トゥー・ネバーランド
辰巳キリエ
第1話
「信じていなくたって、空は飛べるようになったよな」
彼は羽田空港の窓から滑走路を眺めて、少し悲しそうに呟いた。
東京の空。一面を少し水で薄めたような夜色の絵具で塗られている。そこを行き交うのは、地上から眺めると思わず星と見紛ってしまいそうな灯を携えた飛行機たち。
ネバーランドは、はるかその先にあった。
その昔、世界のことなど何も知らない子どもたちと一緒に冒険をして、少しずつ、少しずつ色をつぎたしていったネバーランド。それは、大人になったらもう訪れることはできない世界。どんな幻想的な夜に見る夢なんかよりもずっと遠くにあった。
「また眠れないの?」
とひとりの少女が彼の隣に舞い降りる。どうやら妖精の彼女は、今日は人間のふりをすることにしたらしい。翼と呼ぶには少し物足りない羽。でも彼女が空を飛ぶにはそれでも十分すぎるくらいだった。彼女の纏う蝶々の鱗粉のような煌めきは、空を飛ぶためのおまじない。現実という呪縛から、子どもたちを解き放つためのおまじない。でも、それももう効果はほとんどないだろう。僕たちの魔法は、もう終わった。近い将来魔法なんてもの自体が消えてしまうかもしれない。
「まあね」
と隣も見ずに彼は言って、まるで自分自身を嘲るかのように鼻で笑う。彼はどこに行くわけでもないのに歩き出した。そこにとどまっているとまるで自分が何かに悩まされているみたいで腹が立った。
札幌、大阪、福岡、ソウル、北京、ドバイ、ニューヨーク、ロサンゼルス、ロンドン、パリ、ベルリン。横目に映る電光掲示板たち。自分もいっそどこかへ飛び立ってみようかと思う。でも世界のどこへ行ったところでこの憂鬱から逃げることなんてできないことを知っているから、そんなことはしない。大体飛行機なんて乗らなくたって空を飛べるのに、何が悲しくてそんなものに乗らなくちゃいけないんだ。
結局歩いていても止まっていても考え事をしている自分がバカらしくて余計にうんざりする。だんだんと夜も深くなり、少しずつ人の数もまばらになると、自分の後ろにぴったり合わせて鳴らされる彼女の足音にだんだんと腹が立ってきた。
「おい、しつこいぞ。散歩の邪魔をす……うぐ……」
急に立ち止まって振り返り彼女に文句を言おうとして、腹部に思わぬ頭突きの衝撃を受ける。彼は思わずよろけ、数歩後退りをする。前方を確認すると、彼との思わぬ衝突で尻餅をついた、まだ幼稚園に通っているか否かぐらいの男の子が目をまん丸にして固まっていた。
お互い見つめあって数秒。
男の子のつぶらな瞳に、少しずつ涙が溜まる。
「ふわーーーーーーーーん」
今度はこの予期せぬ事態に彼の方が固まる番だった。
「え、あ、え……」
大変お待たせいたしました……という場違いなアナウンス。けたたましい泣き声のせいでその内容はよく聞き取れない。
「あ〜あ、ちっちゃい子泣かせちゃった〜」
と呆気にとられる彼を笑う妖精の声。
「ネバーランドが聞いて呆れるわ」
「うるさい。大体ネバーランドが聞くってなんだよ、意味わかんねぇよ」
「信じれば空も飛べるんだからお願いしたらネバーランドも人間のふりくらいしてくれるんじゃな〜い?」
まさに人間の女の子のふりをしている真っ最中の妖精が彼をからかう。
「絶対そんなのお願いしない」「ふわああああああ」「……ご案内いたします」「私がお願いしとこうかな」「しなくていい」「ああああああああ」「……パスポートを……」「てかあんたなんとかしなさいよ」「なんとかって」「ふあああああああん」「……みなさまのご理解とご協力を……」
頭の中でもはや言葉ではなくなったたくさんの音が氾濫する。「なあ、ごめんな、僕が悪かったよ」とか、「痛いの痛いの飛んでいけ」とか、「そうだ、お菓子でも食べる?」とかありとあらゆる手を尽くすが男の子は泣き止まない。大体両親はどこにいるというのだ。かわいい我が子が泣いていたら駆けつけるのが親の使命だろ、と半ば八つ当たりをする。こんな腐った世の中だから……とまたネガティブな方向へ思考の舵を切りそうになって、頭を振ってなんとかそれを食い止める。
あたりを見回して男の子の気を引けそうなものがないかを探す。ない。というかどこだよ、ここ。物思いにふけりながら歩き回っているうちにどうやら迷子になっていたらしい。どこにでもありそうな通路。真っ白な壁と、少し遠くに緑色の非常口を示すランプ。周囲には泣き叫ぶ少年と人間のふりをした妖精と今にも頭がパンクしそうな自分しかいない。いや、きっとこれだけの要素でもうこの空間が手一杯だから他の何物も存在しえないのではないか、とさえ思えてきた。今すぐにでもこの状況を投げ出して非常口へと逃げ出したい気分だった。でも、ここで逃げ出したらそれこそネバーランドが聞いて呆れる、と自分に言い聞かせてから、彼は新たな作戦を思いついた。
「ねえ、君、今から楽しい物語を聞かせてあげるよ!」
頼む、どうにかこの言葉に気を引かれてくれ、と祈るように彼は男の子に語りかけた。すると男の子は、彼の願いが届いたのだろうか、涙はまだ止まらないままだが声をあげることをやめ、彼の方へと視線をやった。その涙で煌めいた瞳は、彼は昔たくさんの少年少女たちと飛び回った夜空に輝く星を彷彿とさせた。
「君、名前は?」
「……ソウタ」
まだ涙の滲んでいる声で、少年はそう答えた。
「ソウタ、素敵な名前だね」
それは社交辞令でもなんでもなくて、彼は本当にそう思った。昔同じ名前の少年と時を過ごしたこともあったなと思い返す。
「それじゃあ始めるよ」
男の子の涙は止まり、彼の顔を見つめながらコクリと頷く。
「むかしむかしあるところに、ソウタというきれいな目をしたひとりの男の子がいました……」
そんなふうに語りはじめると、そばにいた妖精は少し意外そうな顔をして、それから何故だかわからないけれどくすりと嬉しそうに笑った。
それから彼はたくさんの物語を語った。自分から離れてしまった影を探した話。とある部族の長の娘を助け出した話。妖精と大喧嘩をした話。海賊と戦った話。戦争の苦しみの中でもなんとか人々を楽しませようと試行錯誤した話。友達なんていらないと言う女の子の初めての友達になれた話。突然の大嵐に巻き込まれてずっと一緒にいた相棒とはぐれてしまった話。ロンドンの夜景があまりにも綺麗で見惚れていたら飛行機にぶつかりそうになってしまった話。羽田空港で迷子になって仲間と協力してなんとか両親の元へ帰れた話。実際に彼自身が体験した話も、そうでない話も。それは間違いなく虚構であったけれど、それでいて絶対に嘘ではないのだと彼は確信していた。この物語の主人公のソウタは、どこへだって飛んでいくことがでる。誰もその翼を奪うことはできない。
彼は、ソウタのそのつぶらな瞳が眠りの魔法に薄らいでいくまで、ずっとずっと語り続けた。
人々の声と雑踏で塗られた空気が鼓膜の方へ流れ込んできて、彼はそのまぶたを持ち上げる。肩では元の姿に戻った妖精が、彼の目覚めに起こされてまだ眠たそうな目であたりを見渡す。朝の煌めきで塗られた世界は、慌しそうに時計の針を進める。
「あれ、ソウタは……」
彼はソウタをずっと見ていたはずだったのにはからずしも眠りに落ちてしまったようで慌てる。
「何言ってんの。ここでご両親が来るまで待ってたじゃない」
寝ぼけてたんじゃないの、と彼女に笑われる。
そうだっけ、と思いながら背もたれから体を起こそうとして、左手に小さな紙切れを握っていることに気がついた。
「おにいちゃん ありがとう ぼくもおそらとんでくるね」
と拙い文字で書かれたメモが、しわくちゃになって手の中に収まっていた。その下には、決してうまいとは言えないけれど、月夜と空を飛ぶ三人と飛行機の絵。人間のふりをしていたはずの彼女の背中には、なぜだか小さな羽が描かれていた。
彼は隣で浮遊する妖精と顔を見合わせて思わず笑う。
たくさんの人が空を飛べる時代も悪くないのかもしれない。
起き抜けのまっさらな風に乗って、ふたりは空へ舞い上がった。
トゥー・ネバーランド 辰巳キリエ @kirie_usagi
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