初対面

 意外な話ではあるが、遠州細川家が中村の町を焼いた件に付いては対外的な影響を未だに確認できていない。それは数か月経った天文一九年 (一五五〇年)となっても継続中である。幾ら戦に明け暮れる時代とは言え、単なる荘園横領に留まらず放火に虐殺まで行ったのだ。通常なら何らかの非難が起こるのが筋というものだろう。それが何故か起こらない。


 領内に於いては、「土佐一条家の責任だ」という良く分からない風評になっていると和葉が教えてくれた。いつもながらの忍びの無駄遣いではあるが、俺が本拠地としている城の料理番その他の雑事は杉谷家に関わる者達が全て携わっている。暗殺や間者対策であるのは言うまでもない。そんな彼らを使って和葉が城下の風評を探らせた所、殆どがこれであったらしい。中にはやり過ぎとの意見もあったようだが、表立った批判は無かったという。


 こうした意見は従属している雑賀衆も同じであった。しかも根来寺に至っては、津田 算長を通じて復興資金の融通まで申し出てくる。腹の内はさて置き、表面上の態度は皆変わらない。


 予想外の反応だったと言えよう。


 幡多郡の民も同じくだ。この風潮に異を唱えない。一部は利権絡みで土佐一条家残党や反抗的な寺社と手を組み敵対するものの、多くは遠州細川家の支配を受け入れる。ゲリラ化するなど以ての外であった。


 焼き討ちによって家を追われた民達も積極的に長屋建設に協力し、本願寺治水部隊の手伝いにも参加し、この地で新たに興す製鉄事業を歓迎する。これが現実であった。


 復興作業に携わる者達には食事の提供と共に賃金を多めに手当てする。こうした配慮が懐柔へと繋がったのだと思われる。下田港に日々降ろされる物資が幡多の民の心を掴んだのは言うまでもない。


 とは言え、全てが順調に進む筈がない。こんな時ほど予期せぬ出来事が起こるのが世の常だ。


 端的に言えば、幡多郡は寺社の数があり得ないほど多かった。大袈裟に言えば現代のコンビニ事情とさほど変わらない程である。とにかくそこら中に点在し、まるで地域一番店でも目指しているかのような状態であった。


 この辺りも土佐一条家との相容れなさだ。


 日本で長く続いた荘園制度、その末端の管理を担っていたのは寺である。土佐一条家はそうした旧来の体制を放置したまま幡多郡で根を下ろしていた。荘園管理を目的として下向したのであれば、統治の実権を握る目的や行政コスト軽減のためにも寺の統廃合を行うべきであるが (統廃合の際に従順な者をトップへ据える)、そのままとする。これで直接統治というのだから呆れるしかない。


 つまり俺達は、土佐一条家の負の遺産を背負わされた形となった。


 まだここでいつもの寺社領接収に、結託して抗議でもしてくれたならどんなに楽だったか。小躍りして破壊の限りを尽くしただろう。ただ残念ながら今回は焼き討ちが脅しとなり、表面上は反抗をしようともしない。渋々ながらも要求に応じる。


 この事態に俺は頭を悩ます羽目となった。


 それは、寺社領接収に合わせて出す補助金が桁違いになると判明したからである。領地買取という一度限りの支払いなら何の問題も無いが、これが通年出費となれば負担は重く圧し掛かる。


 さすがに今回は乱暴な手段を使わざるを得ないと覚悟した。


 参考までに、史実の長宗我部 元親が幡多郡で寺社に対してどういった措置を取ったか親信に尋ねてみると、予想通り数を四分の一程度にまで減らしたらしい。寺社の建立に熱心であったあの長宗我部 元親でさえこの状態には辟易したのだろう。その気持ちはとても良く分かる。


 ならば遠州細川家は長宗我部 元親の上を行く。五分の一以下にしようと決断した。この地での俺の評価は駄々下がりしてストップ安の状態だ。現状は復興作業というサーキットブレーカーを発動してはいるものの、これ以上落ちた所で誤差である。反転するには事業が軌道に乗るまでの時間が必要だ。今の内なら多少の無理も押し通せる。毒を喰らわば皿までの精神とも言えた。


 だがそう決断した統廃合は、思わぬ形で決着をする。これもある意味幡多郡の特殊性ではなかろうか。


 幡多郡には、足摺岬の近くに金剛福寺こんごうふくじという平安時代前期から続く由緒正しき寺がある。歴代天皇の祈願所とされただけではなく、逸話は数限りない。天文 (一五三二年から)に入ってからは親王が住職を務める程でもある。


 そんな金剛福寺がすっかり荒廃していた。平たく言えば、修繕しようにも金が無い。金策を行っても金が集まらない状態である。


 しかも幡多郡に点在する寺の多くは、この金剛福寺の系列でもある。


 碁盤の目だと中村の町の栄華を誇っておいて、荘園管理の大元の窮乏を放置していた杜撰さには呆れるしかないが、これは幸運であった。交渉材料として大いに活用をさせてもらう。


 簡単に言えば補助金の増額だ。その代わりとして末寺の破却を命じる。選択と集中という言葉の典型的な悪用と言えるだろう。


 「寺領の接収による補助金はここまでしか出せない」と普段よりも低い金額を提示して、「けれども系列の末寺を破却するなら上積みをする」という手法だ。当然上積みする金額も、雀の涙程度に低く設定する。金額の低さは、解体費用その他の経費を差し引いた分だと説明すれば良い。一時的に必要な金額と継続的に必要となる金額を混同させた詐欺的な手法である。


 こんな真似をすれば相手から相当な疑いの目を持たれるだろうが、破却した寺の僧侶の面倒はこちらが見るとなれば目を瞑るしかないのが実情でもあった。必要に迫られて組織の拡大を行ったは良いが、退くに退けない状況に追い込まれていたのだと思う。


 ともあれ、金剛福寺は俺達の要求を受け入れる形となる。


 中にはこの決定に不満を露わにして、浄土真宗に鞍替えすると下間 頼隆殿を通じて本願寺を頼ったり、浄貞寺や吸江庵を頼りにする寺もチラホラとは出た。だがこうした短絡的な行動は、後が続かないと深く後悔するだろう。俺としてはそこまで問題視するつもりはない。


 誤算があったと言えば、この件を利用して本願寺系列の末寺が幡多の地でしっかりと根付いてしまった事であろう。俺との軋轢を起こしたくないとの名分で寺の責任者を変える。建物の維持は門徒からのお布施で賄うらしい。相変わらずのしたたかさでお見事と言うしかない。


 こうして多少の問題点は起こりながらも、幡多郡は土佐一条家残党や反乱分子の鎮圧と並行しつつ、中村の町の復興は進む形となった。


 大量にいた土佐一条家関係者も豊後大友家に片道切符で送り出す。これは土佐一条家新当主の母親が豊後大友家出身という理由で決定した。


 豊後大友家は現在お家騒動によって混乱期の真っただ中だと言っても、土佐一条家という肩書があればそう邪険にも扱えない。例え肩身の狭い思いをしても、生きていくのならば何とかなる筈だ。


 幡多郡は五年後、一〇年後には、足摺岬や幡多鉱山から採れる砂鉄を使った製鉄の一大生産拠点へと生まれ変わる。しかもこの地は、四万十川を利用した木材の集積場所として発展した経緯もある。燃料の確保に一切の不安が無いのが大きい。更には外港としての宿毛港に四万十川下流にある下田港と、物資の搬入・搬出にもとても有利な立地でもある。


 土佐一条家が堺の商人と通じて発展させたのは今は昔。今度は遠州細川家がこの地を発展させる。


 民にとって為政者に求めるものは生活を安定させてくれるかどうかだと、それを証明するつもりだ。



▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽



 天文一九年 (一五五〇年)という年は、畿内でも一つの区切りとなった。この年の三月に晴元派として最後まで摂津国内で踏ん張っていた伊丹 親興いたみちかおきが和睦をし、摂津国が三好 長慶に平定される。


 またこの年の二月には、前公方である足利 義晴が京奪還の拠点として慈照寺裏山に中尾城を築くも、既に三好宗家は洛中を掌握している。この事実から、畿内における対立の構図が逆転した形となる。タイトルホルダーが三好宗家へと移行した。


 山城国が未だ情勢が定まらないために上洛は実現しないとは言え、この結果細川 氏綱殿の京兆家家督継承に王手が掛かる。長年の悲願が達成するのも近いとなれば、一度氏綱派を集めてこれまでの苦労を労いたいと考えても不思議ではない。


 俺が行った支援はほぼ細川玄蕃頭家のみだとしても、その細川玄蕃頭家が長期間細川 氏綱殿を支えてきた。そういった手前、義父上の功績を称えるとなれば、物資面で支えてきた遠州細川家を袖にするという訳にはいかないというのが実情であろう。


 要するに俺は義父上のおまけとして細川 氏綱殿より招待を受けた。


 そうであるなら謁見自体も堅苦しいものではない。義父上の後ろに控えて大人しくするだけだ。氏綱派の中心人物である三好 長慶や遊佐 長教殿、内藤 国貞殿達の顔を見る絶好の機会でもある。しかもその場所が、摂津国内というのもありがたい。


 こうした軽い気持ちで参加したのが運の尽きであった。


 場所は摂津国は中島城の一室。中央には細川 氏綱殿、右にはその家臣達、左には三好宗家の連中が勢揃いする針の筵のような場所へと誘導される。


 不幸中の幸いは隣に義父上がいる事だろう。そのお陰で受ける圧が幾分かマシになる。


 右側からの好奇の視線はまだ良いとして、問題は左側から突き刺さる怨念の視線だ。特に三好 長逸の目は明らかに血走っていた。視線だけで人が殺せるなら間違いなく俺は死んでいると言える。


 それが針の筵となる理由であった。祝いの席だというのに何かが間違っている。


 けれどもそうなるのも仕方ない、そんな流れであった。


「ふむ。そなたが遠州細川家当主 細川 国虎殿か。一度その顔を見ておきたかった。想像通りの精悍な顔付をしておるな。お主が居なければ儂はこの場にいなかったやもしれん。感謝しておる」


「……細川 氏綱様、お言葉は嬉しいのですが、事情が掴み切れません。よろしければ私が何をしたか教えて頂けますでしょうか? 恥ずかしい話ですが、私は功労者と言えるような働きはしていないと認識しております」


「玄蕃殿、遠州殿はいつもこうなのか? これでは謙虚を通り越して滑稽ですらあるぞ」


「婿殿はつい最近まで土佐統一に集中しておりましたからな。それが原因と思いまする」


「確かに。中村の町を焼いたのは儂も聞き及んでおる。そこに至るには相当な苦悩があったのであろう。その心労が祟っておるやもしれぬな。焼き討ち自体の是非はこの場で問わぬから安心致せ。それで遠州殿よりの問いだが、舎利寺の戦いでの支援と三好殿への誘いだな。どちらも結果的には勲功とは結び付かなんだが、お主の働きが大きかったのは誰もが認める所だ」


「……そこまでは考えが至りませんでした。お答え頂きありがとうございます」


 要するに俺の評価は三好宗家への嫌がらせが主な理由らしい。特に後者の氏綱派への転向の誘いは三好 長逸が当事者だ。三好宗家の面目を潰したのが俺の功績となったのであれば、一言言いたくもなる。それをグッと堪えているのが現状なのだろう。


 ただその中にも一人だけ微動だにしない人物がいた。


 年の頃は俺よりも一回り上か。太く凛々しい眉と猛々しさを感じさせる目でありながらも、それを理性で飼い慣らしているかのような雰囲気である。細川 氏綱殿が貴公子然としているのに比べて、騎士のような礼儀正しさがある。


 名前を聞かなくても分かった。この人物が後に副王とも呼ばれる三好 長慶であろう。抜きん出て存在感が違っていた。


 俺の視線に気付いたのか、三好 長慶が俺に顔を向け口元を綻ばせる。その余裕の態度は貫禄の一言であろう。これまでの土佐統一過程の中で俺も海千山千の者達と鎬を削り強くなった。そう思っていたのが嘘のように感じてしまう。所詮は鳥無き島の蝙蝠なのかもしれない。


 世の中上には上がいる。素直にそう思った。


「……遠州殿、聞いておるか?」


「申し訳ございません。今一度お話頂けますでしょうか?」


「良い良い。未だ土佐一条家との戦いの疲れが残っているのであろう。そういった訳でな、玄蕃殿と遠州殿には何か褒美を与えたかったのだが、如何せん二人は少しやり過ぎたというのもあって、領地や守護代の役職を与えようにも叶わなんだ。此度は太刀を贈るので、これで許して欲しい」


『ありがたく頂戴致します』


 この結果は予想の範疇である。太刀を頂けるだけ幸運であった。


 元々義父上は細川京兆家による政権運営の中枢に復帰するのを狙っていた節があるが、幕府にも公家にも嫌われている現状では仕事もままならない。それならば新しく得た領地の経営に専念するのが合理的である。そもそも細川玄蕃頭家が中央に進出したのは、領地を持っていなかったからだ。現状は原点に戻ったとも言えるだろう。


 俺に於いては役職や官位等には一切興味が無いというのもあり、今更でしかない。


 結果、不満一つ唱える事無く、俺と義父上の二人共が笑顔で太刀を拝領する形で滞りなく終わった。


 ただ、細川 氏綱殿はこの反応に気を良くしたのか、もう一つ爆弾を投げ込んでくる。それは勿論、遠州細川家と三好宗家の関係性であった。


「……時に遠州殿、この日を境にして三好宗家と同盟をせぬか? それが叶わぬとも、せめて今年で切れる停戦の延長をしてはどうか?」


「それはどういった意図でしょうか?」


「なあに晴元一派を京から追い出したとは言え、未だ滅ぼした訳ではない。いずれは京に雪崩れ込んでくるであろう。そんな時に背後が騒がしければ、京を守るに守れないと三好殿が言うのだ」


「なるほど。一理ありますね。ですが、これはすぐに決められる内容ではないと細川 氏綱様もご存じの筈です」


「それはどういう意味か?」


「氏綱派の誰もが覚えていると思われます。享禄四年 (一五三一年)に細川 高国様が誰に敗れて討ち死にする羽目になったかを。その息子が今回の戦いでの功労者とは言え、完全に信用するには時間が必要かと思われます」


「確かに……言い分には一理あるな」


「ありがとうございます。ですので、抑止力として現状を追認して頂ければと思います。もし良からぬ動きをすれば、当家が背後を突く。そうでなければ何も無い。これでどうでしょう」


「抑止力とは面白き事を言う。遠州殿の意思が固いのは分かった。これは我が義父上への忠義の証であろう。頼もしく思うぞ。これなら晴元方への転向の心配も無さそうではあるな」


「ご安心ください。そもそも当家へ晴元陣営からの誘いは無いでしょうから。それに義父上が絶対に許しません」


 ──この時、俺は細川 氏綱殿の肝の太さ、いや盟主としての器の大きさを実感する。


 俺の言葉は平たく言えば、「三好はいつ裏切るか分からないから同盟も停戦もしない」という明らかな挑発である。以前に石成 友通殿とは停戦の約定を交わしたが、その時には延長は考えていないと伝えた。その気持ちは今も変わっていないという態度を明らかにした形とも言える。


 ただ、この場でそれを言えばどうなるか? 部屋の中は一斉に怒号が溢れ返る。この中島城は三好宗家の領域だ。部外者が好き勝手すれば生きては帰れない。


 そんな場所で平気でこうした発言をする俺もどうかと思うが、驚いたのがそんな一触即発の状態を意に介さずに細川 氏綱殿は会話を続けた。怒号をまるで鳥のさえずりかのように右から左へと受け流す。


 この姿に三好宗家の家臣達は次第に声を静めていく。仮にも盟主と擁立する人物に無視をされたのが恥ずかしくなったのであろう。


 見た目からは芯の強そうに見えない細川 氏綱殿の中身はまた別物であった。少しの事では動じようともしない。伊達に長い年月辛酸を舐め続けた訳ではないのだと分かる。


「この話はこの辺で良いでしょう。それよりも是非私に舎利寺の戦いで細川 氏綱様がどのように戦ったかをお聞かせください。私はあの時のご活躍があったからこそ、今日のこの日があると思っています」 


「遠州殿にそこまで言われては断れぬな。功績を儂が独り占めしたようで気が咎めるが、話して進ぜよう」


 だからという訳ではないが、この場を収めてくれたささやかなお礼として武勇伝の話を振る。何となく分かった。俺が評価されたのは、この戦が細川 氏綱殿の中でも思い出深い戦なのだろうと。


 折角の良い日だ。余興に付き合うのも、そう悪いものではない。

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