1-5 時が止まった村

 早朝に目が覚めた。

 中学卒業まで自分の部屋だった和室は、久しぶりに一晩過ごすとこんなにも木の香りに包まれていたのかとおどろかされる。

 窓の外に目をやると、空は薄紫色にしらみはじめていた。ガラス戸を開けると、五月末でも肌に触れる風は涼しく、半袖では寒い。

 静かな空気に、ときおり甲高い鳥の声がこだまする。

 こういうのをいわゆる「爽やかな朝」と呼ぶのかもしれない。

 目の前には前野家の田んぼが広がっている。田植えはすでに終わり、青々とした稲が発芽している。子どもの頃はなにも感じないほどに見慣れていた風景なのに、いまとなっては幻惑的な美しさすら感じる。わずかのあいだに自分の感性はずいぶんと都会の人間に近づいてしまったようだ。

 ちょうど窓の下、一階には玄関がある。見下ろせば軒先に、赤いランドセルを背負ったおさなき日の幻影が浮かぶようだった。

 この部屋には知景もよく遊びに来た。いつも勝手に玄関を上がって、とん、とん、と軽い足音でゆっくり階段を登ってくる。それから障子の戸をばーんと勢いよく開けて、高らかに「亜瑚あそぼー!」と宣言するのだ。

 ラジオごっこと手品ごっこは定番で、そのほかにも亜瑚の家には、テレビゲームのソフトがたくさんあった。知景は意外と、一春のお気に入りであるSIRENやバイオハザードシリーズが好きだった。怖がりな亜瑚は絶対に手を出さないシロモノだったけれど、知景にいっしょにやろうとせがまれると、いいところを見せたくてプレイした。敵襲のたびに過剰な叫び声を上げる亜瑚を、知景はくすくす笑いながらながめていたっけ。


 ――あんたのせいだ。


 不意に成美の声が呪詛のように脳内にこだまし、思い描いた知景の笑顔が潰れて変色する。

 亜瑚はバタンと勢いよく窓を閉めた。


 そのままそこにずるずるとうずくまり、手近にあったスマホを取るとLINEの画面を開く。

 親戚に不幸があって実家に帰るため数日休むという連絡を、ゼミ仲間とバイト先と養成所には入れていた。

 曾祖母どうしが姉妹であるため嘘ではないとはいえ、これまで知景のことを親戚と呼んだことはなかった。こんなかたちでその関係を持ち出すことになるなんて悲しい。

 風花からは、【了解。無理せず気をつけて】と短くも労りの返信が返ってきていた。

 一昨日まで学校に行けば当たり前に会えた友人たちの存在が、急に遠くに感じる。


 この場所だけが世界から隔絶されて、時が止まったかのようだ。


「――ナレーターかぁ」

 中学のころ、この部屋で知景と将来の話をしたのを覚えている。

「亜瑚はラジオごっこが好きだったもんね。夢があっていいなぁ」

 その目はどこか遠くを見つめているようだった。

「ちぃちゃんは、やっぱり高校行かないの?」

「うん。遠くに行くのはよくないみたいやから。通信制とか、家庭教師とか? そういうので勉強して、高卒認定は取りたいと思うけど」

「そっか」

 知景は足腰が弱かった。体質的なものだという。特に中学になってからは症状が悪化していて、ひどいときには歩行に杖を要するときもあった。遠方の学校まで電車で通学するのも、下宿生活を送るのも困難だろうと、母の時子から許可が出なかったのだ。

 成美も高校からは村の外で寮生活だ。なんだか知景だけが取り残されてしまうみたいだ。知景がいない知らない街で、自分はやっていけるだろうか。ずっとそばにいたから、いないことが想像できない。

 心細さに俯くと、ふと知景がぽつりと口にした。

「ときどき全部壊してどっか飛び出してしまいたくなるんよ。足も頭も、動かなくなるぐらい遠くまで……。亜瑚と一緒に、高校行きたいな」

「行こうよ!」

 亜瑚はぱっと顔を上げた。それは自分がいちばん望んでいたことでもあったのだ。なぁんだ、知景も同じだったんだ。歓喜に胸が熱くなった。いまからでも遅くない。知景の身体のことはなんとか自分が支えるから。そうまでしても知景を連れて外の世界へ行きたい。

 だけど。

「――だから亜瑚もたまには戻っておいでな」

 屈託のない、でもどこか達観したような美しい笑みで知景は言った。

 その顔を見た亜瑚の心はすっと冷め、ものさびしい風が吹き抜けた。


「知景、待ってるから」


 思えばあのとき、知景はあきらめでも悲観でもなく、村から出る未来がないということをしずかに受け入れていたのかもしれない。

 知景の母・時子は、知景に対してすこし過保護だった。外で遊ぶときはかならず見張り、ほしいものはなんでもあたえた。

 ガラス細工の作品を愛でるかのように。

 鳥かごの中の鳥を一生懸命世話するように。

 大切に慈しんで育てていた。

 いまとなってはそれらが、外の世界では生きていけない知景を、必死につなぎとめておくための行為にも思えてくる。

 それは結局、失敗に終わったが。


「待ってるからね、いつも――ここで」


 時間の止まった鳥かごの中で、知景は亜瑚が帰って来るのを待っていてくれたのだ。


 それなのに。

 高校に入学した私は周囲に馴染むことに必死で、田舎者って舐められたくなくて陽キャ装って、面倒だからって、それほど帰省もせず、だんだん知景とも疎遠になって。

 その末路がこれ。

 知景が死んだのは私のせいだなんて言われてる……。


 ほんとうにそうかもしれない。考えれば考えるほど、どんどん自分に自信が持てなくなっている。代わりに、形のない罪の意識が膨らんでいた。


 ふと静寂を破り、バタバタと階段を下りていく足音があった。一春のものだろう。

 なに、もう行く時間?

 亜瑚はぼんやりとした頭でまたリクルートスーツに着替えた。知景の告別式は午前中に開場する。朝食を食べたらすぐ出発だろう。

 昨日、知景の遺体を前に地獄のような一幕があったから、村のひとたちや時子や成美にまた会うのはひどく気まずい。感情を殺して機械的に過ごすほかあるまい。

 重い身体を引きずって居間に顔を出すと、家族が神妙な面持ちで集合していた。

 食卓テーブルの上で両手の拳を握り、背中を丸めて微動だにしない父と、その斜め向かいで気だるそうに髪をいじる麻友。

 母は朝食の用意の途中で台所から出てきたようで、エプロン姿で佇んでいる。

 一春がいままで家族に向かって話していたようだったが、亜瑚を見ると口をつぐんだ。

 だれも亜瑚と視線を合わせようとしない。昨日のことで、どう声をかけたらいいのかわからないのだろうか。

 星麗南だけが和室から小走りに寄ってきて、「亜瑚ちゃん」と腕にひしとしがみついた。

「おはよう星麗南」

 亜瑚はすこしだけほっとして微笑んだ。


 しかしあとにはまた陰鬱な沈黙がおとずれる。


 だれもが気まずそうに視線を逸らすなか麻友が、亜瑚を横目で睨んで言った。

「正直に言うたらええんちゃう? なぁ。亜瑚も家族に隠し事されんのは嫌やろし」

「え?」

 亜瑚はなんのことやらわからずに、一春と両親のほうを順に見た。まるで罪を犯したかのごとくうなだれている。

 知景のために喪に服す空気だとしても、様子がおかしい。

「どう、したの?」

 恐る恐る亜瑚が尋ねると、一春が重い口を開いた。

「成美ちゃんが……」

「成美、またなんか言いに来たの?」

 亜瑚が尋ねると、また言いよどむ。

 窒息してしまいそうなほど重苦しい空気。

 一春は、必死に言葉を選んでいるようにも見える。


「なぁなんで教えたらんの?」

 もう我慢できないというように沈黙を破ったのはまた麻友だった。


「成美ちゃんが自分の部屋で首吊って死んどってんて! 亜瑚に教えたりや!」


「……え?」


 亜瑚は一瞬、頭が真っ白になった。


「どういうこと?」


 重ねた問いに、だれも答えない。


「――嘘、嘘でしょ?」


 亜瑚は完全にパニックに陥ってしまっていた。動悸の激しくなる胸をおさえながら、肩で息をすることしかできなかった。


 一春が首を振った。


「さっき警察が来て……昨日の夜中らしい」


 成美が、成美まで、なんで。

 首吊り? ってことは自殺? 意味がわからない。


 そのとき、

「のう前野の娘や」

 家の外で、誰かが叫んでいるのが聞こえた。

「久しぶりに帰ってきたと思ったらどないな災い持ち込んでくれとんねん」

 村の人たちが自分のことを責め立てにきたのだとわかった瞬間、亜瑚は血の気が引く思いがした。

 男の声も、女の声も、口々に囃し立てる。

「成美ちゃんも死んでもうたで」

「鬼神さまを怒らした祟りや、はよ出ていきや」

「鬼憑き女!」

「親不孝者」

「だいたいなんでおまえはなんともないんや?」

「ほうや、おまえは疫病神や!」

 ひとしきり騒ぎ立てたら飽きたのか、声は遠のいていく。が、亜瑚の胸には強い焦燥感が残された。


「あーあ、じーさんばーさんに嫌われた」

 麻友が他人ひとごとのように失笑を漏らす。

 一春が舌打ちし、星麗南は不安げな表情で亜瑚を見る。

「嘘、嘘だよそんな、あるわけないよ祟りなんて」

 亜瑚は震えながら頭を抱えてその場にうずくまった。

 塞いだ耳の向こうで、だれかの手が亜瑚の肩に優しく触れるのがわかった。

「ごめんね亜瑚ちゃん、知景ちゃんのお葬式は、亜瑚ちゃんお留守番していたほうがいいかもしれへんわ」

 亜瑚はゆっくりと顔を上げた。

「お母さん……?」

「ね、お父さん、お兄ちゃん」

 父は石像のようだ。ひたすらなにか考え込むように黙っている。代わりに一春が、険しい顔でうなずいた。

「ああ。いま亜瑚が出て行ったら、村のひとらになに言われるかわからんし……俺も正直、怖い。亜瑚、ごめんな。知景ちゃんに最後のお別れ、言えへんのつらいよな」

 その言葉の重みに鼻の奥がつんとした。

「かわいそうに、こんなことなって……わざとやなかったんやもんな」

 母の同情が追い打ちとなり、涙で視界が乱れた。

 ズキズキと、頭が痛む。

 罵倒する者も、同情する者も、知景と成美の死を、鬼の祟りのせいだと考えている。

 その状況が亜瑚にとっては絶望的だった。


 ちぃちゃんにさよならを言えない。


 そんな状況を作り出した周囲に対して、亜瑚はふつふつと怒りをおぼえた。

 本来なら、さっきの年寄りどもを追いかけて、一発怒鳴り返してやりたいところだ。

 しかし怒りはすぐに悲しみに押し潰され、底の無い沼に沈んでいくような感覚に陥る。元凶である成美が死んだせいだ。

 死んでしまったら、誤解を解くこともできないのに。

 首を吊るなんて。

 どうして昨晩命を絶ったの?

 知景の後追いのつもり?

 それともまさかほんとうに……。

 成美の死が超常的な力によるものだという可能性を、亜瑚は一瞬本気で考えかけていた。


 ぉぉ……ぉ……


 地鳴りのような音が、遠くで聞こえた気がした。

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