第一章 ③
換気のために開けてあるであろう窓から、俺は絶妙に冷たい風に吹き曝される。さすがは二月といったところだろうか。このままずっと打たれ続けていると、身体の芯から冷えてしまいかねない。そう思った俺は、紫水に一言断りを入れてから、窓を静かに閉めた。
するとさっきまで吹いていた冷風はぴたと止む。それはそれで、少しだけ暑く感じてしまうが、生徒のみでは空調をいじることができないので仕方がない。
そして、俺はおもむろにカバンに手を伸ばし、ファスナーを開ける。
その中から数学の参考書と、ノートとペンケースを一気に右手でつかみ、机の上まで運び、ノートと参考書をパラパラとめくった。
もう二週間もすると二月も後半を迎え、学年末のテストがある。
だから、いつもは紫水と同じように本を読んでいたのだが、一昨日あたりからここでも勉強をするようになった。逆に、紫水は勉強しなくてもいいのだろうかと少々心配になるのだが......。
ちらりと目線を紫水の方へと向けると、紫水は依然として熱心に本を読んでいた。
......まあ、他人の心配をする前に、まず自分の心配をしなきゃいけないからな。
しかし、参考書とノートを広げたはいいものの、全くやる気がわいてこない。というより、将来の仕事はおろか、受験ですら使うつもりのない科目を、どうして勉強しないといけないのだろうか。
つくづくそう思うが考えるだけ無駄だろうと思い、俺は渋々参考書の例題をノートに書き写し始めた。......ええと、なになに? 『次の漸化式で定義される数列{a_n}を求めよ』? はあ、ダメだ。徐々に頭が痛くなってくるぞ。
しかし、点数配分の大きい学年末のテストで赤点をとっては笑いごとでは済まないため、俺は形だけでもやる気を出すために、シャーペンを持つ手に力を入れた。
「ぁぁぁぁ.........」
それから約三十分。俺は、背もたれに背中を預け、完全に力尽きていた。いや、むしろ、三十分もよく頑張ったと褒めてほしいぐらいだ。
とは言え、解けた問題と言えば例題二、三問。それもその中で完答できたのは一問のみ。もう今回の数学は欠点覚悟で突っ込むしかないかなぁ.........
俺は少し勢いをつけて背筋を伸ばし、そのままの勢いで、教室の机よりも少し背丈が小さい机の天板に突っ伏す。
本当は他の教科も勉強しようかと思っていたが、完全に数学のせいでやる気がそがれた。
......我ながら見苦しい言い訳だとは思うが、正直なところやる気がないときに無理に勉強してもほとんど何も頭に入ってこないし、時間を無駄にするよかマシだと思う。ちなみに、そのやる気がいつ湧くのかは不明だ。
「はぁ......」
約一分後。俺はそんな大きなため息とともに、上半身を起き上がらせる。
そして、座ったまま伸びをした。
そんでもって、そのままの姿勢で後ろを振り向く。
勉強をしないとなると完全に手持無沙汰になるので、俺は紫水と会話をしようと考えたのだ。
しかし。
「お、珍しいな」
本当に珍しいことに、紫水はさっきの俺と同じように机に顔を伏せて、すぅすぅと可愛らしい寝息を立てていた。
紫水は部活では基本的にずっと本を読んでいる。それを放棄して寝るなんて、少なくとも俺は今まで一度も見たことがなかった。
ふと、紫水の横に置いてあった本が目に入る。
薄茶色の、有名な書店にて本を買ったときについてくるブックカバーが、しわ一つなく本を包み込んでいる。
そしてその上には、淡い桃色のしおりが置かれていた。......ということは。
「読み終わって暇だったって感じかな」
それは推測でしかないが、可能性としてはそれくらいしか考えられないだろう。
まったく、暇だったら別に勝手に帰っててもいいのに。
仮にそれは気が引けるというのなら、一言さえかけてもらえれば俺も止めはしないし。
......まあ、話し相手がいる方が俺としてはやりやすくていいんだけど。
俺は、完全に手持無沙汰となり、とりあえずホワイトボードの真上にかかっている時計を見て、今の時刻を確認する。......と、もうこんな時間か。
その時計曰く、現在時刻はそろそろ五時半を回ろうとしていた。
うちの高校は、顧問がいない部活の門限は原則五時半となっている。
まあ、特に活動をしていないウチなんかでは、その門限を一度も破ったことはない。......いや、嘘をついた。一度、紫水が風邪をひいて休んだ際、俺が部室で熟睡したために五時半をゆうに回ったことがあった。
まあ、そんなことは今はいい。
とりあえず、紫水を起こして早いこと教室を出ないといけない。ぐっすりと眠っている紫水を起こすのは若干気が引けるが......まあ、別に悪いことをしているわけでも
ないからいいか、と自分に言い聞かせる。
「おーい、紫水。そろそろ門限だぞ」
そう腹に決めた俺は、教室中に響き渡るくらいに大きな声で紫水を起こそうとする。
「.........」
しかし、依然として紫水は寝息を立てて、気持ちよさそうに眠っていた。
.........仕方がない。次の手段に移るか。
「おーい、紫水ー」
今度は、右肩を軽めにゆさゆさと揺らす。俺はこれ以上の人を起こす手段を知らないので、実質最終手段である。
すると。
「.........? えーっと.........先輩?」
「ああ、そうだ」
寝ぼけ眼を小さな手でこすりながら、なんとも力のない声で紫水は問う。
そして、俺がその質問に首を縦に振ると、紫水はきょろきょろと辺りを見渡した。
左、右、左。そして正面。
「.........はっ」
パチリ。そんなオノマトペが似合いそうなほどに、はっきりと目を見開く。
どうやらようやく今自分がどこで何をしているかを理解したようだ。
「やっと起きたか? ......んで起きた早々悪いんだが、そろそろ門限だぞ」
「えっ? 本当ですか!? ごめんなさい。今すぐ帰る用意をします!」
紫水はそう言うと、一年弱経った今でも新品同様にぱりっとして、鮮やかな紺色のままのカバンを机の上に乗せ、ファスナーを開けて中身をガサガサと漁り始めた。
紫水がここまで慌てるなんて、これまた珍しい。
俺は紫水にばれないように小さく笑いながら、教卓の上に置いてあった鍵をとる。
そして、教室内で荷物を整理している紫水を横目に、一足先にドアをくぐる。
廊下とはいえ、外の空気は教室内に比べたらとても冷たかった。鍵を持つ手が微かに震えてしまう。
そんな手を温めようと息を吐きかけるも、その息は霧のように白く四散して、気分的に余計寒さを感じさせられる。なので、俺は諦めて右手と左手を擦り合わせるという原始的な方法で暖を取ることにした。
そうこうしていると、紫水が足早に教室から出てくる。
彼女が俺の隣に立ったことを確認すると、カラカラと音を立てながら俺はドアを閉める。
そして鍵を穴に差し込み、右方向に回す。そんでもって引手に手をかけて、ドアを二、三回開けようとする。
だが、当たり前だけど、鍵の部分で引っかかって開きはしない。
それを確認すると、俺はおもむろに鍵を引き抜いて、ポケットの中に収めた。
そして、体を九十度回し、蛍光灯の光のみで照らされる廊下を歩き始める。
それに続くように、紫水も俺の隣を歩き出す。
俺たち以外に人がいなかった廊下では、異なる二つの乾いた靴音だけが鳴り響いた。
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