、そう言って、くすりと笑った。
男って、こんなものなのか。
奥さんと娘さんがいると言っていたけれど、この人は、そんな感じがしない。
この前、私のマンションに来たとき、どうして、私を抱こうとしなかったのか。7年前だって、私はうまくリードされれば、抱かれてもいいと思っていた。
この7年間、康一の名前を忘れたことがない。バッティングセンターから帰る彼の後をつけ、住所と名前と奥さんの顔を確かめた。
昼間からバットを振り回すなんて、タクシーの運転手でもしているのかと思ったが、そのとき彼は休職中だった。人間関係に悩んでいたらしい。そして、いまもそうだという。
世渡りがヘタそうな顔をしている。お世辞が言えないのだろう。おまけに無口。それなのに、わたしが心を引かれるのはどうして?
男の経験は、そんなに多くはない。けれど、男は、好きでもない女を、平気で抱く動物だということはよく知っているつもりだ。体験したから。
いまの私は、体が武器になる最後の年齢だと思っているが、彼には通用しなかった。
7年前、彼の奥さんの顔を見てから、夫を奪われた女の苦しみを味あわせてやろうかと考えた。
でも、あのとき、彼の奥さんはそれほど幸せそうには見えなかった。私も、まだそれほど不幸せではなかった。
いまは、違う。
別れたわたしの夫は不動産会社の女社長と再婚、大金持ちになった。
一千万円で夫に譲った3才の息子は、半年前、入浴中に浴槽で溺れて死んだ。
ウソだ。女社長はこどもができないから、息子を跡取りにすると言っていたが、51才で妊娠した。来月出産するという。
だから、邪魔になって私の息子を事故に見せかけて、殺した。
私は警察に訴えた。しかし、警察は動かなかった。何もしてくれない。
おかしいじゃないの。3才のこどもを一人で風呂に入れ、溺れましたでは。納得できない。
3才の誕生日を迎えたばかりの息子を手放した私には、何もいう資格はない、と女社長はいった。しかし、物心がついたばかりの幼児なら、年の食った女社長でも実の我が子のようにかわいがってくれると思って、譲り渡したのだ。
私にだって、幼い息子の無念を晴らす権利も義務もあるはずだ。
そうだ。彼に手伝わせよう。私は、最初から、そのつもりで、康一に接近したのではなかったのか。
一週間前、彼の自宅前で待ち伏せ、公園から帰ってきた彼に声をかけ、うまく再会した。
きょうだって、彼の家の玄関を、車の中から見張っていた。
野球は知らないが、釣りは知っている。
こどもの頃、父に連れられ、近所の溜め池で、フナや鯉を釣った。
父は、飽き性の反面、凝り性で、ヘラブナがおもしろいとなると、数10万円もする振り竿を買い、狭い庭に穴を掘ってフナを泳がせる池まで作った。
でも、3年ほどで、何時の間にか、父の釣り道具は自宅から消え、私に釣りに行こうと言わなくなった。
私だって、自分ひとりで釣りがしたいほどの釣り好きではなかったから、釣り熱はそれっきり立ち消えた。私は、父の飽き性を受け継いでいる。
この池は、どれほど魚がいるか知らないけれど、他人が釣りあげている光景を見るのは、一時間に一回くらい。それでも、多くの人が釣りに来るのは、なぜか。
この前、彼に尋ねたら、釣りは男の本能を満たしてくれる、って訳のわからないことを言われた。
男の本能は性欲だから、釣りと性欲が、どうつながるのか。それ以上、聞かなかったけれど、なんだかバカにされたみたい。
アッ、彼の浮きが動いている。でも、あれは、水中でフナが餌の赤虫の味を確かめているところだ。上げるのはまだ早い。あと、1、2分我慢すれば、もっと強い引きがくる。
彼の目つきが変わった。真っ直ぐ伸びていた人差し指が、竿を右に振った。
しかし、浮きはまたおとなしくなった。ヘラブナは気まぐれだ。気まぐれとつきあうには、根気と情熱がいる。私は気まぐれ者だが、彼はもっと気まぐれなのか。
きょうは、彼を夕食に誘おう。
とにかく、2人の秘密を作らないことには、話が先に進まない。
私は、竿をあげる。もう、1時間はこうしていたから、竿は片付けてしまおう。
バッグから保温容器をとりだす。紙コップに保温容器のコーヒーを注ぎ、彼に差し出す。
彼は、3日前と同様、おいしそうに飲む。コーヒーにはブランデーが垂らしてある。少しは、気持ちよくなれるはずだ。
わたしも別の紙コップでいただく。
ふだんより、濃い目に煎れたブルーマウンティンのストレート。この香り、別れた悟が好きだった。
どうして、悟と別れたのか。結婚して4年、息子が生まれて3年。
離婚するには早すぎると言う友達もいたが、別れるのなら早いほうがいい、と私は考えた。
理由は、所帯じみた悟がいやになったから。もっとはっきりいえば、飽きたのだ。
結婚する前に描いていた結婚生活とは、あまりにも違いすぎた。
悟は、トイレで新聞を読む。煙草の灰を所かまわず、落とす。浴室でハナをかむ。外から帰っても、手を洗わない。
悟はいったい、どんな育ち方をしたのか。悟に聞くと、だれにも、迷惑をかけていないと開き直る。
迷惑はかかっている。少なくとも私には。私は不愉快になり、酒の量がふえた。
こどものしつけにもよくない。直してくれと悟に言ったら、一時的には治まるが、すぐに元に戻る。
こんな男を好きになった自分が、バカだった。おまけに、息子がだんだん悟に似ていくような気がしている。私はそのことがいちばん我慢ならなかった。
この女は、異常だ。半年前、浴室で事故死した息子の敵討ちをするのだという。
私は、彼女の兄と偽って所轄署に行き、捜査結果を尋ねた。
明らかな事故死だ。遺体には首を絞めた痕や圧迫痕などは微塵もなく、きれいな死に顔だったという。
しかし、晶子はそれこそ他殺の証拠だと主張した。事故なら、転んだときにできた傷や、ぶつけたときの傷があるはず。息子は、力づくで頭を浴槽に押さえつけられ、溺死したのだ。
しかし、所轄の刑事は、テレビドラマの見過ぎ、実の父親がかわいい息子を殺すなどありえない、と捜査官らしからぬことを言った。
事件当夜、義理の母親の女社長は仕事で外出しており、自宅にいたのは、晶子の元夫の悟だけだった。
確かに、自分のこどもを殺す女親はよくいるが、男親はあまりきかない。私は、晶子の思い過ごしだと言い、刑事に礼を言って彼女を警察から連れ出した。
晶子は、車の中で、オイオイと泣いた。よくもこんなに涙が出るものかとあきれるほど。晶子は泣き続けた。
警察を頭から信用しているわけではない。冤罪があるように、見落としもあるだろう。しかし、半年前に片がついている事件を、いまさらどうしようというのだ。
遺体は焼却されて、すでに存在しない。あとは、加害者の自白に頼る以外にない。
しかし、晶子は、
「女社長を責めれば、きっと白状する。悟しかいなかったというのはウソ。逆よ」
と、言い続けた。
「あなたなら、顔を知られていないから、あの女の不動産屋に行って、マンションを買うふりをして、外に連れ出して。新築の売り出し中のマンションだったら、人に見られることもない」
晶子は、私に向かってそう言った。監禁して、拷問しろと命じているのだ。
それがどういうことのか、晶子にはよくわかっていない。
私は、ハンドルを握りながら、黙った。車は、車道の脇に停めたままだ。
晶子が私と会うのは、これが5度目になるが、少しも進展がない。
康一は晶子とファミレスで会って食事をして、一緒に彼女の車で警察にいった。
これからホテルに行く手もある。しかし、晶子はそのような雰囲気を漂わせない。
康一も不思議とそんな気が起きない。彼は意識下では、妻に申し訳ないと思っているのだろうか。
「わかったわ」
なにが?
「あなたは最低よ。わたしがこんなに苦しんでいるのに、自分の家庭のことだけ考えている。あなたも、女房以外の女は、セックスの対象にすぎない、と決めつける、ふつうの男、ってこと。もう、いいから。ここで降りて」
康一は命じられるまま、後部座席から釣り竿をとり、運転席から降りた。
晶子は、助手席から、シフトレバーをまたいで運転席に移り、車を発進させた。
康一は、逆方向に歩道を歩いていく。これから公園に行って、もう一度釣り糸を垂らすつもりだ。
肉体関係のない男女は友達以下だ、と言ったやつがいたが、康一はそれが本当のような気がしてきた。
もっと早く抱いていれば、もつと違った展開になっていただろうか。
いや、あんな女と関係しなくて、よかった。そう思ったとき、すぐ横で急ブレーキ音がした。
「なにやってンのッ!」
晶子だった。
運転席の窓を開けて、
「早く、乗りなさいよ。見られたら、困るでしょう」
康一は、開いた助手席のドアに、迷わず体を滑り込ませた。
康一はすでに決心していた。彼女の車が引き返してきた瞬間に、だ。
例え、何を頼まれても、引き受ける。それが犯罪であっても、こんな機会はもう、2度とないだろう。
やり直せない人生なら、いま出来ることを楽しめばいい。
だが、いざとなると、私のような男は……。
しかし、きょうは、どうなるか。私にもわからない。これまでにない事態だから……。でも、妻だけは悲しませたくない。この気持ちだけは、変わらない。
(了)
釣りの藪 あべせい @abesei
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