1-3 鬼の遺痕

「……えっ?」


 顔に貼り付けていた笑みが、一瞬のうちに凍りついた。


 成美の台詞が怪談朗読に寄せられたあの不謹慎なコメントと一言一句違わなかったことに気づいたのだ。

 まさか。

 いや偶然の一致だろう。

 亜瑚が怪談朗読をやっていることを、成美は知らないはずだ。


「あんたのせい……そうよ……あんたの……」


 成美は丸めた背中でふらふらと近づいてくると突然、亜瑚の両肩をがしっと掴んだ。そして、

「あんたが……あんな話するから! ちぃちゃんは死んじゃった! 大好きなちぃちゃんが! どうしよう、どうしてくれる? ねぇ……ねぇ……!」

 一部意味の判然としない言葉を、壊れた機械のように喚き散らす。

「な、成美、ちょ、ちょっと、待って」

 驚き焦りながら、亜瑚は成美の捕縛から逃れようともがいた。しかし肩に食いこんだ指の力はおもいのほか強い。

 広間にいたひとたちが、廊下に頭を伸ばして亜瑚たちの様子をうかがってくる。

 すでに外に出ていた一春も、成美の声を聞きつけて玄関から顔を覗かせた。

「成美ちゃん!」

 一春は亜瑚の背後に回ると、その肩を掴む成美の手にそっと手を重ねた。

「落ち着いて」

 すると成美はやっと叫ぶのをやめ、亜瑚の肩を離した。息を荒らげ、獣のようなうなり声を発している。

「成美ちゃん、知景ちゃんとはずっと仲が良かったからショックなんやんな。亜瑚も気にかけたってな」

 一春が諭す。真面目で落ち着いた性格の兄は、けんかや揉め事の仲裁は得意分野だ。穏やかな声に亜瑚の恐怖もいくらかやわらいでいく。


 そうか。成美も知景のことが大好きだったもんね……。


 ふと床を見ると、成美の足元の床には数滴の涙が落ちていた。ぎぎぎ…と奥歯を鳴らすほど噛み締めて、泣いていた。

 成美に対する怖気と困惑が、憐れみに変わっていく。


「成美……」

 涙を拭ってあげようとして亜瑚はその頬に手を伸ばしたが、しかしそれは無碍に払われた。

 代わりに、成美の震える唇が放ったひとことによって、場は凍りついた。


「――一春さんは、ちぃちゃんの顔見て言えますか? あれが人間の成せる業やと」


 亜瑚と一春だけではなく、広間にいた親族たちまで皆、時を止めたように沈黙し、静止していた。

 冷え切った空気の中、成美は亜瑚を睨みつける。

 さきほどまでの悲痛な面持ちではない。怒りに満ちた形相で、


「あんたが忌み話を話したから、ちぃちゃんは死んだんや!」


 強い口調で糾弾する。

「い……いみわ……?」

 聞き慣れない言葉に首を傾げる亜瑚。成美は般若のごとく顔を歪めて、唾を飛ばしながら喚き立てた。


「ちぃちゃんはね、祟り殺されたんよ! あんたが!」


「鬼の話って……成美ちゃん……、それはどういう意味?」

 後ろで聞いていた時子が、声を震わせた。

「おばさん、こいつはね、舘座鬼家に伝わる鬼の言い伝えを……ネットで拡散しよったんよ」

 成美の指はまっすぐに亜瑚に向けられている。

「ネットて、インターネット? なんで、そんなこと」

 時子は理解が追いつかないようだが、それはこちらとしても同じである。

「ほ……ほんとなのか、亜瑚」

 唖然と突っ立っている亜瑚に一春が聞いてきた。冷静さを保とうとしてはいるものの、さすがに騒ぎがこれほど大きくなるとは思っていなかったようで、亜瑚と成美のあいだに挟まれ当惑していた。

「ええと、ごめん、心当たりがないんだけど。言い伝えのこと? それは別に――」

「とぼけるなぁ!」

 咆哮がとどろき、思わずびくりとなる。

「あんたが投稿したあの話は、話すと祟られる忌み話なんだよ!」

「投稿って……まさか、怪談の……朗読のこと言ってる?」

 場にそぐわないワードを口に出し、苦笑が漏れる。

 しかし成美は否定しなかった。

 どうやら亜瑚の怪談朗読動画の存在を、成美は知っているらしい。

 ――そこで亜瑚ははっとした。


「もしかして成美なの……? あのコメント……」


【Tちゃん死んじゃったよ。A子のせいで】


 さっきから成美は、亜瑚の投稿した動画についた不気味な文言と同じ内容を繰り返している。

 コメントが書き込まれたのも、知景の訃報を受け取るちょうど一日前だった。

 亜瑚の予想はだんだん確固たるものへと変わっていく。


「ど、どうしてあんなこと、書き込んだの?」


 薄気味悪さと憤りの混じった目で、亜瑚は成美を睨んだ。

 成美は否定しないが、応えもしなかった。


「……ねぇ落ち着きなよ成美。鬼に祟られるなんてことあるわけないでしょ」

 口調がきつくなる。だがそれは成美に正気に戻ってほしくてのことだった。

「たしかに、ほんとにあったちょっと怖い体験談は投稿したけど。鬼の話はそれのついでだし。話したら祟られる? いやオカルト映画じゃないんだから――」

「ちぃちゃんがそう言ってたんだから間違いない。忌み話を誰かにしたら鬼に祟り殺されるんやって、ちぃちゃんはいつも怯えとった。やのにおまえはそれをべらべらと、見ず知らずのヤツらに吹聴した。何百人も聞いてる前で。それで鬼神さまが怒ってちぃちゃんを殺したんや」

 成美はこちらの言い分を聞く気はないようだ。怨嗟の目を向けて淡々と話す。まるで子どものような稚拙な供述と、完全な言いがかりを。


「なんや、えらい怒って成美ちゃん」

 周囲がざわつき始める。

「鬼神さまの祟りやと」

 彼らはその話題に嫌に敏感だった。

 村の人間にとって、『鬼』は特別な存在なのだ。彼らが『鬼』と口にするとき、その響きには畏怖と怖気とが混じり合う。特にいまこの場に集まっているのは、村に長く住む年寄りが多い。『鬼』に対しては根強い信仰心があった。なにせそれを『神』と呼ぶぐらいなのだから。

「どうしてそんな恐ろしいこと……」

「前野ところの娘がなにかしたん?」


「亜瑚ちゃん、ねぇ……どういうことか説明して」

 よろよろと時子が近づき、骨の浮いた手で亜瑚はスーツの袖にすがりついてきた。泣き腫らした目は赤く、血走っている。

 亜瑚は自分が孤立してどんどん不利な状況に追いやられているのを感じ取った。

 ほの暗い恨みの込められた成美の言葉と、その背後から集まってくる非難めいた視線に身が竦んで、うまく言葉が出てこない。


「ねぇ……嘘やんね?」


 か細く弱々しい時子の声が、ひとしずくの疑念を孕んでいる。

 つられて、亜瑚の胸の中に焦りと不安が芽生えた。


 払いのけるように頭を振って、亜瑚はようやく喉の奥から声を絞り出す。

「知らない、知らなかった! 鬼の伝説がそんな、ほかの人に話ちゃいけないようなものだったなんて、知らなかったんだよ! 勝手に動画で話題に出したことはほんとに、ほんとうにごめんなさい! でも……知景はそんな、忌み話とか、ひとことも……」


「ちぃちゃんはあんたを信用してたからだろうね。でもあたしにはわかってたよ。あんたの本性を」

 話せば話すほど、成美は利己的な感情論に走る。

「あんたは、ちっさいころからいっつもそうや。いっつもあたしからちぃちゃんを奪う」


 ああなるほど。

 知景の死を受け入れるために、成美はどうしても私を悪者にしたいんだ……。


 幼い頃から三人一緒。でもあえてわかれるとしたら知景をのぞいた亜瑚と成美で遊ぶ組み合わせは存在しなかった。成美は自己顕示欲が強く、負けず嫌いだった。だから妹扱いできる知景のことは溺愛にも似た可愛がり方を見せたけれど、亜瑚とは意見が対立することもしばしばあった。

 長年内に秘めてきた小さな刃を、ここぞとばかりに亜瑚に向けてきているわけだ。


 あんな幼稚なコメントまで送りつけて。


 それがわかれば今度は逆に、成美の卑しい魂胆に腹が立ってきた。

 いくら泣き喚こうが勝手な言い分は通らないということをわからせてやらなければ。

 祟りだなんて誤解されたままでは、知景がかわいそうだ。

 亜瑚は冷めた目で成美を睨み返した。が、それより早く、

「おまえががちぃちゃん殺したんだよ!」

 と強く腕を掴まれた。

「なに!? ちょっと、成美!」

「成美ちゃん!?」

 一春が止めに入る間もなかった。

 成美はそのまま、亜瑚を広間の祭壇のほうへと引っ張っていくと、祭壇の前に安置された桐の棺の蓋をがばっと乱暴に外した。

「やめて成美ちゃん!」

 と時子が悲痛に叫ぶ。


 白い装束を纏った、子どもと見紛うほど小柄な遺体が、そこには収められていた。

 亜瑚になにかを感じる間も与えず、成美は遺体の顔面を覆う白い布を即座に取り払う。

「よく見ろ! これが鬼の祟りじゃないならなんなんだよ」

「やめてぇ!」

 時子の金切声が響き渡ったが、亜瑚には聞こえていなかった――その目に一瞬飛び込んできたものによる、あまりに大きな衝撃のせいで。


 潰れた大きな芋だと思った。


 崩潰して、腐敗して、変質した芋に見えたのだ。

 これがもともと人間の頭部だった物体だとは信じ難い。

 その顔面は、なにか外側からの強い力によって握り潰されているように見えた。

 瞼は接着剤で貼り付けたようにぴたりと閉じられ、眼窩は奇妙なまでに落ち窪んでいた。開けようとしたのを無理矢理閉じられたかのごとく大きく変形した唇のあいだからは、折れた歯が何本か飛び出している。中心の鼻だった突起はひしゃげて二つの穴が残るのみとなっていた。

 頭蓋の輪郭には、著しく潰れた凹みが何ヶ所かある。正確には五ヶ所だ。その箇所を中心に鬱血して青紫色がひろがっている。鬱血をたどると指の跡に溝が、大きな掌の造形が、顔面にくっきりと浮かび上がるのだ。


 ――まるで鬼の手形。


 巨大な鬼の手が、知景の頭部を握り潰して破壊したのだ。その痕跡は、あまりにもはっきりと残っていた。


 目の前の写真に写る、あどけなくも美しい笑顔を浮かべる少女のあまりの変わり果てように、


「嘘……ちぃちゃん………なの……? ……どうして……なによ……これ……」


 全身から血の気が引いていく。脚はがくがくと震えた。


「ああ……ぁああああぁ……あああ……っ」

 背後で時子が慟哭しながら、へなへなと膝から崩れ落ちる。

「知景……うっ、ああ……どうして……っごぁがッ……」

 嗚咽の最後は吐瀉物となって床にぶちまけられた。


 騒ぎは屋外に出ていた者たちにまで伝播しており、帰りかけていた弔問客のなかには再び広間を覗き込んでいる者もいた。

 その多くが知景の遺体を目にするのは初めてだったらしい。あちこちから慄く声と悲鳴が上がる。

 麻友と星麗南も、一春が遅いので様子を見に来ていた。麻友は首を伸ばして不躾に棺を覗き込むと、「うわぁ」と顔を歪めた。


「あんたのせいだ……」

 成美の、追い討ちの叱責が耳を抉った。


 胃の中のものが逆流してくるのを感じ、片手で口を抑えた。これ以上見るのは耐えられない。もはや立っていることはかなわず、木棺の縁に手をかけて膝を折る。


 ――とそのとき。


 白装束の袖胸の上で組んでいた青紫色の手がずるりと動き、自分の手の上に重ねられた。


 ぺたりと冷たくて、ゴムのような皮膚の感触に、亜瑚は絶叫した。 


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