嫡男の誕生

 折角の凱旋もいきなりケチが付く形となったが、何も悪い報せばかりではない。中には良い報せもある。


 一番の良い報せは、やはり和葉が無事に出産を終えた事であろう。元気な男の子であった。待望の跡継ぎというのもあり、それはもう皆が喜んでくれている。和葉にしてもようやく肩の荷が下りたと思いたい。


 とは言え、生まれた子供は武家の嫡男だ。現代日本のように両親が育てるというのはさせてもらえない……というか、母上が当然のように取り上げた。和葉には寂しい思いをさせるが、俺自身も小さい頃は乳母に育てられた身である。遠州細川家がここまで大きくなったしまった以上は、外聞もあって武家の慣習には従うしかないのが実情だ。


 それに今回はアヤメの時のような難産ではなかったとは言え、和葉にとっては初めての出産である。心身共にかなり疲弊したのは間違いない。その状態でいきなり赤子の世話まで行わなければならないというのは酷ではある。十分な休息も必要であろうし、世話には経験者の手を借りなければどんな間違いが起こるとも限らない。そういった諸々の事情を鑑みて、和葉も何とかこの武家の慣習を受け入れてはくれている。気持ちでは納得できないにしろ、何より大事なのは子供の命という思いからだろう。


 アヤメの時は本当に酷かった。一歩間違えれば、母子共に亡くなっていたと聞かされたのを今でも覚えている。そういった意味でも大役を終えた和葉には、まずは自分の身を案じて欲しい。


 余談ではあるが、アヤメは出産後に杉谷家へ一時的に引き取られる形となった。目的は静養兼修行である。特にアヤメ本人が出産を甘く見ていたのをかなり悔いており、次の出産では三つ子でも四つ子でも問題ないくらいに体を鍛え直すのだとか。後は一日に最低五回は俺に抱いてもらえるように、エロさを磨くのだという (意訳)。


 俺も男なので、自分の前でだけ娼婦のように乱れるというのに興奮しない訳ではない。だがそれにも限度はある。あの搾り取られる日々は、もう二度と経験したくはない。次に会う時は何とか手加減してもらえるよう説得するつもりだ。


 それはさて置き南九州を征した当家は、四カ国持ちの大名にまで成り上がった。阿波南部や紀伊の一部、日向の一部も含めれば、実質五カ国を超えていると言っても差し支えない。


 結果、嫡男を育てる乳母の選定は一大イベントとなる。家臣は元より、商家や本願寺関連 (本願寺の僧は妻帯が許されている)、果ては接点の全く無い畿内の領主からも乳母を派遣する申し出が殺到したという。嬉しい悲鳴ながらも、そこまでして当家との伝手を持ちたいのかと呆れてしまった。


 そんな中、乳母は何と海部 友光かいふともみつ殿の正妻がその座を射止める形となる。何でも昨年に海部殿にも嫡男が生まれたらしく、母乳の出も良好なのだとか。昨年生まれた海部殿の嫡男は、乳兄弟として一緒に育てるのだという。


 ……と、ここでふと気付く。多分だが、海部 友光殿の正妻は自身の子供を自らで育てたかったのではないかと。当家の乳母という立場を利用して、取り上げられた子供を取り返したかったのではないかと。そうまでして自身の子供の成長を見守ろうとする、母親の愛情の深さを垣間見たような気がする。


 この顛末はこれで終わらない。乳母、乳兄弟と一気に当家との距離を詰めてきた阿波海部家にはもう一つの奥の手があった。


 それは、


「国虎様ですね。初めてお目に掛かります。ずっとお慕いしておりました。気軽に椿とお呼びください。本日を境に、これからは国虎様のお側に仕えさせて頂きます」


「間に合ってます。今、『初めてお目に掛かります』と言ったろうに。慕われる理由は無いな」


 目の中に入れても痛くないほど溺愛している妹を、俺の側室として寄越してくるという無茶ぶりである。当然ながら事前の話し合いを一切してもいなければ、俺は受け入れるとも言っていない。


 それに見た所、椿はまだ明らかに幼い。年齢はまだ数えで九歳だそうだ。現代で言えば小学二年生から三年生になるのだから、嫁入りには早過ぎる年齢である。


 加えて、今の発言に地雷臭さえ感じる。初対面にも関わらず、平然と「ずっとお慕いしておりました」と言うのは明らかにおかしい。君子危うきに近寄らず。これが最も正しい判断だと言える。


 しかし椿の方はというと、俺の反応など何でもなかったかのように持参した書状を渡してくる始末。差出人は当然ながら兄の海部 友光殿であった。


 その内容はと言うと、


「やられた。まさか一本の線で繋がっているとは思わなかった」


 直近の阿波海部家絡みの一連の出来事は、全てが三好への対抗策だと記されていた。


「これでお分かりでしょう。椿と国虎様は運命の赤い糸で繋がっているとしか考えられません」


「……ああ、そうね。その通りかもしれないな」


 俺が遠征で土佐を留守にしている最中、幾つかの事件が起こった。ならば当主不在であった阿波海部家にも、同様に事件が起きていたとしても何らおかしくはないだろう。


 堺が遠州細川家とは縁が切れていても、阿波海部家はその限りではない。それを良い事に堺の商家から贈り物や賄賂の嵐が、現在の阿波海部家中には吹き荒れているのだという。


 目的は親三好派閥の多数派工作だ。


 阿波細川家から離脱して当家に臣従した阿波海部家は、阿波細川家や三好宗家を友好勢力とは思っていない。むしろ当家に追随する形で敵対視している。一見すると、この堺の行動には何の意味があるのかと首をかしげてしまうだろう。


 だが阿波海部家には、一つのアキレス腱があった。それは海部 友光殿の父である海部 親光かいふちかみつ殿が、三好 元長みよしもとながの娘を継室として迎えている事実である。その娘である椿は三好 長慶の姪に当たる。だからこそ、三好 長慶の息子の正妻候補として一度は名前が挙がった。


 ここまで分かれば話の流れは掴める。


 つまり三好宗家は縁者を名目にして阿波海部家に支持者を増やし、再度自陣営に引き込もうとしていた。その証拠に、椿や海部 友光殿の嫡男には三好宗家から婚姻の話が持ち掛けられているのだという。


 何故、裏切り者とも言える阿波海部家に対してこういった多数派工作をするのか? 一つには当家の弱体化を狙ったものだと思われるが、それ以上に重要視しているのが、


「まさか、備後国戦線での周防大内すおうおおうち家の巻き返しに警戒を強めているとはな」


 実質は安芸毛利あきもうり家が備後国で出雲尼子いずもあまご家を圧倒しているとの話であり、このままの勢いなら備後国や備中国を平定してしまうと予測しているらしい。そうなれば陶 晴賢すえはるかた (大寧寺の変後に名を改めている)が上洛行動を起こさないとも限らない。その対抗策の一つとして、五〇〇〇の兵を簡単に動員できる阿波海部家の力を欲したと考えられる。


 勿論、阿波海部家家臣も顎でこき使われるだけであれば、派閥も広がりはしない。しかし三好宗家は、今や京を押さえた上に摂津国を領国化している身だ。三好 長慶みよしながよしの弟である阿波三好家や淡路安宅あわじあたぎ家を加えれば、畿内随一の勢力にまで成長している。阿波海部家が離脱を決意した江口の戦い以前の力とは雲泥の差がある言って良い。ならば、その権威と銭の力に取り入りたいと考える者が出てもおかしくはないというもの。


 そのため、海部 友光殿が自身の息子や妹を政治利用されないようにと土佐に避難させたのが、今回の出来事の真相であった。例え家臣達が暴走して勝手に三好宗家と婚姻の話を進めようとも、そもそも二人が土佐にいるなら成立しないという考えである。


「大変だったな。家臣の裏切り……は表現としては大袈裟か。その家臣から見れば、当家の下にいるよりも三好宗家傘下の方が利があると思っているだけだしな。その家臣によって、もう少しで三好宗家に輿入こしいれさせられる所を何とか逃れた訳か。母上には経緯を話しておく。生活には不便させないから安心してくれ」


「はい。ありがとうございます。では本日より国虎様のお住いに住ませて頂きます」


「気持ちは嬉しいが、まずは俺の母上に挨拶してからだな。経緯から考えれば、椿は多分母上預かりになると思うぞ。いきなり俺の元に来れば、阿波海部家内に混乱が起こる。椿も敬愛する兄上に迷惑を掛けたくはないだろう」


「そ、それは……その通りです」


 最初は椿の押しの強さについつい拒否反応を示してしまったが、海部 友光殿の書状には側室入りまでは書かれていなかった。つまり、三好の魔の手から守るために保護するだけで良いのだろう。椿は海部 友光殿が目の中に入れても痛くないほど溺愛している妹だ。勢いで俺の元に嫁がせる筈がない。しばらくの間は観光気分で土佐を満喫してもらい、阿波海部家中から三好宗家との繋がりを完全に排除すれば帰国する。これにて一件落着である。


「興味本位で申し訳ないが、知っているなら教えてくれるか? 椿は三好宗家の誰の元に嫁がせる話が出ていたんだ? やはり三好 長慶の嫡男か?」


「確か……三好宗家の方ではなかったような。うろ覚えですが、長宗我部という名だったと思います」


「あー。それは海部 友光殿が全力で拒否するのが分かる。教えてくれてありがとうな」


 人というのは現金なもので、当事者意識が無くなると気持ちに余裕が生まれる。俺の場合はこんな時、野次馬根性が出てしまうのが悪い癖だ。軽い気持ちで尋ねたものの、ここでまさか長宗我部の名前が出るとは思わなかった。


 さすがは土佐の出来人と言うしかない。阿波三好家でも頭角を現し、三好宗家にも認められる。空恐ろしいまでの才能の持ち主と言える。


 このままならいずれ、俺の前に立ち塞がる存在となるのは間違いない。三好宗家だけでも厄介な存在だというのに、それに長宗我部家まで加わる。どうしてこうなったのか。


 自分の撒いた種だと分かってはいても、気が付けば溜息がこぼれてしまっていた。



▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽



 嫡男の誕生は純粋に良い報せとは言えないながらも、こちらは手放しで喜べる報せである。それも、長年の成果が実った形となれば嬉しさもひとしおだ。


「よく決断してくれた。当家への仕官、歓迎するぞ。その力を十分に発揮してくれれば、出世も思いのままだ。活躍を楽しみにしている」


 目の前にいる安国寺 恵瓊あんこくじえけい (本来は瑶甫 恵瓊ようほえけいだが分かり易いこちらを採用)を筆頭とした元安芸武田家関係者の面々。伊予国攻めで武田 信実たけだのぶざねを活躍させた理由がこれであった。鉢屋衆が安芸国にもいたという事実も、この者達と当家を結んだと言って良い。俺の書状を携えて直接勧誘を行ってくれたのだから、頭の下がる思いである。


 とは言っても、この場にいる元安芸武田家関係者は安芸品川あきしながわ家の一党のみだ。安芸国はあの毛利 元就もうりもとなりのお膝元なのだから、派手な活動はできない。元安芸武田家の水軍衆には接触すらできなかったという。良い返事まで貰えたのが、出家していた安芸武田家の一族である安国寺 恵瓊や石見いわみ国に逃れていた安芸品川家であった。他の接触できた関係者は、毛利 元就を恐れて断るか無視されるかのどちらかとなる。


 ただそれでも、安国寺 恵瓊を勧誘できたというのは大きい。安国寺 恵瓊は黒衣の宰相とも呼ばれ、安芸毛利家では外交僧として活躍した人物だ。相当に頭が切れるのは間違いない。脳筋ばかりの当家にとって喉から手が出る程欲しかった人材である。しばらくは俺の右筆として働いてもらい、いずれは政全般を統括する立場になってもらおうと考えている。


 谷 忠澄たにただすみの弟である滝本寺 非有たきもとじひゆうもかなり優秀な人材だと報告が上がっており、この二人に任せれば当家は安泰だ。俺も楽ができるというのである。楽しみでならない。


 安芸品川家に於いては、中平 元忠なかひらもとただの元での再教育となる。武闘派で鳴らした家だけに、まずは当家の戦のやり方に慣れてもらわなければならない。


「それにしても、石見国では昨年から反乱が起きていたとはな。その戦禍の中を潜り抜けて当家まで来てくれたのだから、ありがたい話だな。いや待て。それをまだ鎮圧できていないというのはどういう意味だ? 周防大内家は上洛を目指しているんじゃなかったのか?」


「はっ。それに付きましては、挙兵した石見吉見いわみよしみ家の城が石見国奥深くの山間部にあるというのが考えられます。反乱の規模も大きいものではありませんので、大勢に影響は無いと見たのではないかと」


「なるほどな。陶 晴賢は末端の小勢力の鎮圧は後回しにした訳か。それよりも他に優先するものがあるだろうしな。で、理屈は分かるが、その後始末をさせられる現場は堪ったものではないと。それが当家を頼った理由か」


「援軍も無ければ支援も無いのは、挙兵した石見吉見家だけではなく当家が頼った石見益田いわみますだ家も同じです。大寧寺の変に協力をさせられ、今度は反乱分子の鎮圧をさせられでは、使い潰されてしまうのが見えております。それに嫌気が差し申した」


 何とも杜撰な。現状の周防大内家がどうなっているかを、石見国からやって来た安芸品川家当主の品川 員永しながわかずながに聞くと予想外の話が出てきた。備後国の戦線とは随分な違いである。


 大寧寺の変はかなり用意周到に行っていた点から、陶 晴賢は緻密な行動を好むと思っていただけに印象ががらりと変わる。現状、陶 晴賢には反乱を鎮圧する余裕が無いのだろうか? もしくは反抗した石見吉見家の力を過小評価しているかになる。どちらにせよ、陶 晴賢は戦は上手くないというのがこの対応だけで分かる。


 幾ら根回しを十分に行ったとしても、謀反という大それた行動をしたのだから全員が従う訳がない。必ず反乱する者は現れる。求心力を失わせないためには反乱を速やかに鎮圧するのは必須だ。なのに反乱を起こされてから一年も経過している。これは、囲んで兵糧攻めもできていない証拠だ。つまりは、謀反成功後に挙兵する者が出るとして事前準備していなかったという意味になる。


 この計画性の無さを見れば、上洛はほぼできない。最悪の事態を想定しない性格なのだろう。これなら突然勢力図が変わった伊予国への対応さえも無理だというのが分かる。


 どうやら当家は、もう周防大内家の脅威には怯えなくて良いらしい。品川 員永の話はある意味朗報であった。

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