08 腹ペコ悪魔

「…………う、う〜ん……ん?」


 その少女が目を開くと、彼女は自分がベンチの上に座らされていることに気付く。


「――気が付いたか?」


 すぐ隣で声がして、少女はびくっとして振り向いた。彼女が座る長椅子の横で、やっとのことで全て拾い集めたレポート用紙の束を、とんとんと膝の上で打って整えている憑魔の姿があった。


 大学近くの閑静な住宅街、その中を縫うように流れる用水路に沿って設けられた遊歩道の一角。そこに置かれているベンチの上に、二人は並んで座っていた。歩道となった石畳の上で戯れていた雀の群れが、ベンチに座る妙な取り合わせの二人を見て、不思議そうに首を傾げていた。


「……あの、さっきは悪かったな。派手に突き飛ばしちまって、痛かったろ?」


 そう問い掛ける憑魔に対して、金髪の少女は丸い目を見開いて彼をまじまじと見つめている。そんな彼女の目を見て憑魔は気付いたのだが、彼女の無垢な瞳は、燃え盛る炎のように真っ赤だった。まるで柘榴石を眼にはめ込んだように見えるその瞳は、とてもカラコンのような安っぽい作り物には見えない。


「……き、貴様……人間、なのか?」


 そして、彼女の放った最初の言葉も、なかなかに奇妙なものだった。少なくとも憑魔にとって、二人称に「貴様」を使い、開口一番に自分が人間かどうかを尋ねてくる幼い女の子と出会ったのは、これが初めてだった。


(変わった子だな、こいつ……)


「えーと……あぁ、そうだよ。俺はお前みたいな幼い女の子を平気で突き飛ばしちまうような、悪い人間だよ」


 「だから、お前も俺みたいな悪い人間にはなるんじゃねぇぞ〜」と、憑魔はそんな柄でもない教訓地味た言葉を続けようとしたのだが、その前に少女の方が先に吠えた。


「き、貴様! 自分の魂が汚れ過ぎていて、死後の魔界裁判では有罪判定されることを予め知っておるというのか⁉︎」


「―――は?」


 憑魔は一瞬、自分の耳を疑った。


「そんな……まさか、まだ人間の餓鬼でもあろう此奴が、死後に獄界送りにされることまで知っておるとは……魔界から獄界投入者リストの情報が漏れてしまったのか? それとも――」


 ぽかんと口を開けて呆然としている憑魔の前で、相変わらずぶつぶつと独り言を続ける女の子。彼女が何を言っているのか、憑魔にはさっぱりだったが、どうやら自分のことを良く言われてはいないらしい、ということだけは分かった。


「あ、あの〜……おーい……」


 憑魔は一人ぶつぶつ喋り続けている少女に向かって手を振る。


 すると次の瞬間、


 ――ぐぎゅるるるるぅううぅぅぅ………


 それはまるで地鳴りのような響きをもって、少女の小さな腹から鳴り響いた。


「………おい、今のってもしかしてーー」


 「腹鳴りか?」と彼が問う前に、その少女はまるで萎びた昆布のようにぐでんと横に倒れ込み、憑魔の膝にその金髪頭を落とした。


「……お腹、減ったぁ………」


 少女は力無い言葉でそう呟いた。どうやら彼女は今、相当に空腹であるらしい。


「うに〜〜……お腹が減って、死にそうだよぉ………」


 憑魔は少女を膝の上に抱えたまま溜め息を吐き、頭を掻きむしった。


「……はぁ、お前、そんなに腹減らしてここらを彷徨いてたのか? 野良猫じゃあるまいし……はぁ、こりゃもうマジで無理だわ。諦めるしかないな」


 憑魔は腕時計を見ながらそう独り言を呟いたが、その言葉を聞いていた少女が、ふと目を開けて、赤い瞳で憑魔を見上げる。


「……貴様、何かを諦めようとしておるのか?」


 そう彼女に問われて、憑魔は萎びた表情で答えた。


「いや、今日が卒論の提出日でね。あと十分以内に出せないと留年確定になっちまうんだが、今更もう間に合わないさ」


「ソツロン? リューネン? 貴様、そのソツロンとやらを出さねば、リューネンになってしまうのか?」


「そうだよ。ほらあそこ、見えるか? あの遠くに見える古風な建物が、俺の通ってる大学で、あと十分の間にあそこに行ってこの卒論を提出しないと、俺は卒業できないの。……はぁ、成績の方もヤバかったけど、どうにか持ち堪えて、今年で卒業できると思ったんだけどなぁ……」


 少女はむくりと起き上がり、更に質問を重ねる。


「そのリューネンというのは、奴隷などの身分のことか? その身分の者は、飲まず食わずでずっと働かねばならん、とかなのか?」


「はぁ? 奴隷? そんなんじゃねぇけど……でもまぁ、食う暇惜しんでバイトして、得た金みんな学費として吸い取られてしまうのを考えりゃ、確かに奴隷みたいな身分と言えるのかもな」


 憑魔がそう答えると、その少女は何か思い付いたのか、にやりと笑みを浮かべて彼の耳元で囁いた。


「……なぁ、貴様、そのリューネンとやらになりたくないのだろう? 要はあそこの建物までそのソツロンとやらを持って行ければ良いのだな?」


「まぁそうだけど……でもお前に言ったところでどうしようもないだろ?」


 するとその少女は「貴様は何を言っておるのか!」と声を上げて立ち上がり、意気消沈している憑魔の前で、その平らな胸を張り、まるで戦に向かう武士の如く名乗りを上げた。


「我の名はウニカ・メテオラ! あの魔界最強の魔王イヴリス・メテオラの娘であるぞ! この我にかかれば、できないことなど何一つとしてありはしないのだっ!」


 そう言ってその少女はカッカッカと小さな肩を上下させて笑っていた。


「………………」


(――あぁ、成る程、彼女はそういう遊びが好きなのか)


 憑魔は黙りこくったまま頭を抱えた。それにしても、健気な女の子がやるごっこ遊びにしては、設定がやけに厨二臭い。見た目は少女だが、彼女の精神年齢はもう少し上を行っている、ということなのだろうか?


「……あのな、悪いが今はごっこ遊びに付き合ってる暇は無いんだ。また今度な」


「なっ⁉︎ こっ、これは断じてごっこ遊びなどではないっ! 我は本当に魔王イヴリスの――」


 そこまで言って、彼女は再びその場にへなへなと崩折れてしまう。まるで地響きのような腹鳴りが、彼女のお腹から聞こえた。


「ほら、腹減ってるのに無理するからだよ」


 憑魔は呆れたようにそう言って、床にべったりと倒れ伏した少女を起こそうとする。


 すると少女は、薄く開いた口元から、囁くように小さく言葉を漏らした。


「…………なぁ、そこの人間よ……リューネンとやらに、なりたくないのだろう? ……あの建物まで、行きたいのだろう?」


 彼女の声は、まるで餓えが募るあまり昇天しそうな程に弱々しく、さっきまでの覇気もすっかり失われていた。たかが空腹だけのことで大袈裟だと憑魔は思ったが、彼女は本当に死ぬ程腹を空かせているらしい。


「……そりゃ、留年なんかなりたくないが、まずはお前に何か食わせてやる方が先だ。腹減ってるんだろ?」


 そう問い返してみるが、少女の反応は薄く、ぐったりとその体重を支えている憑魔の腕にもたせかけてくる。


「……あそこまで、行きたいのなら……我を食わせてくれると言うなら………け、契約……して、ほしい」


「はぁ? 契約って何のことだよ?」


 そう問い返す憑魔に対して、少女は答えた。


「………腕を、出せ」


「腕? 腕なんか見せてどうすんだよ?」


「いいから、腕を出せ」


 少女にそう命じられ、憑魔は訳が分からぬままに、自分の着ていた服の左腕の袖を上げ、彼女の顔の前へ持ってゆく。


「ほら、これでいいか?」


 自分の言うことに素直に従った憑魔の姿を、その少女は、まるで憐れむような目で見ていた。


「………すまぬっ!」


「は?―――」


 次の瞬間、少女は彼の突き出した腕に思い切りかぶり付いていた。鋭い二本の犬歯が、肌の奥深くにまで食い込んでゆく。


 閑静な住宅街に、一人の青年の悲痛な叫びが轟いた。

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