掌編小説・『聖なる木』
夢美瑠瑠
掌編小説・『聖なる木』
(これは今日の「木の日」にアメブロに投稿したものです)
掌編小説・『聖なる木』
昭和に生まれた僕は、幼少期の最初の記憶がすでにTVの画面である。
平凡な日常の中で、印象的な映像や事物が垣間見える、いわば「社会への窓」。
情報化社会の黎明期に、人々がこぞって集まり、夢中になった数々のコンテンツの中に、「映画」があった。
映画にもけして詳しくはないし、記憶力も貧弱で、漠然としたイメージばかりが明滅するのが過去を想起した場合の常で、なぜ、この記憶が?精神の中でどういう機序やら意味やらでそう配置されて原初的なものになっているかは知りようがないが、典型的な「原風景」のひとつが、「風と共に去りぬ」の一場面と思われる暗い風景の中に大きな家が聳えている、そのイメージなのだ。
割とステロタイプな、吸血鬼の古城?みたいな感じの古い邸宅が丘の上のほうにある、それだけの断片なのだが、ある独特な感情を伴って、その「古城」は精神の古層に厳然と聳えていて、ことあるごとにフラッシュバックする。
現実に「風と共に去りぬ」を見たのはずいぶん成長してからで、そういう幼少の記憶は生じようがないのだが、なぜかそれはハリウッド映画の最高傑作とされているらしいこのシネマとオーバーラップしていて、時々意味を考えようとしても、雲をつかむように漠然とし過ぎていて、「要するに記憶の錯誤」で、デジャヴとかと類似のくだらないものかもしれない。
が、それがつまり「ハリウッド映画」という、かつて全盛を極めていたアメリカ文化の精華の象徴、そのインパクトとか、最初にそういうものを見たときの時代精神とか雰囲気とかそういうものをひっくるめたある名残を意味しているなら、夢の残滓の分析のように、牽強付会に意味づけしうるかもしれない。が、ここで言いたいのは、「わからなくて」、「あやふや」でもなにか特別な記憶というのはあって、そこからストーリーを生み出すこともできそうな印象的な記憶というのはある、
それをなすことは、たぶん自分の精神の深い部分を言語化することになるかもしれない、例えばそういう空想である。
この文章を書くときに、冒頭で「聖なる木」というタイトルが浮かび、魅力的だと思っているとやがてそれがある英語の意味だと気が付いた。で、それらの諸々に思いを巡らせているうちに、点と線があるパターンを描くように、幼少期の記憶が甦ってきた…それは偶然の一回性のシナプスに生じた発火の連なりの描いた軌跡で、意味も、動機も判然としない判じ画であり、わからないことが取り柄のインクブロットのようなものだ。
だがそれは、やはり思考と美意識と抽象化能力を必要とする神秘的な作業ではある。
精神の秘蹟、小説を書くのはそれを探り出す儀式なのだろう。
聖なる木ーーーHOLLYWOOD
<了>
掌編小説・『聖なる木』 夢美瑠瑠 @joeyasushi
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