第五章 ③
「カハッ......」
無意識のうちに数秒止まっていた呼吸が、それを境に再開される。
.........いや、もしかしたら、これが初めて吸った息なのかもしれない。
そんな新鮮で不味い空気を、思いっきり吸う。
そして、すべてを思い出した脳をはたらかせて.........
「............母さん、俺、どうすればいいのかな」
初めて吐き出す息とともに、俺はそんな情けない言葉を吐いた。
すべてを思い出したうえで、俺は結局、どうすることが正解なのか、それが未だに分からなかった。昨日帰宅した時から、ずっとそれを考えているが、やはり分からない。
そしてそんな俺に対して、母さんはどんな反応をするだろうか。また、ため息を吐かせてしまうのだろうか。
............って、ちょっと待て。
俺は、記憶と現実との小さな相違点を見つけた。
「っていうか、何で母さんが俺がその選択肢を選ばないといけないことを知ってるの?」
そもそも、俺が昨日烏汰さんの下を訪ねたのは、母さんが持っている『環姓の言い伝え』の知識だけでは不十分すぎるからであって、その母さんの持っていた知識だけでは、俺がその二択に迫られていることを知る余地がないはずなんだけど......。
すると母さんはどこかばつの悪そうな顔を浮かべながら、こう言葉を紡いだ。
「.........烏汰兄さんに釘を刺されたのよ。この言い伝えの期間が過ぎるまでは、詩遠を監視しといてくれってね。......それでその時、大体のことは全部聞いたのよ」
「ああ、なるほど」
それなら納得だ。
......納得はしたけど、烏汰さんはもう少し俺を信用してくれてもいいとも思う。
まぁ、それは無理か。実際、昨日は酷かったからなぁ。
「......それで? 結局のところあんたは悠姫ちゃんや蘭ちゃんをどう想っているの? それを聞かないことには相談にすら乗れやしないよ。......正直に、隠さずに、全部を教えてくれない?」
昨日のことを思い出し、思わず苦笑いをしていると、母さんからそう問われる。
すると、すぐに苦笑いは自然と崩れていき、俺は真剣に頭を動かす。
......昨日頭の中でさんざん考えたことだが、いざ口に出すとなると一気に恥ずかしくなるな............
って、それが駄目なんだろ、俺。そんなこと考えてるから、悠姫や紫水までもを巻き込んでこんなことになってんだろ.........!
からりと乾いた喉を、つばを呑んでごまかしてから、深く呼吸をする。
そして、ゆっくりと口を開く。
「......その二人は俺にとって、とても大切な人だ。
悠姫は言わずもがなだろうけど......とても、大切だった人だ。こんな不甲斐ない俺のそばにずっといてくれて、最後まで優しくて、俺は、あいつのことが............大好きだった」
俺は一息でそう言い切ると、多量の空気を吸う。
その間に母さんの方から聞こえてきた「だろうね」という言葉は、聞こえなかったことにしよう。俺が悠姫のことが好きだってことを母さんに言ったのは今が初めてだし、うん。
「それで、紫水は............」
俺はそう言葉を紡ぎながら、頭の中で、俺にとっての唯一の後輩のことを思い浮かべる。
「正直な話、俺は紫水を特別に意識したことがなかった。学校の、部活の後輩。それ以上でもそれ以下でもない。そう思っていたんだ。.........この件が起きるまでは」
この件をきっかけに、紫水のことについていろいろと考えていた。
本当に紫水は、単なる後輩なのだろうか、と。
紫水が部活に入ったばかり、つまり半年前くらいでは、そうだったかもしれない。
......だけど、今はどうだろうか。
悠姫の死を受け入れられない俺を励ましてくれたり、もう何も残っていない部活にずっと残り続けてくれたりしてくれる、そんな、紫水は...............!
「......知らず知らずのうちに、俺の中ではなくてはならない、大切な人になってたんだ」
どちらも、大切なんだ。
どちらか一方を決めるなんて、俺にはできそうにない。
......それが、世界や、俺の記憶にすら残らずに収束をするとしても。
......それが、選択肢にもう既に亡くなってしまっている人がいるとしても。
俺にとって。
「それくらい、紫水も悠姫も、同じくらい大切なんだよ...............!」
そう言い切ると、俺は急に力が抜けて、ベッドへと倒れこむ。少しだけ、頬は火照っていた。やはり、恥ずかしさは殺し切れていなかったらしい。
部屋の中を流れるのは、静寂。なんとも居心地が悪い。
そしてそんな静寂を、ぼうっと天井を眺めて過ごすこと約一分。ふいに母さんの声が聞こえる。
「あんたの言いたいことはよく分かった。.........ただ、それで逃げるっていうのは、無責任にも程があるんじゃないかな」
.........そりゃそうだ。俺は、ここで俺の意見を肯定してこない母さんに少しだけほっとしてしまった。単なる慰めなんて、今の俺は欲していないのかもしれない。
願わくば、もう少しだけ、俺に何かを決める力が欲しい。いつも少しだけ足りなかった、あれが。
「あんたはいつもそうなんだよね。自分で起こしたことなのに、肝心なところで怖気づいて何もできない。そしてその結果、ひどく後悔する。.........その行動によって後悔することなんてずっと前から分かっているはずなのに」
母さんは俺を睨みつけながらそう言葉を紡いだ。
俺は、何も言い返すことができない。すべてが母さんの言う通りなのだ。俺はいつも、きっと後悔すると分かっていても、ビビってしまって行動を起こすことができない。そして、自分で選んだはずのその選択を、ひどく後悔する。
そんな体質は、幼き頃から抜けていく気配がない。
今回のことに関しても、そうだ。自分のせいで二人を巻き込んでしまっているのに、俺には決めることができないなんて、さっき母さんが言った通り、無責任にも程があるだろう。
「......どうだい、詩遠。一回ぐらいは自分で自分のケツをしっかりと拭いてみないか? ......きっとこのままだと、これからの人生何も決められないよ。大学、就職、パートナー。今回のことも含めて、『何も決められない自分』を背負い、自己嫌悪を繰り返しながら生きていく。でもさ、そんなの嫌だろう? 私もあんたがそんな風に育つなんてまっぴらごめんだよ。
けど、もしここで、一回でも『決断ができる自分』というレッテルを貼れたなら、少しだけでも、自己肯定ができると思うんだ。
こう言ったらいけないかもしれないけど、いい機会なんじゃないかな。今回の件って」
「............母さん......」
俺は、自分に対して情けなさを感じた。自分を変えないといけない、そうずっと考えていたはずなのに、結局、そのはじめの一歩は自分から踏み出すことはできなかった。烏汰さんや母さんから背中を押されて、それも、バランスを崩しながら踏み出した一歩だったのだ。
「ありがとう、母さん。俺、やっと一歩が踏み出せた気がするよ」
「当たり前だね。ここで首を横に振ってみな。きっとぶん殴ってたよ」
えらく物騒なことを言いながら、母さんは笑った。......これで、良かったのだろう。この笑顔を見てしまった以上、俺は、烏汰さんや母さんや悠姫や紫水や自分自身のために、やるしかなくなったのだ。それがどんな答えであろうと、自分で決めて、それを背負ってこれからを生きる。そうしないと、俺は一生このままなのだと自分に暗示する。
「......まあ、決心してくれたのはいいんだけどさ、あんたも烏汰兄さんから聞いたでしょうけど、例の先人の二の舞にはならないようにね。私はそれだけが心配だわ」
「安心してよ母さん。俺には自殺するなんてそんな勇気はないから」
「そう言い切られてもねぇ......人間いざとなったら怖いものよ。......それじゃあ、私はそろそろ」
そう言うと、母さんは俺に背を向け、ドアのレバーに手をかけてゆっくりと下ろす。そしてそのまま軽く押し込むと、ドアは少し軋みながら開いた。
そのまま出ていくのかと思ったのだが、母さんがドアをくぐって閉まるほんの数秒前、ぼそっと、小さな声が聞こえた。
「私は、詩遠を信じているからね」
と。何故俺に直接言わないのかは少し疑問だったが、そんなことを面と向かって言われてもただ赤面するだけだろうと思うと、その伝え方で正解だったように思える。
そして、そんなことを思っていると、もう既にドアは完全に閉まっていた。母さんが去った部屋は、時計の音しか響かないほどの静寂に包まれる。その空間に俺は、少しだけ寂しさと心細さを感じた。
けど、一人で決めると決断した以上、そう簡単に母さんや烏汰さんに頼るわけにはいかない。俺は、ベッドに仰向けで寝そべると、一から、悠姫と紫水のことについて考え始めた。
正直な話をすると、もう一度悠姫と肩を並べて歩けるというのなら、是が非にでもそうしたい。が、この世の中そんな旨い話はどこにもない。何かを得ようとするのなら、何かを失わなければならない。これは自然の摂理だ。
そして今回の場合、その失うものというのが紫水という人物であって、それは二つ返事で失うことなど到底許されるものではない。
それに加えて、果たして今の俺に悠姫の隣にいる権利などあるのだろうかと、ふと俺の脳内にはそんな自問がよぎった。が、それは瞬時に否定される。分かっているのだ。俺がここで悠姫を選んでしまうと、結局のところ何も成長できないのだと。
そして、ダメ押しをするかのように、俺は先のファミレスでの紫水の言葉を思い出す。
『ええ。悠姫先輩が亡くなるほんの数日前。突然悠姫先輩はこう言ったんです。
『詩遠を頼んだよ』って。『きっと私が死んじゃったら、寂しがりやな詩遠は悲しむだろうから』って。私は、それを守りたかった。この部活の部員であるために』
『ねえ、先輩。私は、先輩の隣を歩けていますか? 紫水蘭という一人の部員として、歩けていますか?』
一言一句違わず脳をよぎったそんな言葉に、俺は泣きそうだった。紫水はあんなにも真摯に俺や部活、そして自分自身と向き合っているのに、俺はどうだ? この期に及んで悠姫のことが心にへばりついていて、やはり逃げているばかりではないか。
この時、俺は完全に目が醒めた気がした。
もう、答えは決まった。揺るがない。いや、揺るぐようではだめなのだ。そんな様では、とてもじゃないが誰の隣にも立てる権利はない。
俺は気が変わらぬ間にとおもむろにスマホを手に取り、ロックを解除する。
そして、メッセージアプリを開き、悠姫にこの家に来てくれるようにお願いをした。
俺はスマホを、メッセージ送信が完了したトーク画面のまま電源ボタンを押しスリープさせる。そして、静かに目を瞑った、その瞬間だった。俺の目からは、今までは我慢していた温かい涙の珠がほろほろと溢れてくる。それはきっと、申し訳なさや情けなさなどのいろいろな感情が原因となっているのだろう。俺は独り、しばらくの間ベッドの上で泣きじゃくった。その後、涙が少し収まると、俺はおもむろに唇を動かして、
「大好きだよ、悠姫。.........そして、ごめんな.........? こんな情けない幼馴染で。
紫水も、こんな情けない先輩でごめんな......?」
と、震え掠れた声で呟いた。しかし、その言葉を境に、またもや涙が零れ始め、その後数時間は、その涙が一瞬でも止まることはなかった。
第五章 終
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます