第一章 ⑦

「悠姫......か。」


 俺はまだ乾ききっていない湿った髪の毛を使い慣れた枕に乗せながら、ベッドに寝転がって、俺の幼馴染についていろいろと思い耽る。

 物音ひとつ立っていない俺の部屋でこのことを思い出すと、同じようにとても静かなあの日の病室が頭によぎる。

 最期を看取ることができなかったのは仕方がないのかもしれない。

 けど、常日頃から溜め込んでいた礼や謝罪、そして抱え込んだ恋情を最期まで伝えられなかったのが、悔やんでも悔やみきれない。我ながら自分の性格に苛立ってくる。

 目を閉じると、悠姫のいつも絶やすことのなかった笑顔が映る。

 すると、自然と目頭が熱くなってきた。


「......ダメだろ、こんなんじゃ......」


 その瞬間、俺はバッと勢いよく起き上がって、その涙を誤魔化す。

 そうだ。勉強だ。テストも近いことだし、勉強をしないと。

 俺は気を紛らわすため、勉強机のライトを発光させ、椅子に腰掛ける。

 そして、乱雑にノートを開けペンを執り、機械的に文字を書きなぐった。



『蘭ちゃんと、ちゃんと仲良くやるんだよ?』

『......何言ってんだよ。悠姫とだってまだ——』

『まだ、なに?』

『......いや、なんでも、ない。じゃあ、また明日も来るから。』

『うん。ありがとう。じゃあね、詩遠』

 

 明日なんて、来なかった。

 その日のうちに、すべてが終わってしまった。

 でもあいつは、いつでも笑顔だった。

 自分の残り時間が少なくなっていると知っていても尚、悲しい顔なんてしないで、あくまでもいつもどおりに接してくれた。

 だから俺は、そんなぬるい幻想に甘えてしまって、現実から目を背けてしまった。

 もう、そんなに時間はない。そんなことは感覚的とは言えとわかっていたはずなのに。

 俺は......! 俺は......!



「......ハッ!」


 俺は一瞬にして目を覚ます。久しぶりに悠姫の夢を見た。やはり昨日あそこへ行ったせいだろうか。

 と、そんなことを考えながら髪を掻いていると、急に目を覚ましたからか知らないが、俺のベッドの横に立っていた人がびっくりして一、二歩後ろへと後ずさってしまっていた。

 .........? なぜこんなところに人が立っている?

 普段ならあり得ない状況に疑問を覚え、俺はおもむろに横を向いた。


「......紫水?」


 俺は寝ぼけ眼を擦り、視界を確保しながら、そう問うた。

 朝日に照らされて鮮やかに輝いている銀髪。

 小さな顔にはにつかないくらいに大きく、若干垂れ気味な目。

 そして本人も気にしていたほどに小さくて、可愛らしい背丈。

 そう。その人物は『トリカブト研究会』の副部長にして、俺にとっての唯一の後輩、紫水蘭に他ならなかった。

 

 ......だが、なぜ彼女がここに?

 悠姫ならともかく、紫水は朝呼びに来るほどの間柄じゃないし、そもそもコイツは俺の家を知っていない......はず。それに家だって二駅分くらいはある。

 そんな風にいくつかの疑問に首をひねって考えていると、紫水の小さな口が動く。

 

 そしてその言動は、俺をさらに混乱の渦へと誘うのだった。


「どうかした? 詩遠」

「......ぇ? 詩遠?」


 俺は、ただでさえあまり動いていなかった脳と体が、完全にフリーズした。

 紫水は今、はっきりと『詩遠』と呼んだ。

 詩遠先輩とすら呼んでくれなかった、あの紫水が。しかもタメ語で。

 しかし、落ち着いて考えると、そういったところはきっちりとする紫水が、急にこんなことをするはずがないだろう。

 ......と、すると? どういうことなんだ?


「ほら、早く用意しないと遅刻しちゃうよ?」

「え? あ、ああ。」


 紫水の視線を追って壁にかかっているアナログ時計を見ると、時刻は既に七時半を回っていた。今から急いで支度をしてぎりぎりいつも乗っている電車に間に合うくらいだ。

 色々分からないことだらけだけど、成績が芳しくない俺は、遅刻はできるだけしたくない。

 そう思った俺は、一旦紫水を部屋の外へと追い出して、箪笥の中にかけてある制服を手に取った




「あれ? 詩遠って結構背高いんだね。」


 一応いつもと同じくらいの時間に家を出ることができた俺と紫水。

 そして、駅へと向かう道の途中で紫水は俺を見上げながら、そんなことを言った。

 いやでもさ。


「紫水、お前昨日も部活で会っただろ」


 そう。俺たちは昨日......っていうか毎日部活で会っているのだ。そんな一日で身長が伸びるはずもない。


「ん? 蘭ちゃん? 蘭ちゃんがどうかしたの?」

「............は?」


 今までの言動にも十分驚いたが、それをも上回る予想外の言葉に、俺は思わず周囲の迷惑を考えないままに歩道の真ん中で立ち尽くす。

 それが意外だったのか、紫水はそれより少し歩いたところで同じく立ち止まり、こっちを向いて首をかしげている。

 朝の言動と言い、今のとぼけといい、何だか紫水がおかしい。

 そう。それはまるで、誰かに乗り移られたかのように。


 そして、俺と紫水をそれぞれ『詩遠』、『蘭ちゃん』と呼んでいる人物とういのは、俺は一人しか知らない。




 その名を——


           ——金村悠姫という。




             第一章 終

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