先輩と、ありふれた放課後。

将平(或いは、夢羽)

第1話 始まりの放課後。

 放課後。

 俺はいつも、その教室へ足を運ぶ。


「此処ではない何処かに、行きたいと思ったことはありませんか?」


 入るなり俺の突拍子もない質問に、なに急に?と笑いながらも彼は「そうだね。あるよ」と肯定した。

 大きな窓から射し込む光は、まるでここが教会か異世界であるかのような雰囲気を醸し出す。俺と彼以外、誰も居ない教室。静寂な空気。舞う埃さえ光って幻想的だ。ともすれば彼は、何か神聖な精霊のようだった。…否、成仏しそびれた幽霊というのも、なかなかに面白いかも知れない。


「どうせ俺が居なくても、世界は回る」

「あれ?そういう話だった?」


 彼ー先輩は、きょとんとしてから、笑った。

 全開の窓達が風を誘ってカーテンを揺らす。それに同調するように先輩の髪も揺らした。机の上に置かれた読みかけの本のページもパラパラと捲れる。それさえも幻想的で、息を飲む。

 先輩はいつも放課後の教室で一人、本を読んでいた。友達居ないのか?と思ったけど、体育の授業中に何人かの同級生と談笑する姿を見たことがあるからそう言うわけではないらしい。


「…進化論ですか?ダーウィンの」

「んーん。それはもう読み終わったから、次はニーチェ」

「ニーチェ…」


 先輩はいつも小難しそうな本ばかり好んで読んだ。ニーチェってなんだっけ。多分、人の名前だ。誰だ?何した人?知識不足で、言葉を続けることが出来ない。代わりに歩を進めて距離を詰めた。


「木野(きの)は?何か読んでるの?」

「本なんて教科書くらいですよ」


 気安く嘘を付いた。俺はいつものように先輩の前の席の椅子を引き、先輩と向かい合うようにして座った。


「木野って暇なの?」

「そっくりそのままお返ししますよ」


 先輩の、ふふ、と笑う顔が好きだ。彼の吐く息に合わせて鼓動する空気が、俺の鼓膜も震わせているのだと言うことに、震える。


「僕は人を待ってるんだけど」

「知ってますよ。付き合ってあげてるんです。俺は」

「頼んでないけど?」

「寂しそうにしてたんで」


 そうかな?に「そうです」と返したが、実際、先輩は全然寂しそうにしていなかった。一人、流れる時間を愛せる人なのだと思う。静寂が似合う。なんかそんなところが気高く映る。孤高、そんな感じ。それでもクラスメイトと居る時はあどけなく笑う。取っつきにくさなんてまるで感じさせない。そんなギャップが好きだ。

 

「………」

「………」


 そんなやりとりの後、俺は徐ろにポケットから取り出したスマホを弄り始めた。そんな俺に、先輩も視線を落として本の続きを読み始める。時折、優しい風が入ってきて俺と先輩の髪を揺らし肌を撫でる。それが心地好い。

 俺はこの放課後の為に生きているようなものだ。この時間が好きだった。

 先輩のことが、好きだ。





 出会いがちょっと印象的で。

 入学してわりとすぐに俺は三年生の先輩方に呼び出された。呼び出し、と言っても、甘い方ではない。


「お前が木野か」


 俺はそんなお決まりのセリフについ笑ってしまった。薄暗い体育館の裏に呼び出されたこともそう。マニュアル通りで、ウケる。ざわざわと、木々の葉達がこの不穏な空気に揺れたのがまた可笑しかった。全てが演出っぽくて嘘臭い。


「何笑ってるんだよッ!」


 全然見覚えの無い三人の先輩方。どうも、彼女を寝取っただとかなんだとか。全く覚えの無い言い掛かりを付けられた。笑ってしまったこともあって、相手は真偽など既にどうでも良さそうで、ひと殴り…どころかボッコボコにしなければ気が済まない、と言った感じだ。俺は優等生であったけど、ケンカは別に、初めてではない。はーやれやれ、と溜め息を吐く。

 

「そんなん、別れる為の口実っしょ。センパイ、しつこかったんじゃないんですか?別れ話に泣きついてたりして」

「はぁ?てっめぇ!調子に乗るのも大概にしとけよッ…!」


 敢えて火に油を注ぐ。

 相手が激情に任せて振りかぶった拳を左の頬で受けた。衝撃を和らげる為に少しいなしたが、それでもやはり殴られているので痛いものは痛い。口の中を切ってしまったらしい。熱が籠った口の中は、じんじんと鉄の味がする。もう少し弱そうなものを頂戴したら良かった。


(まぁ、はい。じゃあ、正当防衛と言うことで…)


 さて、反撃開始だと顔を歪めて笑ったところで、「はい、ストップ!」とかかる声があった。


「先輩方、ケンカですか?」


 突然現れたその人影に目を丸めた。両腕を横に伸ばし、俺をかばうようにして前に立つ。

 ケンカの最中に割り込んで来るには随分と華奢な生徒だった。背中が小さい。


「バトミントン部キャプテンの大森先輩に、同じくバト部の南先輩、柔道部の鹿嶋先輩ですよね?」

「……誰だお前」


 俺を呼び出した三人は、ネームプレートをしていない。

 的確に名前と所属部を言い当てながら、どうやらこの人とセンパイ方は顔見知りと言うことでもないらしい。俺は無言でこの四人のやり取りを見守ることにした。


「まぁまぁ。大森先輩、スポーツ推薦で大学に行きたいそうですね。南先輩のご両親は公務員でいらっしゃるとか。鹿嶋先輩は確か、家業をお継ぎになるのだとか」

「………」


 その華奢な先輩がとても静かな声で言うと、三人が放っていた荒々しい空気がしんと冷えて行く。サーッと、血の気が引いたと言う方が彼らには正しいのかもしれない。


「こんなところで暴力だなんて…。先輩方がそんな人間だったなんて知れたら、失うものは大きいんじゃないですか?」

「……ッ………」

「一発当たってるみたいですし。まぁ、ここで止めて頂けるんだったら、僕は見ていないことに出来ますけど?」

「………そいつが言うかもしれないだろッ…」

「………俺は別に言いませんけど?」

「…………チッ」


 三人は顔を見合わせて、非常に罰の悪そうな顔でズコズコと帰っていく。俺と華奢先輩はそんな彼らの背中が角を曲がって見えなくなるまで見送った。やがて華奢先輩がこちらを振り返り、改めて顔を合わせた。その胸に二年であることを知らせる緑色のネームプレートが光っていた。


「災難だったね、木野くん」

「………知ってるんですか、俺の事」

「そりゃ。君、新入生代表で挨拶してたでしょ?」

「…………」


 あんな挨拶、まともに聞いてる生徒なんて居たのか。

 

「なんで避(よ)けなかったの?」

「…見てたんですか?」


 先輩はこくりと頷くことで肯定する。

 

「ごめんね。殴られるところまでは間に合わなくて…。でも、君は完全に見きってただろ?避けることも出来たんじゃないの?」

「…まあ。先に殴られておけば、後は正当防衛とか言えるかなって…」


 馬鹿だなぁ、と先輩は笑った。


「喧嘩両成敗だよ。さぁ、保健室へ行こうか。手当てしなくちゃ」


 訪れた保健室は無人だったが、先輩は慣れた手付きで袋に水氷を入れ、殴られた頬をアイシングしてくれた。訊けば、保健委員なんだとか。


「ところで、今、悩んでることがあるんだけど……」


 水氷の入った袋を俺に渡せばいいものを、先輩はずっとそれを俺の頬に押し当ててくれる。されるがままに、向かい合って椅子に座っていたら、先輩が不意に切り出した。「悩んでいる」と言いながらもその顔はどこか淡々としていた。


「なんです?」

「公言しない、と約束してしまったけど、人を殴った人間にお咎めがないままというのは大変僕のポリシーに反するんだよねぇ…」

「………」

「君は殴っていないから。告発しても君は完全なる被害者なわけで。そうなると、やっぱり彼らは裁きを受けるべきだと思うんだけど。でも、約束を破ってしまうのも……うーん」

「………」


 どうやら本当に悩んでいるようだった。喋り始めてしまうと、眉を寄せて難しい顔をし、「うーーーーーーん」と長く唸った。


「………でも、告発したら先輩、報復されません?」

「報復?正しいことをしているのに、なんでそんなことに怯えないといけないの?」


 きょとん、と目を丸める先輩に、俺の方が目を丸くした。


「…………先輩って、友達少ないでしょ?」

「へぇっ?!何、急に。失礼だね。普通だよ」

「………へー……」


 頑固とか。気難しいとか。そういう類いの空気を感じる。けれど、得だなと思うのは、先輩の顔が可愛らしいところだ。これが本当に昭和の頑固親父みたいな顔付きだったなら、恐らく彼はクラスで大変浮いてしまっていただろう。皆、めんどくさがって近付かなかったように思う。

 『正しい発言』は時として、『集団の空気』を乱す。

 ただ空気が読めないのか、彼の強さなのかはわからないけれど、取り敢えずこの先輩はあの三年のセンパイ方を罰したいらしい。うーん、と俺の想像力を持って考えてみた。


「………もし告発して、彼らの未来が台無しになったら、…なんか、しんどくないです?」

「しんどいってのは、何が?それは、彼らが自分の力でどうにかしなきゃいけないことだろ?過ちを犯した以上、必要なことだ」


 僕には関係の無いことだ、と言い放つ先輩の目は冷たい色なんて感じさせなかった。何処までも真っ直ぐと、澄んでいた。『ただ、事実を事実として語っているだけ。』そんな顔だ。純粋なのだ。俺はこの人に興味が湧いた。


「そもそもさ、短絡的なんだよ。呼び出したのかなんなのか知らないけど、人を殴るなんて。隠し通せるわけがないのに。目撃したのが僕じゃなかったら、結局先生の耳に入ったはずだ」

「……」


 それはどうかな、と思う。人は皆、面倒な事には首を突っ込みたがらない。公にしたくない沢山の大人達の手によって、水面下で処理されてしまうようなことも多いだろう。


「………君はさ、自分が嫌いなの?」

「へぇ?!」


 今度は俺がすっとんきょうな声をあげる番だった。その問い掛けは脈絡がなく、突然だ。


「…なんで」

「だって、わざと殴られるなんて。やっぱり普通しないから」

「……」


 捉えどころがないこの先輩は、純真無垢な目をして、鋭い。洞察力に優れているのかもしれない。後、先程のセンパイ方の情報の正しさも、やはり普通ではない気がする。…彼は、何者なんだろうか…?


「俺の事より先輩の方が。何者なんですか?」


 おれは興味本位に、水氷を当ててくれていた先輩の手に自分の手を重ねてみた。しかし、先輩の表情は変わらない。俺の手が重なったことになんてまるで気が付いてないかのように、その首を傾げた。


「…何者って?取り敢えず、僕の名前は大善寺彼方(だいぜんじかなた)って言うんだけど…」


 カナタ。

 下の名前は大変可愛らしい響きを持っていた。上の名前なんて、“大善寺”。それはネームプレートの印字で知っていた。全然、彼の華奢さには似合わない仰々しい名前だなと思っていたけれど……。



 そんな出会い。

 それから、今に至る。

 あれから二ヶ月が過ぎたけれど、俺達の距離は大して変わらない。近付きも遠ざかりもしなかった。放課後のこの時間を、共に過ごすだけ。

 結局、あの三人のセンパイ方は別の暴力事件を起こして処罰されるところとなった。…らしい。俺には興味の無い話だった。

 先輩との放課後の時間。スマホ画面では動画を見たりネットサーフィンをしたりしていたが、大して意味のないことだ。俺は密かに、先輩を盗み見ていた。

 存外に長い睫。細く癖のある髪。茶色の強い瞳。日に当てられて光る頬の産毛。細い首筋。華奢な肩。制服の袖から覗く白い手首。ページを捲る細長い指。

 気が付けば好きになっていた。この人の事をもっと知りたいと思った。けれど、この沈黙の時間を愛しているせいで、彼と過ごす時間は大体会話をしない。

 彼の吸う空気を俺も吸っていると言う事実が、何よりも大切で尊い。


「彼方、帰るぞ」

「あっ、満春(みつはる)!」


 ガラガラ、と静寂を破る音がしてその扉の向こうにその人物が立っていたら、もうこの時間はおしまい。

 先輩は少しだけ頬を赤らめて、慌てて本を閉じる。


「………」

「…じゃあ、木野っ。ありがとう。僕、もう帰るからっ…」

「………サヨナラ、」


 いそいそと本を鞄に仕舞い込み、さっと駆け出す先輩。その背中が教室を出て、見えなくなるまで眺めた。いつも、そう。

 相変わらず、先輩の事はあんまり知らない。名前とクラス。保健委員であることと、小難しそうな本が好きなこと以外、更新された情報は一つだけ。



 大善寺先輩には、好きな人がいる。



 その事に気が付いたのは、直ぐだった。

 染めた頬を見て、「わっかりやすッ!」とつい口から零れた。授業中だったにも関わらず。「なんだぁー?木野。先生の教え方、そんなに上手いかぁー」と、数学のセンセイが拾い上げて、クラスが笑いに包まれる。ついでに次の問題を当てられた。前に出て解答し、自分の席に戻って座るとまた、窓の外を眺める。窓側の席でよかったなぁと思う。体育の授業を受ける先輩が見えた。

 

(………頭固いのに、あんなに柔らかく笑うんだ…)


 先輩の様々な表情は主に、彼の体育の時間に知った。

 会話なんて聞こえないのに、耳を傾ける。ああ、声が聴きたいなと思った。何故、後一年早く生まれなかったのだろうか…。気が付けばそんな風に考えていた。同じクラスになって談笑している先輩と自分の姿を想像した。

 この距離をもう少しだけ埋めたくて。俺は遂に、二年のクラスがある階まで訪ねた。見知らぬ人達の中で知った顔を探す。階段から近い一組から覗いて、二組、三組と歩を進める。


「あれ?木野くんじゃん」


 二年四組の教室を覗いた時、後ろからかかった声に振り返った。探していたままの姿で、彼が立っていた。


「先輩」

「久し振りー!誰か探してるの?」


 先輩を、と言えば「僕を?」と目を丸めた。


「あの日のお礼を、そういえばしていなかったなと思いまして…」


 探す理由として自然な言い訳は、事前に用意していた。「そんなのいいのに」と先輩は少しだけ困ったように笑った。「助けてあげられたわけじゃないし」と。俺がわざとだろうと一発殴られたのを気にしていたみたいで、少し意外だった。


「いえ。助かったのは変わり無いです。俺多分、センパイ方をボッコボコにしちゃって、今頃、謹慎処分とか受けてたと思いますから」

「あらら。もしかして僕、あの三人組の方を助けちゃったのかな?」


 ふふ、と笑う顔はちょっと愉快そうで、俺はくすぐったくなって身じろぎした。先程から、心臓の音が凄い。


(………なんだろ、これ……)


 もっと気軽に話せるんだと思っていたのに、言葉が喉をつっかえて出てこない。顔が熱くなり、喉が渇く。


「あ、の……。えっと、おれ……」


 どんな言葉を用意していたっけ?頭の中でぐるぐると考えたけれど、すっかり真っ白になっていた。こんなこと、今まで無かった。なんだこれ。俺の身に何が起こってるんだ?


「あれ?木野くん、もしかして、熱ある?」

「ッ…!」


 コツン、と徐に額に額を当てられて、息を飲んだ。顔が近い。息がかかる程の距離に、先輩が居る。


「……うん?熱はなさそうだね」

「………」


 不思議そうな顔が適切な距離に離れていく。俺は止められかけた心臓を何とか正常の脈拍に戻す為に、何度か深呼吸をした。


「…………天然なんですか?」

「何が?」

「………」


 その時、突然、「そこ、邪魔になるぞ」と声がかかり、「あっ」とした。先輩の後ろで知った影がぬっと伸びる。


「満春!」


 パッと明るく輝く先輩の表情をこんなに至近距離で見てしまい、「わっかりやすッ!」とまた叫んでしまいそうになった。『満春』と呼ばれた先輩は、そんな大善寺先輩の頭をひと撫でしてから俺に目線をやる。


「一年。どうしたんだ?」


 俺の青色のネームプレートを見て、満春先輩は首を傾げた。学年毎に階が決まっているので、廊下に違う学年がいるというのは珍しいことなのだろう。


「満春、この子、木野くんだよ。ほら、入学式で代表挨拶した」

「知らん」


 大善寺先輩は、ポスン、と後ろに立つ満春先輩の胸に体重を預けるように倒れ込み、後ろ向きのまま首を上げて満春先輩の顔を見上げる。「もう、満春はぁ~」なんて言う甘い声なんて、こいつら、付き合ってるのか?なんて思わせる。


「おいこら、教室の前でイチャつくな。邪魔だ、どけ」

「あぁ?邪魔とはなんだ?」

「あっ、正義(せいぎ)。ごめんごめん」


 次なる登場人物に、大善寺先輩は満春先輩の腕を引いてさっと道を開ける。邪魔、と言われた声に気を悪くした満春先輩は不満そうだが、大善寺先輩の横で大人しくした。道を開けられたその先輩は大善寺先輩を横目に、「その名前で呼ぶんじゃねえ」と投げ槍に呟く。しかし、俺を見て再び立ち止まる。…いやまぁ、俺が教室の入り口に立ちっぱなしだった為だけど。


「…ああ?なんだ、一年、なんか用か?」

「…イエ、」


 満春先輩よりも背が高いその人は、しかし「あ?木野じゃねぇか」と目を丸めた。あら、俺の事をご存知のようで…。俺ってば有名人。


「お前、生徒会に興味ない?」

「いえ。全く。全然。これっぽっちも」

「……そうか」


 気性の荒い人なのかと思ったが、俺の返答に苦笑いをして肩を落とす姿は全く威圧的なものを感じさせない。ギャップを持つ人間なのかもしれない。

 そんなやり取りに、予鈴が鳴る。ああ、結局、大善寺先輩と大して話が出来なかったじゃないかと恨めしく思った。


「あ、ごめん、木野くん。折角来てくれたのに。…良かったら、放課後にまた来てよ!」

「……放課後」

「話が途中だったから。良かったら!」


 じゃあね、と先輩は教室に入っていった。先輩方は次、移動教室なのかもしれない。教室にはいつの間にか人が居なくなっており、残っていた数人も、後ろの扉から去っていく。俺も急いで階段を下らなければならない。俺のクラスからこの教室は少しだけ距離がある。仕方無く、一旦別れることにする。

 その後、その日はもう授業なんてまるで身に入らず、放課後になるのをただ待った。



 そして、待ちに待った放課後。俺は再び二年四組の教室を訪ねた。

 窓側の席に座っていた先輩とは、此処が俺の教室であったなら、前後の席だった。なんかそんなところに変に運命を感じてしまう。俺は自然に上級生の教室に足を踏み入れ、当然の顔をして先輩の前のーーその席の椅子を引く。


「おっ。来たね」


 本を読んでいた顔を上げ、先輩は微笑んだ。「放課後、なんて言ってましたけど、俺が部活してたらどうしてたんですか」待ちぼうけじゃないですか、と言いながら腰掛ければ、俺の動きに合わせて視線が下り、「僕はいつも此処で本を読んでるから。その時は別に、いつも通りだよ。それに、部活をしてても君はそれならそう言う為に顔を出してくれただろ?」と首を傾げられて、ドキリとした。…俺、先輩の目にはそんな風に映ってるんだ。律儀な後輩クンだな、俺。


「それで、なんの話だっけ?」

「貴方にお礼がしたいなって話です」

「ああ。なんか、そんな話してたね」


 悪びれもなく先輩は笑った。射し込む日の光が彼を照らす。眩しくて、俺は目を細めた。


「別に、要らないよ」


 改めてそう言われて、俺は苦笑した。そんな一言で済むなら、放課後改めて会う必要なんてないじゃないか。


「…んじゃ、俺、また放課後、此処に来ます」

「え?なんで?」

「先輩のトモダチになってあげますよ。先輩、友達少ないし」

「だからっ!普通だってば!…でも、ふふ。木野くんと友達かぁ。いいね、なんだか。自慢できちゃう」

「……」


 本を口に当てて、ふふ、と笑うその仕草は何だか可愛らしくて。この人、わざとやってるのかな?と思う。言い寄ってくる女子のどんな仕草にも、こんな気持ちにはならないのに。


「……なんの本、読んでたんですか?」

「うん?」


 少しでも彼の事を知りたいと思った。分厚い本は、紙のブックカバーに包まれていてタイトルがわからない。


「犯罪心理学」

「えっ…」


 何か物語かなと訊いたのに、思いもよらぬその物々しいタイトルに、なんと返答していいかわからなかった。


「いや、この世には僕には理解できないことで溢れているから」

「………なるほど」


 何が成程なのか自分でも上手く説明出来ないが、兎に角、成程、彼はこんな人間なのかと思った。探究心や知識欲が凄いのだろう。中二病って説もある。


「……人はなんで、生まれてきたんだと思います?」


 不意に聞いてみたくなった。俺が常々思っている疑問。この先輩は、なんと返すのだろうか?

 先輩はふっと顔を上げ、何を当然のことを、と言うような顔をして、迷い無く言い放つ。


「男と女が居たからだよ」

「………」


 静寂に包まれたこの誰も居ない幻想的な教室で、その台詞は俗世そのもので、俺はつい笑ってしまった。先輩らしい、と言う程先輩を知らないはずなのに、その答えは凄く先輩らしい解答だと思った。


「人間は生まれた時から死に向かっているんですよ。なんで俺達は生まれたんでしょうね」


 それは俺のつまらない独り言だったけれど、改めて口にした。先輩はやっぱりキョトンとして、「子孫を残す為じゃない?」なんて言う。ああダメだ、通じない。俺はやっぱり、可笑しくて笑った。


「…先輩は、子孫を残すんですか?」

「………」


 少し意地悪な質問をしてみた。だって貴方は男が好きじゃないか、と思った。先輩は先程までとは変わって、苦い顔をした。それでも、言葉を紡ぐ。


「さあね。残すんじゃないのかな、いつかは」


 その未来に、貴方の幸せはあるんですか?と意地悪な質問を重ねてしまいたくなった。そうすれば、振り出し。「人間は何故生まれたのか」の答えはきっと、「子孫を残す為」ではない。


「………何か、楽しげだね」


 俺の思惑を察したのだろう、先輩は不機嫌そうに俺をじとりと睨んだ。そんな顔ですら、迫力に欠けていて逆にあざとく映る。俺は隠しもせずに愉快に笑って肯定した。


「先輩って、可愛いですね」

「へぇっ?!」

「また、別の答えを今度教えてくれません?いつでもいいから。一般論じゃなくて、先輩の答えを」

「………」


 この人がいつかこの問いに夢見心地な解答をする日を少しだけ想像してみた。彼をそんな思考回路にさせるのが俺だったらいいのに、と思った。先輩は恋をしていても、脳みそお花畑にはなっていないらしい。

 現実主義者なのに、男が好きだと言うちぐはぐな葛藤を、彼がどう受け入れているのかが知りたかった。


(……知りたいことばかりだ)


 じっと見詰めた先輩は、やっぱりキョトンと目を丸めて首を傾げた。その猫っ毛でふわふわと揺れる髪を触ってやったらどんな顔をするだろうか、と思った。俺がどんな言葉を紡げば、この人はその頬を赤らめてくれるのだろうか。

 それからは、なんでもない会話を何度か重ねた後、それぞれの時間を過ごした。

 部活動に励んでいるそれぞれの声や音がする。それはすぐそこのグラウンドから聴こえてきているはずなのに、静寂に包まれているこの教室は、やっぱりまるで俗世から切り離された世界のようだった。

 ふぅ、と密かに息を吐く。先輩の傍は、呼吸がしやすい。

 しかしやがて、ガラガラと音を立てて扉が開き、顔を出したその人物に大善寺先輩はいとも簡単にその頬を染めるのだ。


「満春っ…!」


 部活終わるの、今日は早いね!と、名残惜しさも残さずに本を鞄に仕舞い込む。「それじゃあね!」と俺にも、なんの名残惜しさも無くサヨナラの挨拶を告げる。


「…また、明日…」


 まるで恋人同士のように寄り添って歩く二つの背中を恨めしい想いで見送る。

 いつもその、繰り返し。月曜日から金曜日まで。俺と先輩の距離はいつまで経っても縮まらない。







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