9.触れたくなかった理由

 表情が一瞬強張る。

 けどすぐに笑顔を貼り付けた。


「サラとの?」

「誤魔化すなよ。知ってなきゃ、あの日あいつを連れてかねえだろ」


 ああ、ばれていた。

 笑顔のまま固まってしまう。


 あの日っていつのこと?

 そう誤魔化さないといけないのに、喉が貼り付いて言葉を出させてくれない。


 それは、柳生が直接そう言ったの?


 あの日のサラのニンマリとした笑みと共に、頭の中であのときのやり取りが再生される。


 触れて欲しいのか、否か。

 そんなの、直接訊かなければわからないのだ、と。


 私は一つ息を吸うと、頭を下げた。


「ごめん、知ってた」

「俺を、からかってたのか」


 静かな声からは感情が読めず、そっと顔を上げる。

 柳生くんは、真剣な瞳で前髪越しに私を見ていた。


「そんなつもりはまったくなかったよ」

「ならなんで知らない振りをしようとしてた」

「それ、は……」


 傷つけたくなくて、というのは私の自己満足なのだろうか。

 柳生くんはそんな気遣い、必要としていないのかもしれないのだから。


 かもしれないって、なんだろう。

 それは、私の頭にあるだけのもので、実際はどうかなんて柳生くんに訊くしかなくて。


 そして柳生くんは、今目の前にいるのだ。


「噂を知られることに対して、あんまりいい気持ちはしないんじゃないかなって、勝手に思ってたの」

「……別に、それで距離を置いてくれるならいい。からかわれるのは面倒だから嫌だけどな」

「柳生くんって結構面倒くさがり屋さん?」

「うるせ」


 軽い口調で返された言葉に、心が緩んだのがわかった。

 同時に、どうやら私は緊張をしていたらしい、ということも。


 柳生くんは言葉を探すように視線をさまよわせる。

 首を傾げて見せれば、彼はゆっくりと口を開いた。


「お前がからかう側の人間じゃないのは、この間のあいつに絡まれたときの反応でわかった」


 コツ、コツ、と柳生くんが指で机を叩き始める。


「同時に、もしかしたら……」

「もしかしたら?」


 すっと瞳が逃げる。


「お前は本当に優しさだけで俺に傘を貸したのか、とか、そういう……」

「えっと……なにか企んでるんじゃないかと思ったってこと?」

「いや、そうじゃなくて」


 今度は指が机の上を撫でるように滑っていく。

 落ち着きのない様子に、私はただ言葉を待つしかできない。


「お前、誰にでも基本的に否定をしないだろ」

「そうかな」

「……少なくとも、同じクラスになってから今日まで、一度も相手自体を否定するようなことは言ってない」


 頭の中を、今朝見た夢が駆け抜けていく。

 夢では途切れてしまった、先生に言った言葉。

 そして、返ってきた言葉。


 灰色の感情が、じっとこちらを見ている。

 蛇のようにとぐろを巻いて、静かにじっと。


 私はそれが見えないように、そっとそこから視線をそらした。


「だといいな、とは思ってるよ。柳生くん、意外と人の話、聴いてるんだね」

「聞こえてくるだけだ。だから、その……無理、させたのかと思った」


 窓を閉じていたから。

 この教室には、そしてこの階には、おそらく私たちしかいないから。

 だから聞こえた。

 そんな、小さな声だった。


「見られたくないところを見たクラスメイトが困っていたから、口止めのために無理して傘貸したんだろう、とか、そういうことを、考えてた」

「見られたくないところ」

「お前、結構前の放課後、自殺しようとしてただろ」


 心臓が、大きく脈打つ。

 息が苦しい。

 指の先から温度がどこかへ逃げていく感覚がする。


 あっと思ったときには、灰色の感情と目が合っていた。

 それは、大きく腕を広げると私を飲み込むように包み込む。


 死にたい。死んでしまおう。私なんて、別に死んだところでなにも変わらないのだから――。


「ごめん、ちょっとトイレ行ってくる」

「は? おいっ!」


 まずいと思った。

 だから柳生くんが呼び止めるのも聞かずに私は教室を飛び出して、トイレに駆け込んだ。


 すぐに個室に入って鍵をかけ、閉まった蓋の上に腰掛ける。

 そのときには既に、頬は零れ落ちた涙でべしょべしょに濡れていた。


 自分をギュッと抱きしめて、必死に心の声を無視してやり過ごそうとする。

 その中で、私はどうして柳生くんの噂に直接触れたくなかったのかを理解した。


 私が、触れられるのが怖かったから。

 それ以外に理由なんて、なかったんだ。

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