呪え獣よ、夜よ蝕め

藍砂

一章

序 『月蝕のヨル』

 ぐぉおん――と白鯨が唸った。空気が振るえ、びりびりと鼓膜に伝わる。身体も戦慄いていた。周囲はあまりの巨躯に驚いている。そして私は猛烈に――感動していた。


 だって、これは滅多にない御馳走だったから。

 

 白鯨は千年に一度だけに現れる、巨大な「食糧」だ。一体捕獲するだけで、何十年も、何百年も――その肉を食らうだけで、人間たちが生きていける不死の肉。


 天空から雲を割き、現れた白鯨は美しいの一言に尽きた。寧ろそれ以外に表せる言葉が、ない。

 白鯨は雷雲すらものともせず、天候すら操り私たちの前に降りる。そして私たちという弱者をどこまでも弄ぶのだ。

 私たちは構えた。けれど私より隣にいる人たちはどうやら駄目みたい。まぁ注意したって傭兵たちは聞きやしないから、そんな無駄なことはしないけれど。


「――……」


 白鯨が、潮を吹いた。

 瞬間、周囲には悲鳴と、怒号。そして私の身体に掛かる――血飛沫。

 白鯨による攻撃をうっかり受けた人間の脂肪と体液が身体にべっとりとかかってしまい、私は溜め息を吐きながらせめて顔にかかった血液だけは拭いとる。

 白鯨は人間たちにとってこの上ない御馳走だ。けれどその分、白鯨を殺すのはこの上なく難しい。白金級や金級の傭兵たちが束になっても、姿は捕捉できても空を飛べない人間たちでは空を飛ぶ巨躯を捕らえるのは不可能に近いのだ。

 何百人といる傭兵や兵士たち。今日集まったのはそういう類の精鋭エキスパートたちだ。戦闘においても狩猟においても、普通なら彼らが十人もいれば事足りるだろう。

 でも、それは人間の世界でのお話。

 白鯨は人間社会において規格外の存在だ。人間社会に属さない、属せない異世界の幻想種といっていい、伝説の生き物にどんなに大きい大砲をぶち込んでも、白鯨は強靭な皮膚を以て跳ね返してしまう。

 ここはそういう戦場だ。砲弾や弓矢が飛び交い、彼らは己の武勇を以て白鯨を仕留めようとする。けれど白鯨はその身を決して地上に堕とさず、唸り声だけで人間たちを圧倒してしまう。


「……」


 しかし白鯨は――私という、天敵を前にしても、人類をなめないままでいられるのか。


 答えは、否。


 私は石弓クロスボウを取り出す。これはただの石弓クロスボウではない。白鯨を追い詰めるための武器。白鯨を確実に仕留める為にわざわざ用意した私の武器である。


「おい、嬢ちゃん! 止めておけ! 死にに行くようなものだ!」

「大丈夫。こう見えてもわたし、強いから」


 私は首に垂れ下がっていた防護型眼鏡ゴーグルを掛ける。この防護型眼鏡はとても頑丈だ。どんな強風でも雷雨でも、ヒビ一つない特別製。視界を確保するというのはとても大事だ。戦場で五感の一つでも失えば、人間というものはあっという間に死んでしまう。


「――……ここでいいか」


 とりあえず壊れなさそうな場所を探して、大地に落ちる。そしてワイヤー付きのクロスボウを手にして狙いを定める。矢尻だって、今日のためにわざわざ誂えたのだ。白鯨を殺す為だけに――白鯨を狩るためだけに存在する、道具。


 私はドン――ッとクロスボウを白鯨に向けて発射した。


 あまりの勢いに地面から吹っ飛ばされそうになったけれど、何とか踏ん張って白鯨の皮膚に貫通したのを目視する。

 これだけでもまぁ、正直奇跡に等しい。砲弾さえ通さない白鯨の強靭な皮膚。矢尻が白鯨にとってあまりに細く速度もあったから、私のワイヤー付きはまるで注射器の針みたいに皮膚に入り込んだだけなのだけれど。

 私はワイヤーを伝う為の装置のボタンを押して、その身一つで白鯨に向かう。そして私という身体は、天空にその身を任せることになったのだ。


「――わっ!」


 思わず見惚れてしまうぐらいの美しい空。青と赤の絵の具が混ざり、ついでに雲の黒が混ざった美しい――大空。雷雨さえも、その絵画を彩る一部と化していた。

 白鯨は空を未だ舞っている。

 そして私も、空を一緒に舞ったのだ。


「――ッ!」


 しかしどうやら白鯨は、私が一緒に踊ることを許してくれないらしい。白鯨は戦慄くと私という異物を振り落とすべくその身を捩らせ、私を地面に叩きつけようとした。


「けれど、そんなことは――させない」


 私が打ち込んだ矢尻は白鯨の目の横だ。つまり白鯨は私を視界に捉えているから、私を排除しようと考えている。だけれど、それは私も同じ。

 私はワイヤーを押さえていない手で剣から鞘を抜く。禍々しい色をした剣は、かつては神代で君臨していた竜でさえ屠ったという。その剣が白鯨ごとき、とどめを刺せない筈がないじゃないか。


「――~~ッ!」


 白鯨は唸る。眼球を一つ潰されたことで酷く怒っている。斬りつければ天使でさえ決して生き返らないとされている剣は、白鯨にとっても相当痛かったらしい。

 白鯨は捩る。獣は痛覚という感覚を久しぶりに味わっているようだ。平衡感覚を失い、白鯨はやがて地面へ落ちていく。

 けれどまだ少し。もう少し。

 私はついでと言わんばかりに思い切り投げる勢いで毒そのものである剣を、眼孔を通して白鯨の脳髄に叩き込んだ。

 剣は脳を食い破る。剣を中心として肉は陥没し、やがて脳髄と浸食し。そしてついに剣は音を立てて、頭蓋骨を貫通し、音速となって地面へと突き立てられた。


「……ふぅ」


 白鯨が大地に衝突する際、衝撃に備えて良かった。白鯨の眼孔の中は柔らかく、緩衝材となってくれた。私は巨躯の死体からひょいと出て、地面へと降りる。


「――すげぇ……」


 その瞬間、暫くの周囲は呆然とし、やがて大きな歓声を上げる。一人の少女がたった一人で白鯨を殺したのだ。無謀すぎる、しかして確実な致命傷に至らしめた武勇を目撃して、彼らは随分の間、興奮がさめやらなかった。

 彼らは沸いた。一方的に蹂躙されるかと思った人類の反撃を、しかもその一撃は白鯨を屠るに至った。これを伝説と呼ばずしてなんと呼ぼうか。


 私は褒められることに慣れていない。それに皆に褒められるより、早くその不死と噂されている肉を食べてみたいのだ。私はいそいそと白鯨の肉をいつ切り出していいのか、今か今かとそのときを待った。





 ようやく一段落して、白鯨の巨躯も無事に荷台に載せられた。後は依頼主に届けるだけ、なのだけれど。


「は? アレ、私、食べられないの?」


 私はわくわくしながら報酬を貰いに依頼主直属の兵士に話しかけたら、食べられないと一刀両断された。あまりの予想外な返答に絶句していると、兵士は追い打ちをかけるように言葉を畳みかけていく。


「当たり前だろう! 彼の王に献上するのだぞ! だから貴様のような人間を雇ったのだ。狩ることは許されても、不死の肉を一口でも口にすれば、その瞬間貴様の首をたたき折ってくれる!」


 兵士は、私が本当に白鯨に触れれば剣を斬りつける勢いだ。それでも、私は――この『私』に対して本当にそんな口を利いて良いのか、あと一回だけ確認する。

 そう、あと一回――あと一度だけ。そして否定すれば――私は剣を抜かざるを得ない。

 今兵士がしている言葉はそういうことだ。私に殺されても仕方ないです、だから斬ってくださいと首を差し出すのと等しい所業。それまでに否定してくれればいいけれど。やはり兵士は、最後まで私に命乞いすらしなかった。


「ねぇ、本当に一口も、くれないんだね?」

「くどい!」

「そう――じゃあ、いっか」


 私はその刹那、鞘から剣を抜き白鯨の死体に剣を打ち込む。私たちのやり取りを見ていなかった人たちは、白鯨の一部分が、べこりと凹んだように見えただろう。やがてそこだけが、剣に触れた瞬間ぐずぐずに溶けていく。

 あっけにとられて、未だ状況が理解できていない兵士に私は説明してあげる。ほら、だから私に食べさせてくれれば、こんなことにはならなかったのに。


「白鯨の不死の部分は肝臓と言われている。だから毒で食べられなくした・・・・・・・・・・。私が食べられなければ、意味ないもの」


 私はピンポイントで白鯨の肝臓と思われる部位を、剣をぶん投げてわざと毒で侵して誰も食せないようにした。剣は恐らく白鯨の身体を突き抜けて、向こう側にあるから回収するとして、問題はこの兵士。

 私の食べ物を邪魔した人間は例外なく殺してきた。ただの一人も残さず――絶対に殺してきた。この兵士も殺害対象リストに入るだろう。けれど、私という存在を知りながら雇った――王様も殺すべきか?

 私は悩む。手元に残っていたもう一つの剣で兵士の首をぽんと撥ねると、いよいよ周囲は喧騒に包まれた。


「思い出した――あいつは……自らの獲物にひたすら執着する『黒』の狩人……」


 その内の一人が、ついに私について思い出したらしい。というか誰も私を『私』と知らずに横に立たせていたのだ。その無神経さに感心するというか、呆れるかというか。せめて同業者ぐらいは把握してほしかった。まぁ私も彼らについて全く知らずに戦場へ来たのだから、お互い様なのだろう。

 そして、一人の傭兵がわざわざ私の名前を知らしめるように叫ぶ。


「自らの獲物を口に出来なければ、人に与えるぐらいなら……腐らせる――『月蝕のヨル』!」

「――あぁ、私の二つ名、知っていたんだ。それは光栄」


 まさか私の名前まで知っているにしても、二つ名まで知られているとは思わなかった。月蝕――その名前は私が最悪であり、最凶である証し。


「でも、一つ違うことがある」


 そう、彼の言っていることには一つ間違いがある。これは何としてでも是正しなければなるまい。


「私は、この小さな身体が満たされればそれでいい。獲物の肉は残ったみんなで食べればいい。食べきれなくて腐らせるなんてそんなもったいないこと、私はしない」


 私は嗤う。それが私の存在意義。私が月蝕のヨルと謳われる理由。

 私はピンと黒のプレートを首元から取り出し、私が最悪といわれる所以を周囲に知らしめる。結果はこの通り――ほら、殆どの人は蒼ざめたでしょう?

 かつては悪食のヨルと勝手に名付けられていたけれど、黒のプレートを授かるにつれギルドから二つ名を正式に与えられた。

 ゴールドより白金プラチナより何より貴重な、何物にも染まれないただ一色の、黒。

 一般人に周知されているのは白金プラチナまで。しかしギルドの中で最高の称号とされるのは白金プラチナではなく、黒と無色。最高の称号が二つあるのは、その人間の性質によって与えられるから。そして私は黒と判断された。無色は聖なる色――とされているし。これに異論はない。私はどう足掻いても聖人にはなれないのだから。

 そう、私は自分の腹さえ満たせればいいのだ。しかし。


「この小さな胃袋すら満たしてくれない狭量な輩なんて、食べさせる価値、なくない?」


 私を傭兵として雇うには、『私の食事を邪魔しない』こと、これを承諾してもらわなければならない。これは絶対のルール。邪魔したら、殺す。たとえ契約内容を依頼主から明かされなくとも、私を雇うからには末端までこのルールを遵守されてもらわなければ困る。

 契約違反をしたのは向こうだ。だから殺されても構わない。警吏に訴えても無駄だ。私は黒色であるからたとえ討伐対象になっても、というか既に何カ国で指名手配されているが、ギルドは関知しないし、元より私は強すぎて捕まえられないのである。

 だから私は散々確認したのに。けれどどうしてもと向こうが強行してしまったのだから仕方ないだろう。


 周囲は報酬が貰えるはずの白鯨が毒で台無しになってしまい、原因である私が怖くて蒼ざめているか――激怒しているか。我を忘れて飛び掛かってくれるなら手間が省けてありがたい。獲物が自らから飛び込んでくれるなんて、何てとても楽な狩猟なのだろう。


 黒のプレートを貰ってから人を斬ることは少なくなったが、それでも完全に斬らなくなったとは言い難い。ほら、今も兵士が徒党を組んで襲い掛かってこようとしてくる。まぁ、私としては相手が誰であろうと斬り捨てるだけなんだけどさ。


 そうして今日も私は――生きる。報酬を逃した傭兵たちは私に逆恨みしているし、無駄死にした人もいたし、不死の肉を少しくれるはずだった王様も平気で約束を破ってくるけれど。


 私という『月蝕のヨル』は、自分の名に恥じず性懲りもなく、今日も元気にケダモノを狩るのだ。

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