第3話 縁は続く
「とりっくおあとりーとう」
たどたどしい発音で繰り出された言葉に驚いて振り返ると薄っぺらな男児の着物を着た子どもが立っていた。
ぴゅうっと冷たい風が通り過ぎ、着物の裾を捲り上げて戦隊ものの絆創膏を貼った膝小僧が見えた――と思った途端に「くしゅん」と愛らしいくしゃみが子どもから聞こえる。
「坊主、迷子か?」
お通しに出すきんぴらに使うために牛蒡をささがきしていた手を洗い、前掛けで水気を拭ってから近付くと子どもは鼻水を啜りながら「わかんない」と首を振った。
それが迷子であるか否かなのか、聞かれたことを理解できなかったという意味なのか。
測りかねて乏しい頭髪の残る頭頂部を掌で撫でる。
「……仮装か」
「うん!たぬさんのかそお」
にこにこと笑う子どもの頭には丸い耳が二つ、そして裾から丸々とした尻尾がぶらさがっている。
たぬさんとは恐らく狸のことなのだろうと苦笑いしながら「それなら葉っぱを頭に乗せんとな」住処の裏から取ってきた柿についていた葉をむしり取って耳と耳の間に乗っけてやると子どもは嬉しそうに歓声を上げた。
「おじいちゃんはなんのかそお?」
「儂か……儂はそうだなぁ」
仮装などしているつもりはないが子どもの目には仮装をしているように見えるのだろうか。
まあ確かに最近では着物など年寄りでも着ていない。
長年着続けた着物はあちこち擦り切れているし、商売柄色んな汚れが付きやすいが。
「儂は仮装はしとらんが、そのうち仮装してる奴も来るかもしれん。坊主、それまでちょっと手伝ってくれんか?」
「めぐる、おてつだいできるよ!いつもしてるから」
どうやら可愛い闖入者の名前はめぐるというらしい。
寒さで頬を赤くしている子どもの鼻から流れてきたものを腰に下げていた手拭いで拭ってやると「ありあと」と微笑まれてはさすがの爺も目尻がさがるのも仕方がないだろう。
着物の袖を曲げてやってから固く絞った布巾を手に客席の方へと回る。
暖簾の向こうに細長い椅子が一脚あるだけの屋台だが、これが全てでありここが自分の大切な場所でもあった。
ここに座る客の顔が酒と料理で満たされ、どんなに憂い顔できた者も帰る時には笑顔で出て行く。
この場所を守ることが仲間を守ることにも繋がっていることに誇りを持っていた。
「ここを綺麗に拭き上げてくれ」
「りょーかーい!」
「済んだら勝手にウロウロせずに声をかけてくれよ」
「りょーかーい!」
カウンターの上に布巾を置いて少し高い椅子の上にめぐるを抱えて乗せた。
その小さな背中にかぼちゃの形をしたリュックサックが背負われているのに気づいて「どうする?それ下ろすか?」と問えば気に入っているのかぶんぶんと首を横に振るのでそのままにしておく。
「じゃあ頼むな」
「りょーかーい!」
布巾を掴んで前屈みになると頭に乗せている葉っぱが落ちるのでそれを慌てて拾い上げ律儀に元の場所へ乗せ直しては拭くために動くとまた落ちて――と繰り返しているのでしばらくは時間が稼げそうだ。
暖簾を潜って定位置へと戻りながら、顔を出してくれる客の中で子どもが見ても怯えないような奴が来たらあちらへと帰してもらおうと息を吐く。
開店が一時間後に迫っていなければ自らが連れて行っても構わなかったのだが仕方がない。
再び牛蒡を手に集中すれば慣れた作業なので直ぐに準備した分は削ぎ終わる。
次は人参の皮を剥き千切りにして、丸天を同じくらいのサイズに切り使い古しの焦げ付いたフライパンをガスコンロの上に乗せた。
ゴマ油を入れて強火で温め輪切りの唐辛子を入れようとした所で思い留まる。
様々なおでんがつゆのなかで温まっている容器越しに客席を見ると柿の葉っぱ拾いと台拭き仕事を頑張っている子どもの姿。
「止めとくか」
たまには甘い味のきんぴらも悪くないだろう。
油を温めている間に牛蒡の入ったボウルからザルにあげて水を切り、十分に温度が上がった頃合いに人参と牛蒡を一緒に入れた。
ジュワッ――。
ゴマ油の香ばしさと牛蒡の土の香りが湯気と共に立ち上る中に人参の赤い色が滲んで美しい。
菜箸で炒めながら油が回りしんなりとしてきたら丸天を入れて左手でフライパンを返しながら混ぜ合わせ砂糖、醤油、みりんを入れる。
軽く煮詰まってきたところで味を見てから火を止めた。
上からいりごまを振りかけて混ぜ、深めの皿に移したところでこちらをじっと見つめていた黒い瞳に気づく。
「いいにおい」
鼻をひくつかせて口を半開きにしているめぐるは今にも涎を零さんばかりだ。「食うか?」と小鉢に盛り付けて差し出してやると目を輝かせて手を打つ。
「おいしそお!」
「熱いからな、気を付けて食えよ?箸は……使えるか?」
「だいじょぶ。めぐるおはしじょうずだよ」
ここの常連の中にはひどく大きなものもいれば小さい者もいるのが幸いした。
子ども用の箸を出してやると両手で受け取って「いたらきます」と手を合わせてから食べ始める。
自己申告した通りめぐるの箸使いは危なげなく、きっと同じ年頃の子どもに比べたら随分と上手いはずだ。
はふはふと息を吐きながらも美味そうに食べる姿に和みながらもフライパンやボウルやザルを片付ける手は止めない。
こちらが驚くほど勢いよく食べる様子にもしかしたら腹が減っていたのかもしれないと思い至る。
ここへはもしかしたら食べ物の匂いにつられて来てしまったのかもしれない。
「悪いことしたな」
反省して握り飯を皿に乗せて出し、別皿に目の前のおでんの中から大根と軟らかく煮たスジと厚揚げを取り分けていると――。
「めぐるとまとがいい。とまとおでんほしい」
「とまと?」
家庭でおでんにトマトを具材として入れるのは珍しい。
確かにここでは注文が入れば提供はしているが。
「ママがおいしいからっていってた」
「ママ?」
「おうちでつくってもおいしくつくれないって」
「――まさか」
ここへ迷い込んできた女性の顔を思い出す。
彼女はほろ酔いで訪れて、変わった面々と隣り合っているというのに実に楽しげに笑って食べて飲んで――ああ。
こうして見るとおでんを頬張り幸せそうに笑み崩れた顔とめぐるの顔はとても似ていた。
確かあの時も今日と同じ日で。
更に次の年の同じ日に彼女の後輩である男性が来て。
「なるほど……縁か」
「なのでめぐるにとまとのおでんください」
もぞもぞと両腕を動かしてリュックを下ろすと、ヘタの部分がファスナーの把手部分なのだろう。
そこを掴んでジャッと音を立てて開ける。
中からボロボロとチョコレートやキャンディが零れるが気にせず手を突っ込んで何かを探している様子。
「どうした?」
望み通りトマトのおでんを作るべくヘタを取り尻部分に十字に切れ目を入れながら尋ねると「あった」と嬉しそうに微笑んでマシュマロとスナック菓子を盛大に地面へとぶちまけながら小さながま口を取り出して見せた。
「おかねあるの。だからください」
「いらねぇよ」
「だって」
こんな小さな子どもから金を巻き上げるほど腐っちゃいない。
片手鍋に水を入れて火にかけて苦笑いを浮かべる。
めぐるは財布を手に納得がいって無いようなので「手伝ってくれた分を現物支給してるだけだから気にするな」と返すと子どもは口の端と眉を下げて不愉快そうな顔をした。
「ああ、悪かった。難しすぎたか……駄賃替わり、で伝わるか?」
「?」
「……ならお返し、は?」
そうするとぱあっと顔を輝かせて頷いた。
「今用意してやるから、その前にそれ食っとけ」
濛々と湯気を上げるおでんの皿を手元へ引き寄せてふーふーと息を吹きかけて冷ましているのを見ながら、沸いた湯の中にトマトを入れて直ぐに取り出す。
十字の浮き上がった切れ目から皮を剥き、湯を捨てた片手鍋の中におでんのだしをお玉で掬い入れてその中にトマトをそっと座らせる。
半部より少し下くらいのつゆを弱火にかけながらお玉で掬っては上からかけていく。
手間も時間もかかるがこうすることでゆっくりと染み込み美味しくなる。
途中で手を止めて蓋をしたら後は五分ほど待つだけだ。
視線をめぐるへ戻すと必死で口を動かしているのを見れば、やはり母親であるだろう彼女の面影がチラチラと見えて皺くちゃの顔を更に皺くちゃにしてしまう。
本当になんという奇縁か。
「おじいちゃんのははいつはえかわるの?」
「は?はって歯のことか?」
どうやら欠けている前歯をめぐるは生え変わるために抜けたのかと思っているらしい。
別に固いものを食べたとか、虫歯でとかそういった理由はなにひとつないが生まれた時からこの容姿だったのでさしたる疑問も抱いたことは無かったが。
「子どもの発想ってのはおもしろいな」
「もうはえないの?めぐるたちはでてくるのに?」
「そうさなぁ。この欠けた歯は儂の一部分で、急に変化されちゃあ逆に戸惑っちまうかもしれないな――ほら、できたぞ」
木の匙を添えてトマトのおでんを出す。
赤く熟れた果実がつゆによって艶々と輝いている。
わあぁっと飛び上がって全身で喜ぶめぐるの姿にじわりとこの仕事を選んでよかったと改めて噛みしめた。
「おいちい、おいちい!はふはふ、あちあち」
「おいおい。気をつけろよ」
コップに水を注いで慌てて手渡せば真っ赤な顔をしてごくごく飲んだ。
そして少し咳き込んだ後も果敢に熱さと戦うめぐるの食に対する貪欲さに目を丸くする。
「おい、なんだこれ。マシュマロとかチョコとか」
暖簾を押して入ってきた黒い猫が足元に落ちている菓子類を拾いながら椅子に座っている子どもを見て一瞬固まる。
「おい、親父いつ子どもなんか作ったんだ」
「勘弁してくれ。笑えん。迷子だよ。今日は特別な日だからな」
「まあ明らかに混じりっ気なしの人間のガキだもんな……ああ、今日はあれか」
めぐるの隣に腰かけて大きな二足歩行の黒猫は拾った菓子をカウンターに置いて溜息を吐いた。
「どうりで騒がしいはずだ」
「しかも以前こちらに来店してくださった女性のお子らしい」
その時も丁度彼が後からやって来て、人の住む境界線まで送って行ったはずだ。
つまり黒猫とめぐるにも縁がある。
子どもは料理への集中を一旦切って見上げるほどに大きな猫だというのに怖がるどころか興奮して叫んだ。
「ねこっ!ねこ、しってる。あったかいの。にくきゅきもちいいってママが」
「あー……分かった、分かった。後で特別に触らしてやるから先に食っちまえ。その後で送ってってやるから」
「悪いがそのチョコやらキャンディやら全部めぐるのリュックに入れてやってくれないか?」
「あ?この趣味の悪いやつか?」
「しゅみわるくない!」
「あー、はいはい」
今にも膝から落ちそうになっていたリュックを引ったくり、黒猫は器用に爪と肉球を使って入れていく。
くっつくとこちらが汗をかくほど体温が高い彼はチョコを拾う時だけ爪の先に包装された部分を食い込ませる念の入れよう。
まあさすがにチョコが溶けたと子どもに泣かれるのは誰もが避けたい。
「ほらよ」
「ありあと」
「ありがとな」
「うん、ありあと」
「言えてねえぞ」
「いえてる」
「いや。間違いなく言えてない」
ぷくっと頬を膨らませながらも食べるのを止めないめぐるは出した全ての料理を平らげた。
おでんのつゆも一滴残らず飲み干して。
小さな体のどこに入ったのか不思議なくらいだ。
「ごちそうさまでした」
丁寧に食後の挨拶をした後でめぐるは「おいちかった」と真剣な顔で感想を告げた。
そして椅子の上で正座でもしたのかさっきよりも視線の位置が高い。
「どうした?」
「おじいちゃん。めぐる、おじいちゃんのおみせしたい」
「は?」
「めぐるおおきくなったら、おじいちゃんとおみせする」
「お。弟子志願か?」
面白がって茶化す黒猫をギロリと睨みつけてから、子どもの戯言ではないのだと分かる真摯な瞳に向き合いどうやって諭すべきかと悩む。
「めぐるたべるすき」
「そうみたいだな」
「めぐるおじいちゃんすき」
「ああ……ありがとうな」
「めぐるおてつだいたのしかった。おじいちゃんつくる、みるの、まほうみたいで」
感動したのだと純粋な黒い瞳がきらきらと輝いている。
魔法もなにも特別なことはなにもしていないし、特殊な材料を使っているわけでもない。
普通の人間が使うもので、人間と同じように調理しているのだから。
まあ長年やってきているぶんコツやら手順やらが身に沁みついているので、あまりの手際の良さにめぐるには魔法みたいに見えたのかもしれない。
「慣れだよ、慣れ。だからめぐるが大きくなって料理を作れるようになれば同じようにできるようになる」
「なれなかったら?めぐるにおじいちゃん、おしえてくれる?」
「そうだな――」
ああこれも縁なのだろう。
観念して頷いた。
いつかめぐるが大きくなっても変わらず料理をやりたいと思っていたら。
その時は。
「面倒見てやる」
「やくそく!」
「ああ、約束な」
突き出された小さな小指に自分の節くれだったカサカサの指を絡めた。
良く聞く歌を楽しげに歌った後で離れた指を惜しく思いながら食器を片づける。
「じゃ行くか」
「うん」
黒猫が促すと案外あっさりと頷いてリュックを背負い直しためぐるは、椅子から下りると紅葉のような掌を振って「またね」と笑った。
きっとこうして縁は続く。
人と妖怪の境界線は時々溶け合い、そしてくっきりと乖離させながらも常に隣にあるのだから。
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