第二章 ②

 次の日は、やけに早い時間に目を覚ました。

 しかし昨日、自分が何をしていたのかを思い出すことができなかった。ただ、知らぬうちによほど泣いたのだろうか。目がかすかに痛い。

 辺りは真っ暗だった。物があるのは理解できるが、それが何なのかはわからないくらいに。時計すら見えないので、詳しい時間は分からないが......午前三時、或いは四時くらいだろうか。

 そんな、患者の全員が寝静まっている中、これからどうしようかと考えていた俺の耳に、聞き覚えのある声が聞こえてくる。


「詩遠、おはよう。」


 目を凝らすと、暗闇の中でいつもどおりにこやかな微笑みを浮かべている悠姫の姿をかろうじて目視することができた。

 けど、その笑顔は顔色も悪く、明らかに苦しそうだった。それはもう、見ていて心がとても痛くなってくるほどに。


「......ああ、おはよう」


 俺は若干遅れて返事を返す。......そう、昨日のことを思い出してしまったのだ。

 どんな顔をして顔を合わせたらいいのかわからない。暗がりの中だったのが幸いだった。


「「............」」


 しばらくの間、沈黙が流れる。ベッドに置いてあったアナログの時計の音だけが耳に届いた。

 そんな中、悠姫はその沈黙を破る。

 その時、どんな表情をしていたか。見えなかったけれど、想像はできる。

 ........あいつは性格上、絶対に人前で苦しそうな顔はしないんだ。


「.........ごめんね」


 そう一言。何に対する謝罪か分からないし、分かりたくもなかった。

 俺は依然、沈黙を貫く。


「私、怖くて言えなかったの。」


 大方、予想通りだ。こいつの性格からすれば、そんなことだろうと思った。

 けど、それにしてもひとつだけ言わせてほしい。


「なあ悠姫。......何が、怖かったんだ?」


 明らかに、悠姫は戸惑った。まあ、それも無理はないだろう。俺自身でさえこの質問は、愚問中の愚問だと感じるくらいなのだから。

 けどそんな状態のまま、俺は言葉を続ける。


「自分が死ぬことか? それとも、自分が死ぬのが近いことか? ......それとも、誰かを悲しませることか?」


 うつむいたまま、互いの顔も見ず、そんな言葉を投げる。

 数秒唸ってから、帰ってきた答えは、俺の予想していたものとは少し違ったものだった。


「......全部、怖いよ。」


 重い、重い一言だった。

 俺は今でもこの言葉にどれだけの感情がこめられているのかがわからない。

 けど、俺はその一言で、せめて悠姫が亡くなってしまうまでは、一緒にいようと決めた。

 

 それからまた長い時間を、病室で過ごした。

 さすがに二日連続で病室で眠るのはどうかと思った俺は、家に帰るためにずっと座っていたパイプ椅子から立ち上がった。

 ずっと座っていたせいで、クッションの部分がキレイに尻の形に沈んでいた。

 そして、俺は悠姫に声をかける。


「じゃあ、そろそろ」


 そう、軽い感じに。

 だから悠姫ももうすこし軽く返してくるのかと思っていたが、違った。


「うん。——あ、詩遠。」

「どした?」


 俺は顔だけ振り返り、聞き返す。


「蘭ちゃんと、ちゃんと仲良くやるんだよ?」


 こんな意味深な言葉をこのタイミングで言うのは、とあることの暗示であることは当時の俺も分かっていただろう。

 ............でも、俺はそんな現実を、認めたくなんてなかった。

 自分からは何もしないくせに、いざそれが無くなる直前になると必死に抵抗して、目を背ける。

 ......折り紙付きのクソ野郎だと、今となっては心からそう思う。


「.........何言ってんだよ。悠姫とだってまだ——」


 ここで、俺は言葉を詰まらしてしまう。気恥ずかしさがこみあげてきたからだろう。本当に、悪い癖だ。

 そんな俺に、悠姫は小首を傾げる。


「......まだ、なに?」


 その純粋無垢な瞳に、俺はまた、言おうとしていた言葉を飲み込んでしまう。


「......いや、なんでもない。じゃあ、また明日も来るから」

「うん。ありがとう。じゃあね、詩遠」


 手を振ってきたので、俺も控えめに振り返して、足早にその場を去った。

 明日、また早起きして来よう。高くそびえる病院を見て、そう思った。これが、俺の初めて早起きをすると決意した瞬間でもあった。

 ............今思うと、この時の脳は正常に動作していた時間の方が少なかったかのようにも思える。


 

 翌日、アラームは七時にセットした。

 俺は朝に弱いわけではないので、アラームをセットすればちゃんと時間通りに起きることができる。

 しかし、その日も俺を起こしたのはアラームではなく、一本の電話だった。

 意識がしっかりしていない状態で、俺は電話に出る。


『あ、詩遠君ね?』

「.........はい。」


 その相手は、悠姫の母親だった。

 悠姫とは幼馴染だが、実は母親とは両手で数えることができる程度しか顔を合わせたことがない。俺の母さんとは仲が良かったらしいけど。

 そして、そんなほとんど面識のない悠姫母から電話がかかってきたのだ。冴えていない頭でも、何があったかは聞く前から薄々理解できた。

 妙に落ち着いた声音で、悠姫母は俺が知りたくなかった事実を伝えてくる。


『昨日の晩、悠姫の心臓が止まったの』

「............そう、ですか。」


 多少の心構えをしていたとはいえ、それ以上の言葉は出てこなかった。

 不思議と、そのときは悲しくなることはなかった。あまりにも急なことでリアリティがなかったからだろうか。はたまた、やはりまだ頭が動いていなかったのだろうか。

 けれど、電話が切れる最後あたりに聞こえた、『今まで悠姫と仲良くしてくれてありがとうね』という台詞には、さすがに涙が滲んだ。

 その日、悠姫の死に顔を見に行った。やはりいつもどおりの寝顔となんら変わりなかった。今にも目を醒ますんじゃないかと、何度か思った。

 後日葬式も慎ましながらも行われ、トリカブト研のメンバーも参加した。

 別れの挨拶くらいは言ったはずだが、もうそのとき、何を言ったかは覚えていない。葬式に参加することによって、急にリアリティが増したからだろうか。とてつもないほどの涙を流したことは覚えている。

 そしてその時も、何時間もかけて紫水に励まされた。

 紫水も、相当辛かったはずなのに。

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